釜石の日々

中国の晋の内乱の時代

今朝も広く青空が広がり、放射冷却で水たまりは凍っていた。しかし、昼前から空を雲が多く流れるようになり、日射しが遮られることが多くなった。ようやく午後も遅くなって来て、再び日射しが戻って来た。昼休みに職場の近所を歩くと、やはり、いつもの空き家の庭先で福寿草が咲いていた。そこから少し山に向かう道を進むと、八幡神社があり、その側の梅も咲き始めて来ていた。白梅と枝垂れ紅梅が見られる。 昭和62年に津軽書房から出版された山上笙介編『總輯東日流六郡誌』の「荒覇吐王国之建国」では安日彦、長髄彦兄弟をそれぞれ王、副王として荒覇吐王国が兼ごくされたのが、唐土東周の恵王甲午二十五年とあり、西暦では紀元前649年となっている。安日彦、長髄彦兄弟は難を逃れて津軽に漂着した中国晋の群公子の娘、秀蘭・芳蘭姉妹をそれぞれ娶った。以前、当ブログでは中国晋の群公子が津軽に漂着する原因となったと考えられる「驪姫の乱」を紀元前672年としたが、荒覇吐王国の建国の紀元前649年とは少し離れているため、今一度調べてみた。その結果、「驪姫の乱」は紀元前656年であった。晋では驪姫の乱の後も、国は内乱が絶えず、太子以外の公子たちは国内に留まることを許されなかった。驪姫を寵愛し過ぎた献公の妃たちは、それぞれ子がいたが、後に文公となる公子以外は非業の死を遂げている。文公の即位は紀元前636年であった。従って、晋では「驪姫の乱」のあった紀元前656年から、文公が即位する紀元前636年までは国が乱れ、公子たちは国外へ逃れた。津軽へ漂着した群公子がどの妃の子たちであるかは定かではないが、『總輯東日流六郡誌』に記された内容が歴史的事実に裏付けられる。『總輯東日流六郡誌』などの元となった和田家文書の多くは東北の語り部たちに受け継がれて来た伝承であるが、語り部には文字はなかったが、記号のような独特の印があり、それが長く伝承され、貴重な歴史が伝わって来ていた。晋の時代には、すでに中国では広く稲作が行われるようになっており、その稲作が漂着した群公子によって津軽にもたらされた。東北地方最古の稲作遺構は弘前市の砂沢遺跡から見出されており、砂沢遺跡の年代測定2530±45年前とは100年程度の差があるだけである。今後も青森県近辺からさらに古い稲作遺構が発掘される可能性もあるだろう。現在の考古学は何故東日本最古の稲作遺跡が本州最北端で見出されたか、解明しきれていない。弥生文化が北部九州で花開き、近畿王朝が唯一とされる史観からはとうてい解明されることはないだろう。勝者の歴史でしかない正史ではなく、発掘から得られた事実から歴史を再構築しなければ、真の日本の歴史は見出せないだろう。
福寿草
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