釜石の日々

「戸」の付く地名の由来

今日は最低気温がー3度だからこの冬としてはいい方なのだろう。週末にかけてまたー7度くらいまで下がるようだ。最低気温がずっと氷点下になってから庭の鉢植えの植物たちに水をやっていないが、そのまま凍ってしまっているのか枯れた様子もなくそのままの姿を保持している。植物も冬の気温低下に合わせて事実上は冬眠しているようだ。釜石へ引っ越して来るまでは漠然と東北と言っても岩手県自体が東北の中のどのあたりだったか覚束なかった。逆に釜石の人たちから出身地の愛媛県が四国のどの位置になるのか聞かれたこともあった。直接普段の生活に関係しない遠い地域はそんなものなのかも知れない。釜石へ来てしばらくすると比較的知られた八戸市に始まって、二戸や三戸、九戸などの数字と戸がセットになった地名がいくつかあることに気付き始めた。それを職場の方に話すと「遠野も十戸ーとおのへ、だったようですよ」と教えていただいた。ネットで調べると岩手県には「一戸町」「二戸市」「九戸郡」が、青森県には「三戸町」「五戸町」「六戸町」「七戸町」「八戸市」があり、「四戸」は今はないがかっては青森県と岩手県にまたがる広い地域が「四戸」と呼ばれていたようだ。地図で見るとこれらは大体青森県東南部と岩手県東北部にあることが分かる(「四戸」は位置が定かではないが)。かってこの地域には糠部郡(ぬかのぶぐん)があり、そこには四門九戸の制があって、糠部郡を東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」に分けたという。これらの地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地でもあり、柵のある牧場=「戸」としたと言われているようだ。ところが、『北斗抄 四』に「閉伊戸帳」として以下の内容が書かれている。「古来、閉伊馬を称し八幡駒、糠部駒、と号け、寒立馬、活波馬、など名付く多し。古話に東海千里を隔つ北インデイ国より潮に乗じて渡り来る民あり。是をヒエ族とて曰ふ。太きこと六尺、長きこと五十間の丸太を八十七本を束ねたる大筏にて陸州糠部に漂着せり。雄駒二匹、雌駒十匹、老若男女三十七人、洋上何事の難なく漂着せりと曰ふ。彼の国ぞ、今にメリケンとぞ曰ふなり。これな十二匹の馬を祖にして、その子孫大いに殖産し、奥州馬産の原種をして、秀馬の頂、比類なかりけるなり。一方、羽州なる駒ぞ、山靼にして、背低きも、陸州馬ぞ背高く、駆くること疾風の如し。野馬となりて、人に飼れざる馬群の多き順次にて一戸、二戸、三戸、四戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸、十戸、に名付たるは、モンゴル軍の戸なる十進法より用いたりと曰ふ。
文政二年七月九日   苫部地金作 」これによれば「四門九戸の制」とは少し異なり、十戸まであり、由来はむしろモンゴル軍の制度にならったとなっている。モンゴルのブルハン神を信仰するブリヤートの民が渡来した伝承がある。
落葉樹の多い冬山は尾根の部分に木が密集したような模様が目立ち面白い
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