横浜田舎物語

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お姉ちゃん、あっぱれでした。

2016-10-11 | 家族
10/8午後、たった一人の姉が旅立ちました。享年83歳でした。



長く患っていたわけでもなく、入院したと聞いてからたった4か月ほどの闘病生活でした。

昭和8年3月、6人兄弟の長女として静岡で生まれました。

末っ子の私とは16歳違い、母が妊娠するたびに、妹が欲しいと願ってきたそうですが
その後生まれた4人はすべて男子、ようやく念願かなって妹が生まれたころには
もうどうでもよかったらしく、後に「いまさらねえ」って思ったって、言ってました。

私が小学3年生の時嫁ぎましたから、姉と一緒の家にいたのはたった8,9年の短い期間でした。

父が若くして他界しましたから、幼い弟、妹たちにはわからない苦労があったようです。

「長女、長男の宿命なのよ、そのかわり父と長くいられたのだからしかたないでしょ」と
父親の面影すらわからない私は、よくそんな口をきいたものでした。

それでも姉のことが好きで、よく遊びに行ったものです。

歌が得意な姉でした。「ああ、あの歌が上手なお姉さんね」と、よく言われました。

一時はプロ歌手を夢見た頃もあったようです。

というのも、20歳前後だったと思うので、私がまだ幼児のころですが
NHKののど自慢で、静岡県代表になったほどの腕前でした。

残念ながら東海地方予選で敗れ、全国大会には出られませんでしたけど
歌謡曲の会などがあると、有名歌手の前座で歌っていたことは覚えています。

何にも前向きな人でした。

男前な人でした。

ある意味私とは正反対、このうじうじした性格を何とかしたい
どうしたら姉のように物事をスパッと切って前に進めるのだろうかと・・・

結婚してからも苦労の絶えない姉でした。

夫婦仲から子供たちも横道にそれたり、離婚問題も当然ありました。

しかし、どんなに辛くても「お父さんが悪いだけじゃない、私にも原因があるのだから」と
決して現実から逃げない人でした。

亡くなる2日前、姪から連絡があり、動脈瘤ができ、透析をしていても腎機能が低下し
腰も相当痛みだしたようなので、本人の希望で、すべての治療を中止することになったと

そして、最終手段をとるとのこと、もう時間がないことも知らされました。

すぐにでも飛んでいくべきか・・・悩みました。

本人は意識がしっかりしている、自分でその時を選んだ、そんな状況は
この小心者にはとても耐えられない

実家に連絡して、兄夫婦、それにすぐ上の兄夫婦、4年前に亡くなった兄の奥さん
もちろん、姉の子供たち、孫たち、ひ孫たち、みな揃って最後のお別れになったそうです。

「あなたがあの場にいたら、取り乱してたに違いないから来なくてよかったわ」後に実家の義姉から言われました。

姉は、そこにいた家族に「私の死にざまを見てちょうだい、疲れたからちょっと休んでくるから、また会えるから
また会おうね」と言ったそうです。

実家の兄には「待ってるからね、来てね」と

看護師さんに頼んでベッドごと屋上に連れて行ってもらい、空を見て、その後、その場にいた
4人の看護師さん一人一人に握手してお礼を言ったそうです。

その日の夕刻、すべての治療をおえ、安らかに眠るための注射を打たれ眠りについたそうです。

<やっぱり生きているうちに会いに行こう、渡したいものもあるし>
すぐ姪にメールして、<明日朝一で行くから、待ってるように言ってね>

ところがそれから一時間もしないうちに「さっき息を引き取りました」と泣きながら姪から電話がありました。

長く持って一週間だと聞いてました。
でも姪は「眠っているようでも、痛いんじゃないかと思うと早く楽になってほしい」と願っていたとも

ほんとうにただ眠っているようだとも言ってました。

姉はよく「死ぬことなんて全然怖くない、必ずまた生まれ変わってくるから」と話していました。

それでも人間、姉のように死ぬ時を自分で決めるなんて、そうそうできることではありませんし
普通ならぜったい恐怖はあるはず
なのに、姪の話では泣きじゃくる姪を逆に慰めてくれて、感謝してくれたとのこと

まさに、稀に見るあっぱれな死にざまでした。

安らかで、美しく、すべてに満ち足りたような、微笑んでいるような顔でした。

姉との思い出には涙した私ですが、顔を見たら安心しました。

人生、最後がすべて、終わり良ければすべて良しとはよく言ったもので

誰もが「こんなふうに亡くなって行く人を見たことがない、まるでドラマを見ているようだった」と

姪は入院時から「お母さんには散々心配かけて、苦労かけて、今こそ、その恩返しの時だと思っている」と
相当な覚悟を感じる言葉がありました。

退院したら自分が面倒見るんだと、だから絶対元気になってほしいとよく話していました。

仕事をしていないこともあって、この4か月、1日も欠かすことなく看病に通っていました。

姪自身もここに至るまでいろいろありましたが、お通夜の帰り、私を呼び止めた姪の一人息子J君

「おばさん、ありがとうございます。母がいつもおばさんからの一言一言がすごくうれしいって
ありがたいって言ってるので、僕からもお礼が言いたくて」

J君、なんていい息子なの、彼もまた辛い時期がありました。
それでもまっすぐにりっぱな青年に成長して、こんなふうに人の気持ちがわかる子に育ってくれた。

姪ももちろん偉かったけど、彼の祖母である姉の力もかなりあったのではと
翌日の葬儀の時、姉に話しかけました。

J君は葬儀の折、孫代表で弔辞を読みました。自分の言葉で、しっかりと・・・

「孫も、ひ孫もみんないい子に育ったね。お姉ちゃんの功績は大きかったね」

ああ、そういう私はどうだろうか、とても姉のような生き方はできない、
けど、少しでも近付くことができるよう努力しよう

葬儀屋さんから、出棺時に棺の中に入れるために折鶴折ってほしい、
その折紙にはメッセージを書いてほしいとのこと、

姉から「待ってるからね」と言われた実家の兄「もう少し待ってくれ」ですって
笑ってる場合じゃないけど、笑ってしまいました。

私はその場ではとても書ききれなくて、ホテルの部屋に戻ってから2枚にびっしり思いを綴りました。

<お姉ちゃんありがとう 辛いこともいっぱいあったけど、最後の最後、いい人生だったねって言えたね>

いろんなこと書いたけど・・思い出せない

きっと思いは通じたよね

「だんだんひとりずついなくなって、最後に残るの私?いやだなあ」と言ったら
「末っ子の宿命だからしょうがないよ」って孫から

寿命なんだから順番かどうかなんてわからないけど、やっぱり全員見送るの?

三兄が亡くなったとき姉が「順番じゃないからね、次は誰だかわからないけど
私は長生きするから」なんて言ってましたっけ

その姉が順番で逝ってしまった。

長兄は、火葬の直前「姉ちゃん、またな」って棺に向かって言ってました。

その「またな」は、順番で次にそっちへ行くよ、の、またな、なのか
姉が生まれ変わってまた会えるね、の、またな、なのか、私にはわかりませんが

兄には私とは全く違う思いがあるのだと想像できます。

お姉ちゃん、寂しいとは思うけど、もうちょっと待っててね、
そんなに次から次へとではこちらもたまらないわ

姉の死にざまは当分語り草になること間違いなしだと思います。

「こんな死に方をする人初めてだわ」誰もが驚いて、そして自分もこうありたいと思ったことでしょう。

お姉ちゃん お見事 あっぱれでした







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