~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

マニアは昔のポストがお好き?

2006年06月30日 00時37分29秒 | 雑感
<鹿屋・郵便ポスト盗難 深まるなぞ
誰が、何のため?/重さ50キロ、商店街近く

 鹿屋市本町の郵便ポストが基礎部分ごとなくなった事件から一夜明けた28日、関係者や市民の間では珍しい窃盗事件に「50キロ近いポストを誰が、何のために持ち去ったのか」と困惑が広がった。
 同日午前、管理する鹿屋郵便局(同市白崎町)の堀ノ内耕司局長が現場を訪れた。「目的は何なのか」と当惑ぶりを隠せない。同郵便局は、市民1人から投函(とうかん)したとの連絡を受け、相手先に事情を説明するなどした。
 日本郵政公社によると、過去3年間でポストの窃盗事件は2003年1月に長野県で発生、現在も見つかっていない。持ち去られたのはマニアが多いとされる赤色の煙突形のポストで、今回の形状とは異なる。投函ミスに慌てたのでは、との声も聞かれるが、投函ミスなら「各局で個別に対応できるのに」という。
 現場は商店街に近く、買い物客も利用する。鹿屋本町一番商店街振興組合の久木田弘副理事長は「あんな重いものを持ち去る必要があるのだろうか」。鹿屋署の大園充副署長も「前代未聞の窃盗事件。なぜ通行量の多い場所のポストなのか」と首をかしげている。>


やはりこれ、マニアの線が強いのでしょうか?
円筒形のポストはマニアがいそうです。
私の友人(既出:犬ぞり免許持ち)は、郵便局にあった円筒形ポストのミニ模型が欲しくなり
「あれをください」と頼んだところ、簡保だかに入った人だけにくれるということで、がっくりして帰ってきたようでした。
・・・・引越し祝いに何も送ってなかった。
実は彼女、ずっと以前書いた「家移り」の友人と同一人物(爆)。
そういえば私以前どこかで、かなり大きな円筒形ポスト型おもちゃみました。
探しだして送りつけたいもんです。
是非、玄関先におっ立ててほしいなあ。
切手集まるかも・・・

それにして上記の記事中の
「投函ミスに慌てたのかも・・・」って、いやそれは私も予想しましたよ。
ですが、
ポスト根こそぎ引っこ抜きますかねえ

まだまだ地元新聞の続報に期待。

使い道はいろいろありそうだが・・

2006年06月28日 10時50分26秒 | 雑感
<27日午前7時40分ごろ、鹿屋市本町に設置された郵便ポストがなくなっているのを鹿屋郵便局(同市白崎町、堀ノ内耕司局長)の収集員が見つけた。土台ごと抜き取られており、同局は同日午後、鹿屋署に被害届を提出。同署は窃盗事件とみて捜査している。被害郵便物の数は不明。
 日本郵政公社九州支社によると、管内でポスト盗難の例はない。
 ポストは箱形で本体の高さ54センチ、幅33センチ、奥行き40センチ。脚柱は81センチ。土台を含め重さ約50キロとみられる。国道269号脇の中心街の花壇内に設置。脚注の周りに掘った穴にコンクリートを流し込み固定していた。
 同ポストの郵便物は、午前7時40分ごろと午後零時40分ごろの1日2回収集。26日午後の収集時は異常なかった。通常は1回当たり20-30通が収集される。>


最初このニュースを読んだときは「ポストを引き抜くなんて」と仰天したが、
鹿児島の地元紙サイトの写真を見てみると、まあ引き抜けないこともないだろう(爆)と思われるサイズのポストであったので、納得した(するなよ)。

さて、ポストお持ち帰り事件の目的だが、勝手に推理してみた。

1.<酔いにまかせての馬鹿力によるお土産>
この種のお土産としては、私のきいた範囲では、
<呑み屋ののれん><薬屋のサトちゃんだかケロちゃん><横断歩道の黄色い旗ごっそり>というものがあるが、いずれの行為も犯罪であることは間違いない。

2.<自己都合による配置転換>
犯人はよく手紙を出す人間なのだが、あまりにもポストが遠いのでいらいらしていた。(もっともポストだけ移動させても集配にこなければなんの意味もないが)
類似の事件としては、私が昔勤めていた職場のある部長が、一日数センチずつバス停を自宅の方へずらしていった・・という話がある。

3.<営利目的のグッズ調達>
私の友人(例のラップランドで犬ぞりの免許をとってきたという人間)の話。
「あるアジアの国へいったら、やたらポストが多い。ほんとにたくさんある。
なんだろう・・・と思ったら、ポストだと思い込んで投函された切手やら(たまには現金)を集めて暮らしている人のものだった」
・・・・・ほんとかね????????
でも、有り得ない話ではないなあ。
そりゃほんとのポストを立ててたら、一年に相当額の切手等が集まりますって。

もしかしたら、鉄道マニアの鉄ちゃんならぬ、郵便マニアの郵ちゃんの仕業かもしれないが、
大事なお手紙が入っているんですよ。
すぐ返してあげてくださいね。


W杯、大揺れ?!

2006年06月26日 12時36分50秒 | 家族・友人等
雨なんか降りもしないほどよい天気だというのに、
7:00時点で警報が出ていたので、今日は学校は休みだ。
授業参観もない。

昼ごろ新聞を広げていた息子が大声で叫んだ。
「イングランドが8強だってよ」
「そりゃイングランドだもん。別に不思議ではないんじゃない?」
「でも、8強だよ。すごいよ。壊滅だよ
なにが、壊滅なんだ?・・・・・

お~い、8強っていうのは、震度のことじゃないんだよ。


朝から濃い話題ですが・・

2006年06月26日 09時00分55秒 | 雑感
昨夜、「そうだ」とふと思ってカメにレタスをやろうと
水槽代わりのベビーバスに行ってみたら、2匹のうち1匹がまったく動かなくなっていた。
どうみても、もうこの世のものではなかった。
2日ほど前までは、もう1匹と「二重の塔ごっこ」で甲羅干しをしていたのに・・。

原因は思い当たりすぎて書く気にもなれないのだが、
とにかく6年間も飼っていたので、息子は茫然だ。
娘にとっては、カメ2匹は「3歳上の兄」にあたるわけで、
人間の兄のが学校に行っている間はよくカメとなにか語らっていたのだが、
「あたしは、泣くのと雨は嫌いなのよ!」と頑張っていた。

この2匹は性格が全然違い、生き残ってるほうは活発ではあったが、幼体時にはなにかと病気をしたものだった。
逝ってしまったほうは、甲羅の模様は派手だが性格は地味で、無駄な体力は使わないヤツだった。
命あるもの、生育歴と外見だけでは寿命は判断できないものだと思った。
それにしても今はマンション住まいなので庭がない。どこへ眠らせてやったものか・・・。


これを書きながらニュースをつけていたら、ピアノの音がしてきた。
リチャード・クレイダーマンかなんかの曲だと思うのだが、
最初の「ソとミ」に始まる6度の連打の音がどうも硬い。
なんだか変だな・・・と思って画面を見てみたら、ピアニストの右手に指が2本しかなかった。
左手にも2本しかなかった。
ペダルは・・・金属の棒で踏んでいる???・・脚が太腿くらいまでしかないのだった。
あっけにとられていると、今度は聴き慣れた曲。
ショパンの「幻想即興曲」のラストのところで、指が5本あっても大変に弾きにくい箇所だった。
あらためて幻想即興曲の最初のから映像が流れたが、ほんとに見事だった。
両手4本の指でまったくミスタッチなし。テンポは速い。
音楽的にもすばらしかった。

彼女は韓国の方で、今日本のあちこちでコンサートを開いておられるらしい。
障害を持って生まれ、お母さんが指の力をつけさせようとピアノを習わせた。
以来、一日10時間の練習を重ね、不可能を可能に変えたのだという。

命あれば、人生はいかようにも開けていくものなのだなあ。
彼女にしても、ある時はお母さんや先生の期待や激励に押しつぶされそうになったことだってあるだろう。
すべてをリセットしたくなったことだってあるだろう。
そうしたくなっても、そうしなかった・・という境目のところが難しいが、
それは個人の資質と周囲の愛情表現の歯車がかみ合っていたかそうでないかが
ひとつのポイントとなるだろう。

こういうことを「才能」という言葉で片付けてしまっては、
議論にもなにもならないのだが、
モーツァルトにしろベートーベンにしろ、スパルタかつかなり利己的なオヤジさんの下で育ち、
教育の成果と才能のおかげでそれは後世に名を残すことになったけれど、
人間的にはあまりほめられたものではない社会性の持ち主だった。
しかも音楽には秀でていたかもしれないが、ベートーベンなんか計算に関しては、足し算にも苦労するほどだった。
人間、「バランスよく」などということを目標にしていたら、それこそバランスを崩しはしないか?
人間性に関しても、人として許されないことだけをはっきりと「しない」と自覚できていればそれでよくないか?

なんだか、力が入り過ぎてしまったけれど、
大雨警報も出ていることであり、昨今の事件のこともあり、カメのこともあり、
珍しく真面目に考えてしまった朝だった。


磨かずば・・

2006年06月25日 00時55分51秒 | ピアノ
以前、ある音楽評論家の方の講演会へ行った時、次のようなお話を聞いた。
『Kさんという目の不自由なピアニストがおられますが、
この方、それはもう研ぎ澄まされた音を出される。
こういう表現が適切かどうかわからないが<怖いような美音>です。
目の見えない方なので、そういう方面が特に優れているのかとずっと思っておりましたが、
ある時彼のコンサートに行っていたら、曲によってはそうでもない演奏もある。
やはり、これは音を磨いて磨いて磨きぬいて紡ぎだされた美音なのだ、と思いました』


私が「美しい音」ということに愕然とした初めての経験は、
実はそう昔のことではない。
それまで、学生時代の発表会では私の耳が雑だったせいなのか、
仲間うちのレベルが似たもの同士だったせいなのか、
「おお、こんな音を出す人がいるのか」と思ったことはなかった。
一流のピアニストの演奏はCDやコンサートで聴くことはあるが、これは所詮「超一流なのだから」とある意味、聴く耳を持たない。
心の底から驚愕したのは、2年半ほど前、アマチュアだけのコンサートで、某氏の演奏を聴いた時のことだった。
まったく同じ会場で、まったく同じピアノを弾いたはずなのに、
氏の音は他の演奏者とはまったく違っていた。
さっき自分が弾いた同じあの楽器からどうしてあのような音が引き出せるのか想像もつかなかった。
今では、アマチュアピアニストとして超のつく有名人である某氏は、
その緻密な読譜の様子がブログにもよく書かれているが、
たった1回だけ聴いただけの私が言うのもなんであるけれど、
彼の演奏が聴衆をひきつけてやまないとすれば、それはやはり誰にもまねのできない「音」であろうと思う。
その後テレビでも何回か演奏を拝見したが、ライブでのあの口のきけなくなるような衝撃は感じることができなかったので、
やはり機械で拾うことのできないところに、なんらかのオーラがあるのだと思う。


「美しい音」というのは、生まれながらの天分によってそれを紡ぎだす方もおられるのかもしれないが、
やはり前出の評論家氏の言われたように「磨いて磨いて」奏でるものだと思う。
これは技術面、精神面、すべてを不断の努力で磨かないとかなうものではない。
もっともピアニストK氏のような「怖いような美音」はやはり選ばれた方のみのものだとも思われるので、そのような音をまず是非聴いてみなければ、と思う。

自分についていえば、「磨いて磨いて」以前に「土や埃くらいは払って」みたいものだが・・・・。


スイカはお好き?

2006年06月24日 01時34分12秒 | 雑感
夏の風物詩ともいえるスイカだが、近頃では人気がないらしい。
スーパーでも売れるのはカットスイカが主で、丸ごと、まして大きいサイズのものは、なかなか売れないという。

主婦の立場から言うと、まずあれはデカ過ぎる。
半分に切ってあったとしても大きい。
近頃は生協のカタログでも「小玉スイカ・・・・・冷蔵庫にムリなく収まるサイズです」とわざわざ書いてあるくらいで、うちもこれはかなりの頻度で購入する。
もともとスイカは冷蔵庫なぞにいれるようなものではないのだ。
井戸水とか湧き水とか冷たそうな水につけておいて、大人数で一気に食べつくす。
冷蔵庫に入れて今日2切れ、明日3切れとかというケチな食べ方は本来似合わない。

次の不人気の理由は「種の多さ」だという。
・・・・いや、種くらいは我慢しましょうよ。
「骨が多い」という理由で、あらかじめ骨抜きにしてある魚もよくみるが、
「種のないスイカ」「骨のないサカナ」のほうが、私には怪奇現象

さらなる理由は、ほかにも甘いものが豊富になったので、
そこまで子供がスイカに飛びつかなくなった、ということらしいが・・・
うちの男の子は「もう見苦しいからやめとけ」というくらいまで(つまり白い部分まで)食べ尽くす。
あ、ちゃんとほかにも甘いもの与えてることは与えてるんですけどね。

というスイカ不人気を挽回すべく、ある新聞ではカワの部分を食べる料理法を紹介していた。
カワ(白い部分ですよね)のところは昔は、漬物にして食べていたものだが、
最近のスイカは白いところが少ないような気がする。
白いところをなんとかしようと思ってもたいした量が出ない。
昔のように食べようと思ったら、逆に改良(悪?)しなければならなかったりして・・・。
それにしても、不人気挽回のためになんでカワで勝負しなければならないのか・・
もし、赤い部分より需要があるとすれば、赤いところを小さくして
みかんで言えば文旦のように、カワ部分の方が主に食用になったりする可能性もあるのだろうか?

といろいろ書いてきたのだが、
私自身は、あんまりスイカは食べない。
嫌いではないが、カボチャ、メロン、スイカはハズレだったときの記憶がつら過ぎて(爆)、ちょっと敬遠してしまう。
<ハズレ>だった時の、スイカの大玉一個の食べ尽くしは涙ものです。
最近はそこまでマズいのはないのかもしれないが・・・


ボーッとはしてない

2006年06月23日 00時00分40秒 | 家族・友人等
この地へ越してきてから、東京等へ新幹線で往復することを何回か経験したのだが、
そのとき一番の問題は子供の「ヒマつぶし」だ。
下の子は、デッキに連れ出したり、本を読んでやったり、できる限り相手をしてやるしかない。
上の子は、ずーっと一人で本を読んでいる。
「たまには、外の景色の見なさい!」とこちらが声かけるまで読んでいる。
そしてせっかく持ってきたハードカバーをさっさと読み終わって、
「読むものがなくなったあ」と絶望(爆)している。
私はもちろん自分ではなにをする暇もないし、あったらあったで寝るのみなので
本などはいっさい持っていかない。たまに週刊誌を買うくらいだ。

私だって少なくとも学生の頃までは、暇があれば活字を追っていた人間のはずなのだが、いくら子供が小さいとはいえ、どうしてこう活字なしで長時間過ごせるのか?

たぶんそれは「何も持たずに時間をつぶす」訓練を積んだからだ(笑)。
デパートにいたころ、私は売り場に出ていたので、
とにかく何時間でもきちんと立っていなければならなかった。
値段の高い食器を扱っていたので、お客様のないときは日に数人ということもあるし、
暇だからといってバタバタ掃除しているのもイメージがあまりよくない。
先輩方は暇になると、裏へ入って計算や仕入れや配送の仕事をされるので、
どうしても店番は若いものが当たることになり、しかも広い売り場にポツンと一人残されることがよくあった。
どんなに暇でも本を読むことも、しゃべることも、寝ること(爆)もできない。
どうするか・・・・・
まずは、目の届く範囲の商品名とその値段を覚えた。
たまには、外国のお客さまが見えた場合を想定して、接客英語を考えた。
それが終わると、通路を歩いていかれるお客さまを観察した。
それにもあきると、くだらんことを次々考えた。

たいがいこれでかなりの時間が過ごせた。
そうなると、もともとさほど活字中毒の人間ではなかったのか、
通勤電車でも、手ぶらで過ごすようになった。
さらに喫茶店や食堂に一人で入ってもボーっと(別に頭の中はボーッとしているわけではないが)過ごせるようになった。
最高何時間この状態でいられるかわからないが、たぶん4~5時間はいけるのではないか?
たぶん散歩だとか乗り物に乗ってるだとか、周囲の方に変化が生じる状況下であれば、何時間でも苦痛ではないだろうと思う。

でも、おそらく家族はそんなことは絶対に信じないと思う。
彼らの目に触れる限り、私はしゃべってるか動いているかだから


腕は磨いてみよ、道具は研いでみよ

2006年06月22日 01時13分20秒 | 雑感
先日、第一回目のベルマークの作業があった。

それぞれがハサミを持参しての作業だったのだが、こんなに困ったことはなかった。
というのは・・・・いつも普通に使っているハサミが切れない・・・
紙はまあ普通に切れるのだ。ところがベルマークがついているのは紙の外包装ばかりではない。
マヨネーズの透明の袋・・これはまだいい。
もうどーにもならなかったのが、お砂糖の袋だ。
あのなんだかミョーな手触りのビニール袋だ。
刃をかませればかませるほどぬるぬるとすべり、
ハサミが食い込むのはこちらの手のほうだ。
「バカとハサミは使いよう」というではないか・・と、
それこそ角度から力の入れ具合から、研究に研究を重ねました・・・なにやってんだ、私
周囲を見てみると、みなさん、快調なご様子。
もしやこれ、
「バカにハサミは使えない」の間違いか?

ううっ・・・
ついにお隣は作業終わり。
「すみませんが・・・・ハサミ貸してもらっていいですか?」
「いいですよ」
・・・ 切れるじゃないですか!なんだ私のせいじゃないんだ。

正面でその一部始終を見ていたある委員さん、
「今度、うちから切れるハサミ持ってきてあげるよ。
うち、おじいちゃんが、手術用の刃物研ぐ仕事なもんで、
うちのなかには切れないハサミないのよ」

手術用の刃物を研ぐお仕事!
そういう、聞いただけでしびれるようなお仕事があるのですね。

「刃物を研ぐ人

黙って刃物を研いでいる。
もう日が傾くのにまだ研いでゐる。
・・・・(中略)・・・
この人の袖は次第にやぶれ、この人の口ひげは白くなる。
憤りか必死か無心か、
この人はただ途方もなく
無限級数を追ってゐるのか。
              (高村光太郎)」

ハサミも貸していただきたいけど、
私その「おじいちゃん」にお会いしたいです。
あの・・・真っ白に燃え尽きておられたり(殴)・・なんてわけはないですよね?



ゲン落ち消しゴム

2006年06月20日 23時59分54秒 | 雑感
以前、こんな内容の記事を読んだことがある。

ある女性ピアニストは、大変縁起をかつがれるという。
失敗した時のステージ衣装は「二度と着ません」
そのとき聴きにきていた家族が着ていた服も「二度と着ません」

うわっ・・・・
自分が着ていた衣装を「二度と着ない」というのはわかる。
その服を着ると、嫌でもそのときの記憶がよみがえるからだ。
できれば皆そうしたいだろうが、そうすると逆に「絶好調」で弾けたときの服の着まわしという結果になりはしないか?
たしかに注意して見ていると、ドレス2~3着のローテーションというピアニストもいないわけではない。
それはそれでいいとして・・・
家族全員、その時の服を着ないというのはすさまじい。恐れ入った

こういういわゆる「ゲンかつぎ」というのはスポーツ選手ではよくきくような気がする。
期間中「履き替えない(何を?)」とか、「同じ色の下着を着る」とか。
音楽と比べ物にならないくらい科学的に分析され、細かいデータによって作り上げられているようなジャンルでも、最後の最後にこういう精神的に安心できるような「神頼み」的要素が登場する。
考えてみれば、入試の時なんかもすごい。
だいたい「すべる」とか「落ちる」とか口にできないような状況なのだから、
いかに緊張にみちみちた異様な状況なのかわかろうというものだ。

そんな時絶対使えないような文房具を発見した。
激落ち消しゴム

これ、ご存知の方もおられようが、
「激落ち」という特殊スポンジの姉妹品だか類似品だかである。
鉛筆ですらわざわざ握りにくそうな五角形(五角→合格)のものを買っていくようなものがいるというのに、
一方で消しゴムが「激落ち」ではどうにもならない。

いや別に、入試やその他各種の試験で使わなければいいだけの話なんですけどね。



腕力はついただろう

2006年06月19日 23時20分32秒 | 私のピアノ歴
子供のころのピアノ教室に関しては、ピアノのことより作曲関係の記憶の方がはっきりしていて、
ピアノレッスンの内容に関しては
「すごく厳しかった。よく手をたたかれた」ということくらいしか思い出せない(爆)のだが、
もうひとつ思い出したことがある。

とにかく楽譜が重かった。
どうしてそういうことになっていたのかよくわからないのだが、
たしか小学校高学年になると、
土曜日学校の授業のあとそのままバスを乗り継いで先生のお宅に通っていた。
しかも目が悪くなりかけていたので、眼科によって仮性近視の治療(?)をし、
その近くで弁当を買い、午後一のレッスンに向かった。

楽譜は何冊あったかというと、多い時は10冊だった。
どういうものだったかは、時期が前後していたり記憶が曖昧だったりなのだが、
たぶん以下のようなものだったように思う。

ハノン
チェルニー30番
チェルニー40番
バッハインベンション(2声&3声)
モーツァルトソナタアルバム
トンプソン
ショパンワルツ集
湯山昭等の日本の現代作曲家のもの
和声の本

・・これで9冊だ。もう思い出せないが、おそらく、ウェーバー等の単発の曲が入っていたのかもしれない。
また、モーツァルトとベートーベンを併行して弾いていた時期もあるかもしれない。

これをごらんになって「なぜチェルニーが2冊?」と思われるかもしれない。
当時、私のいた地域では、コンクールの課題曲が小学生(4~6年)は「チェルニー30番」と「インベンション」、
中学生は「チェルニー40番」と「シンフォ二ア」と決まっていた。
なので進度が速くてチェルニー30番が終わってしまっても、小学生の間はなんどでも30番をやらされたし、インベンションについても小学生のあいだはなんどでも弾いた。
中学生になって「ああ、これで30番を弾かずにすむ」と思ったら、
今度は40番&50番になっているのであった(爆)。

今考えてみても、これだけの楽譜を一度に持ち運ぶのは大変だったろうと思う。
これにベートーベンのアルバムなんか入ろうもんなら、肘が伸びそうだ。
今なら、レッスン用にコピーしてということもできようが、
当時は白い紙に黒字で印字されるのは高級なコピーであり、
「ゼ○ックス」(社名のまんまじゃないか!)と言っており、
コピーといえばまだ青焼きが普通だった(鹿児島だけじゃないですよね?)。
しかも、まだまだ「あそこのお母さんは運転できるんだって!」という時代で(鹿児島だけじゃないですよね?)、
どんなに荷物が重かろうが、バスでうんうん言いながら立って通って当たり前だった。

・・・悪かったね、昭和の香りで