オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

シュトックハウゼン「グルッペン」

2017-06-21 | モダンオケ
<京響創立六十周年記念特別演奏会>
2016年12月23日(金)14:00/京都市勧業館みやこめっせ

指揮/広上淳一/高関健/下野竜也/大谷麻由美/水戸博之
京都市交響楽団

シュトックハウゼン「三つのオーケストラのためのグルッペン」(二回演奏)
ジョン・ケージ「五つのオーケストラのための三十の小品」


 京響は今年、創設から六十年の節目だそうで、これは誠にご同慶の至りである。その記念のコンサートに選ばれた曲が、シュトックハウゼンのグルッペンなのも、また個人的に嬉しい限りである。三群のオーケストラの掛け合いの曲の為、会場は北山のコンサートホールでは無く、二条通を挟んだ京都会館の南向かいで、国立近代美術館の西隣りにある京都市勧業館で行われる。ここは劇場では無く、年明けには消防出初式や成人式等を行う催事場で、僕は三階まで登って会場内に入り、その天井の低さに驚かされた。

 まず司会のNHKアナウンサーとの掛け合いで、広上は選曲の経緯に付いて、最初はモーツァルトの三台のピアノ協奏曲や、ベートーヴェンの三重協奏曲等、ソリストの顔見世で華やかな曲を考えたが、どれも内容に乏しく悩んでいた処、下野氏からグルッペンはどうか?と提案があり、それは良い!と高関氏も即座に賛意を示した為、その場で多数決に拠り決定したらしい。広上自身はグルッペンと云う曲を、それまで全く知らなかったそうである。

 今日は自由席で、皆さん気合を入れ並ばれたらしく、僕が何時も通り開場後に到着すると、時は既に遅しでオケに三方を囲まれた良席は埋まっていた。でも、実際の処グルッペンと云う曲を、一体どこで聴けば良いのか、僕はイマイチ分かっていない。だだっ広い催事場のフロアに、パイプ椅子がギッシリと並べられて、そこに皆さん窮屈そうに肩を寄せ合い座っている。取り敢えず、空いている隅っこの方に席を取り、三つのオケと三人の指揮者を同時に視野に入れる事にした。でも、演奏が始まると直ぐに、このポジションでは音像の遠過ぎる事に気付く。

 三つのオケは正面とその左右に配され、オケのメンバーは客席へお尻を向けて座るので、その前に立つ三人の指揮者は通常とは逆に、客席に顔をを向ける形となる。これは指揮者同士でアイコンタクトを取らないと、三つのオケの受け渡しは難しく、ほぼ演奏不可能な為である。広上などは大声を出して休符を数えていて、これは奏者へタイミングを伝えると共に、自分も間違えないようにと云う意図もありそうだ。三つのオケの掛け合いは、演奏の半ば頃からブラスやパーカッションに現れ、これを耳で追う楽しみは味わえたので、やはりもう少しバランス良く聞こえる場所で聴かねばと思う。

 休憩中の会場内では次の演奏の為、五つのオケのセッティングが行われる。ケージの三十の小品はチャンス・オペレーションで、AMラジオのリアルタイムの放送を会場に流し、これをBGMとして十名程の五つのオーケストラが、一分程度の長さの曲を矢継ぎ早に演奏し、三十分経った処でラジオのスィッチを切り、強制終了する曲である。実際に会場に流されたラジオ放送はNHK第一で、シェイクスピア「ヴェニスの商人」のラジオドラマだったのは、何だか出来過ぎのようにも感じられる。聞き覚えのある声だが最近は見掛けない、古田敦也嫁の中井美穂のゲスト出演も下世話な興味を引く。

 高関の前説に拠るとケージでの指揮者は、自分の担当オケのスコアのみを持ち、他の四つのオケを聴きながら時間を見計らい、適当に次へ進むそうである。だから基本的に五つのオケは合わないし、受け渡しも偶然性に委ねられる。このようなコンセプト自体、例に拠って例の如くのジョン・ケージ流で、今しがたのハイテンションなグルッペンから、音楽は一転してユルクのんびりした雰囲気を漂わせる。

 そこかしこに舟を漕ぐ聴衆も続出し、会場内はお目当てのグルッペンに備えての、睡眠休憩タイムの様相を呈して来る。そもそも緻密に作り込まれ、厳密にスコア通りを要求される、グルッペンとは真逆のコンセプトに従い演奏される曲で、両者は水と油のようにも感じられる。まあ、ジョン・ケージとシュトックハウゼンの、余りにも対照的な資質は深く納得出来たが、これは五つのオケを横一列に並べ演奏させても良い訳で、やはり残響込みのフツーのホールで、五つのオケを等分に聴きたいと思う。再びセッティングの為の休憩で、観客は一旦全員が離席を促されて後方に待機し、よーいドンで一斉に席取りに駆け出す。我が大和民族の特性として、席取りの既得権益を死守する傾向があるので、ここは無理矢理にでも、全員を自席から引っぺがす必要はあったと思う。

 僕はケージの際の後方席から、三つのオケを等分に視野に捉える、前方中央の席へ進出する。二度目のグルッペンは流石に、一回目の隅っこの席よりはバランス良く聴こえたが、だからと云ってそれで曲への理解も深まるのかと云えば、決してそんな単純な話では無い。要するに今回の会場のデッドな音響では、何処に席を取っても三つのオケの音像はクッキリと分離して聴こえ、曲の構造を弁別するのに不都合は何も無いのである。ただ、純粋にシュトックハウゼンの音楽を聴く、その楽しみを享受しようとしても、デッドな音空間に足を引っ張られ、本当にピンポイントな中央に座らないと、後は全て片ちんばな聴こえ方しかしない。また、この会場では三つのオケを聴き分けられるのと引き換えに、ブラスとパーカッションばかり聴こえ、弦は何処に座っても殆ど聴こえて来ない、何とも厄介な曲である。

 京響の場合、今日のような記念演奏会の類は、概ね定期会員の招待用に行われる。我々ビジターは基本的に、お情けで聴かせて貰っている立場だが、今日は何せグルッペンで、恐らく会員さん達の半分もお越しになってはいないし、休憩後は帰路に着く招待客も続出すると予想された。ところが案に相違し、グルッペンの二回目に先立つ席取りゲームにも、会員の皆様方はビジターと共に奮ってご参加下さった。これまで僕は京響の定期会員どもを、格好を付けて会員になるだけで、実際にホールまで足を運ばない不届きな連中と思っていた。でも、こうして最後までグルッペンに付き合う、ご老体の会員さん達を見ていると、僕は京都人の新し物好きの伝統の根深さを、改めて思い知らされたのである。
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武満徹室内楽コンサート

2016-12-17 | 声楽&室内楽
<没後二十年に寄せて>
2016年12月17日(土)18:00/よしゅうホール

武満徹「カトレーンII/ブライス/雨の呪文/水の曲/ウォーターウェイズ」
細川俊夫「歌う庭」

フルート/若林かをり
クラリネット/上田希
ヴァイオリン/辺見康孝
チェロ/大西泰徳
ピアノ/若林千春
ハープ/松村多嘉代/松村衣里
パーカッション/葛西友子/平山智佳子
音響/有馬純寿


 今年は武満の二十周忌だが、二月にシネマ・ミュージックを聴いたきりで、その後は機会が無かった。それが暮れも押し迫った今日この頃、よしゅうホールと云う名前すら聞いた事の無い会場で、室内楽のコンサートをやると知り、土曜日の夕刻に大阪市内まで出掛けた。この辺は以前の職場の界隈で、こんなトコにホールなんかあったかいな、と思いつつ辿り着いたのは、ビルの二階で貸しスタジオと思しき会議室風だった。

 今回のコンサートの言い出しっぺは、フルートの若林かをりだそうで、そこへ二台のハープを必要とするため滅多に演奏されない、「ブライス」と「ウォーターウェイズ」を弾きたい松村姉妹が企画に乗り、三人の主催でコンサートを行う運びとなったそうである。そもそも僕はプロの演奏家に対し、他所から来る仕事を待っている人達と云う先入観を持つが、現代音楽や古楽の奏者はその限りでは無いようで、自主公演を打つ者も多いようだ。因みに今日の出演者で主催の若林夫妻を、僕は昨年のシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」でも聴いていて、これも出演者側から仕掛けたコンサートのようだった。

 開演前、ゲストの細川俊夫の前説と云うか、武満の著書の一節の朗読の後、まず最初はタッシの為に作曲された「カトレーンII」。四つの楽器がほぼ対等に渡り合う、一般的な意味での室内楽で、ストルツマンやピーター・ゼルキンに弾かせる為の、ヴィルトゥオーゾ曲と云う印象を受ける。クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノと云う編成からも分かるように、メシアン「世の終わりのための四重奏曲」へのオマージュでもある。次の「ブライス」は二台ハープとマリンバとパーカッションの上に、独奏フルートを乗っけた曲で、旋律とそれを支える伴奏とにクッキリと分かれている。無調のハープと旋律を吹くフルートとの、対比の美しい曲だった。細川俊夫の旧作は武満へのオマージュだそうで、そう言われれば成程、如何にもタケミツっぽさを意識した点描的な曲想である。そう云えば二流の作曲家で武満の語法をパクり、それなりの曲を物する無節操な輩も居るようだ。

 暫時の休憩の後、武満に戻り「雨の呪文」は、長いフレーズをフルートとクラリネットのツー・トップで分担し、ハープとピアノとヴィブラフォンはジャガジャガと伴奏に回る曲。この曲を含めた三曲で、ハープは微分音を交えチューニングされているそうで、その為に音がぶつかって唸りを生じ、何やらガシャガシャした響きになるようだが、僕のような耳の悪い人間にそんな微妙な処は分かる筈も無く、只もうタケミツの響きに、ウットリと耳を傾けるのみである。次の「水の曲」は武満三十歳の折りのテープ音楽で、実際の水の音に加工した曲を、有馬純寿がパソコンに打ち込んで持ち込み、スピーカーから流し聴かせる。何分にも全て水の音で、武満徹先生作曲と言われても「ああそうですか」てなもので、ここは作曲家の「水」への偏愛の出発点を確認すれば良いのだろう。

 最後はフルートを除く、八名の奏者に拠る「ウォーターウェイズ」。さすがに皆さん現代音楽の手練れで、取り分け弦楽器のお二人の絞り出す超高音等、僕は最初の内ヴァイオリンやチェロの発する音と思えなかった程で、ここに集った若手奏者達の技術に裏打ちされた音楽性の高さを、目の当たりにする思いだった。果たして武満を演奏するのに、エモーショナルな情感など必要とされるのかどうか。僕の思うに武満を演奏したいと念じた時点で、既に演奏者は武満の音楽に浄化されていて、複雑な曲を正確且つ緻密に演奏しさえすれば、後は曲そのものが自ずと語り出すのだ。まあ、ここで捏ねる屁理屈は、演奏そのものに付いて、ロクな感想も出て来ない事の言い訳でもある。

 今日は年末の忙しない時期に、厳しくも美しい武満トーンをタップリ聴かせてくれた八名の奏者と、有馬純寿御大に感謝あるのみである。これで僕も二十周忌に当たり改めて、亡き武満を五十名程で超満員の聴衆と共に偲ぶ事が出来て、まずは心置きなく年を越せそうである。
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ロッシーニ「スターバト・マーテル」

2016-12-07 | モダンオケ
<大阪音楽大学第59回定期演奏会>
2016年12月7日(水)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/アルベルト・ゼッダ
ソプラノ/並河寿美
メゾソプラノ/重松みか
テノール/清水徹太郎
バリトン/田中勉
大阪音楽大学管弦楽団
大阪音楽大学合唱団

メンデルスゾーン「交響曲第四番イタリア」op.90
ロッシーニ「スターバト・マーテル」


 “ロッシーニの伝道師”アルベルト・ゼッダ翁が大阪で指揮台に立つのは、一昨年「ランスへの旅」の上演以来である。この年、大阪音大は百周年記念で、大阪国際フェスティバル協会や藤原歌劇団と共に、「ランスへの旅」を共同制作し、その際のご縁でゼッダさんは、大阪音大から特別名誉教授の称号を贈呈されている。その特別名誉教授とやらに、実質的な意味など何も無い筈だが、イタ公にしては義理堅く篤実なゼッダさんは、東京で藤原歌劇団との特別コンサートを終えた後、わざわざ大阪までやって来たのである。。しかも学生さん達のリハーサルに四日間も付き合い、一夜の定演を振ってから、更に三日間マスター・クラスを指導した後、漸く帰国の途に着くとの事である。このハードな日程を八十八歳の高齢でこなす、やはりゼッダ翁もエネルギッシュなイタ公なのである。

 メンデルスゾーンのイタリアはオケの力量不足と、特別名誉教授との意思疎通を欠く所為か、あのゼッダ翁が振っているのに何故?と、怪訝に思われる程に前へ出る推進力に欠け、演奏は一向に弾まない。木管に絶対的な音量を欠く為、弦楽とのバランスを失していて、対位法的に出入りする度に齟齬を生ずる。伸びやかに唱い上げるべき一楽章は歌わず、軽妙に弾む筈の三楽章もエスプリに欠け、モヤモヤした思いを募らせる。遅蒔きながら四楽章に至り、漸くエンジンも掛かって演奏は前へ進むが、これを練習の成果とは言い難く、ゼッダさんの本番の底力と云うべきものだろう。

 休憩後のロッシーニは、どうやら稽古充分で自信を持って臨んだようで、皆さん指揮にセンシティヴに反応するのが分かる。学生オケでソロを吹かせれば、実力は誤魔化しようも無く顕わになるが、トゥッティであれば全員一丸となって練習量で克服し、聴かせる演奏も可能となる。この場合、オケとコーラスの相乗効果も重要で、お互いにアラを出さずに盛り上がれる。ゼッダさんのご指導宜しきを得た、学生達の溌剌とした演奏を楽しんだ。

 ただ、コーラスはパート内部を良く揃え、ノン・ヴィブラートの透明な音色を作っているが、個性に乏しいと云うか無味無臭で、ロッシーニの音楽を彩り豊かに染め上げる事は適わない。一方の教員ソリストはテノールを除き、ヴェルディのレクイエムを歌うような顔触れなのと、昨年の「ランスへの旅」にも出ていたのが、バリトン一人だけなのも引っ掛かる。ソプラノ二人の重い声質は先刻承知だが、やはり実際に聴かされれば、これはロッシーニには如何なものかと首を傾げる。ゼッダさんを迎えるに当り、何故こんなソリストを大学側で用意したのか、音楽を優先した選択とは考え難い。

 実はゼッダさんの解釈自体は宗教曲寄りと云うか、ブッファでは無くセリア風で、割に四角四面な正攻法なのである。第二曲のテノールのアリアでは、レジェーロの清水徹太郎に強目の声を張り上げさせ、第八曲のソプラノのアリアでは並河寿美に、高低の音域を全てメゾの音色で押し通させる。二人共アカぺラ部分のカデンツァで、ヴァリアンテは付加しなかった。他の誰かなら猜疑の目を向ける処だが、何せ相手はロッシーニ研究の第一人者にして伝道師、御年八十八歳のアルベルト・ゼッダ翁である。スコアなどロクに読みこなせない身としては、これを正統的な解釈と肯わざるを得ない。

 でも、思えば僕は八年前、ペーザロ・フェスティヴァル来日公演で、ゼッダさんの指揮するロッシーニのオペラ・セリア「マホメット二世」を聴き、この方の音楽性は装飾的で、セリアよりもブッファ向きでは、との感想を抱いていた。スタバトは音楽の内容的に、オペラと何ら異なる処は無いにも関わらず、ゼッダさんは終盤に向け力強く盛り上げようとする。ゼッダさんは宗教曲を、オペラとは別物と考えているのか、或いは学生相手に軽やかで装飾的な演奏は無理と判断したのか、その辺りは何とも判断は付き兼ねる。ロッシーニでもイタリア語では無く、ラテン語の曲であると云う点も、ゼッダさんは織り込んでいるのかも知れない。
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メシアン「トゥーランガリラ交響曲」

2016-11-26 | モダンオケ
<京都市交響楽団第607回定期演奏会>
2016年11月26日(土)14:30/京都コンサートホール

指揮/高関健
ピアノ/児玉桃
オンド・マルトノ/原田節
京都市交響楽団


 昔々四半世紀も昔のお話、井上道義が京響で常任を務めていた頃、同一シーズンに「トゥーランガリラ」と、ショスタコーヴィチ「バビ・ヤール」を取り上げ、僕は共に勇んで聴きに行った記憶がある。バビ・ヤールは兎も角として、トゥーランガリラは結構な人気曲のようで、各地でソコソコ演奏されているようだが、それを積極的に追い掛ける気は無かった。でも、今年はメシアン「トリスタン三部作」の内の、「ハラウィ~愛と死の歌」を聴き、更に来年はびわ湖ホールで「アッシジの聖フランチェスコ」日本初演もあるとなれば、このメシアン祭りに乗らないテは無かろうと思う。

 高関の指揮は例の如く明快で、ブラスの咆哮やパーカッションの乱打の陰に隠れ勝ちな、弦楽の旋律を浮き立たせようとする。この曲ではトロンボーンやクラリネットの主導する、それぞれのテーマを聴いていれば、少なくとも曲の展開に尾いて行く事は出来る。しかし、もう一つの重要な聴き処である、込み入ったズムの対位法の方は、そもそも主旋律と対旋律が並列に聴こえて来なければ、何が複雑なのかすら分からないのである。音響の塊りとなる事を避ける、そこに指揮者の狙いもある。

 複雑な現代曲を得意とする割に、高関のバトンテクニックは今ひとつで、軽やかに流麗なスタイルからは程遠い。しかも今日はトゥーランガリラで、互いに逆行しながら音価を増減したり、左右対称であったりするリズムの組み合わせである。テンポを弄ると崩壊するので、指揮者は何時にも増して打点を明確に示し、縦をキッチリ合わせようとして、その分いよいよ鈍臭く見える。両手を広げ、機嫌良く歌わせるような仕草は、リズムの揃うフレーズの終わり際のみ。その結果、配慮されたパート間の音量のバランスと共に、複雑なリズムの相関は明瞭に示される。

 実は僕の座った席は位置が悪く、オンド・マルトノのフヨ~ンと云う音は、殆ど聴こえなかった。その所為もあって、無調と甘ったるい旋律が交錯する、官能的とか陶酔的とか評される音色の楽しみは、充全には味わえなかったかも知れない。でも、コンサートホールの席に腰を下ろし、高関の分析的なトゥーランガリラにジックリと聴き入る事で、音の奔流のような演奏では埋れ勝ちな、メシアンの心の動きも聴き取れたような気がする。

 終演後、指揮者がオケ奏者を立たせ拍手を受ける際、総勢十名のパーカッションの面々へ、執拗にブーイングを繰り返す客が一人いた。何の勘違いかと不審に思っていたが、ホールの外へ出た処で、歩きながら携帯に向かい「打楽器がボロボロだ、このオケにこんな曲は無理だ!」と大声で喚ているヤツがいて、どうやら件のブーイングの主らしかった。「打楽器に団員が居ない、トラばかりでは駄目だ!」とも言っていて、何だか意味不明である。

 彼はオケの些細なミスを見付け(或いは見付けたと思い込んで)、鬼の首を取ったように非難するのが趣味で、恐らくはコンサート通いの楽しみとしているのだろう。世の中には色々な人が居ると、改めて感じ入る次第だが、このテの自己陶酔型のおたくは、取り分けオケ定期で度々見掛けるように思う。それに比してオペラ通いの連中は、オタッキーと云うよりミーハーの度合いが高い。まあ、ミーちゃんハーちゃんは少なくとも、キチンとした身なりでお越しになるので、ミットモナイ格好で来るおたくよりはマシだろうと、僕は常々思っている。
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高橋悠治「納戸の夢、或いは夢のもつれ」

2016-11-16 | 日本オペラ
<風ぐるま2016秋/夢のもつれ~猫は聴いた二つの物語>
2016年11月18日(金)19:00/ザ・フェニックスホール

メゾソプラノ/波多野睦美
サキソフォン/栃尾克樹
ピアノ/高橋悠治

高橋悠治「鳥のカタコト島のコトカタ(全曲初演)/『納戸の夢』あるいは『夢のもつれ』」


 「風ぐるま」は四年前に活動を始めた、歌手とピアニストにサックス奏者を加えたトリオ・アンサンブルで、当然ながらユージの新作と共に、「時代を超えて音楽の輪を回す」をコンセプトに、波多野の得意とするバロック物も演奏しているようだ。今回のコンサートでは、既に二曲だけ演奏された歌曲集「鳥のカタコト島のコトカタ」全七曲の初演と、モノ・オペラ「納戸の夢、或いは夢のもつれ」の再演の、高橋悠治の二作品をプログラムとしている。

 まず演奏に先立ち、高橋悠治と作詞の時里二郎の前説で、前半プロの「鳥のカタコト島のコトカタ」に付いて、詩人は「御用済みで島流しにされ、使い古された蜜蜂の巣箱に置かれた人形と、連絡船から降ろされ島に棲む猫たち。そんな名井島という不思議な島の挿話」を、基とする連作詩と説明し、作曲家は「どうせ聴いても意味は分からない。何故なら古今集の昔に遡る、仮名文字を崩し書きした連綿体と、単語の途中で節を切る浄瑠璃や義太夫を意識し、作曲したから」と説明する。

 この歌曲集で波多野は一切声を張り上げず、ほぼ全てをソット・ヴォーチェと、朗読のような語りの間を行き来しながら歌い進める。波多野の歌う日本語を、僕は静岡での間宮芳生「ポポイ」で聴いていて、今回もその際と同じく、日本語のディクションの明快さに感心させられる。高橋は日本語を聞き取れる上演を目指す、こんにゃく座の元代表である竹田恵子とも共同作業をしていて、要するに相手役を選ぶ際には、ベルカント唱法か否かを問わず、言葉の明瞭さを重視していると分かる。とは云うものの、時里二郎の幻想的なテキストに付す音楽には、やはり西洋ベルカントの純化された美しさが合うとの判断から、波多野を選んだのだろう、と僕は憶測する。

 曲の始まって暫く、波多野の歌と語りに対する高橋のピアノは、右手と左手で単旋律を繋げて弾く態で、ペダルに足を掛ける様子も無く、そもそも歌とピアノとサックスは絡まず、三人で交互に独奏しているように見える。さすがに曲の進むに連れ、三者の旋律も絡むようになるが、ピアノは頑として和音を鳴らす事は無く、最後まで単旋律の絡みに終始して、この歌曲集からは至極アッサリした印象を受けた。

 前半の演奏を終えた処で、詩人は作曲家に促され、後半のモノ・オペラのストーリーを説明するが、これは茫漠として非常に分かり難かった。一方、作曲家の方は自作に付いて、全体としてはモンテヴェルディ「オルフェオ」のパロディで、シューマンのピアノ曲「夢のもつれ」と、ドビュッシーのメリザンドの場面を引用したと、こちらは誠に明快である。ストーリーに付いても作曲家は、「納戸の中に霊みたいなものが棲み付く。それは死んだ母親の魂でもあり、猫でもあり、青い硝子瓶でもあり、様々な形を取り息子に寄り付いて来る。息子も生きた人間なのか、形代なのか良く分からない」と、要約した文章を残している。

 暫時休憩の後、後半のモノ・オペラの演奏へ移る。「納戸の夢あるいは夢のもつれ」は六年前、波多野睦美の委嘱に拠り、高橋悠治が時里二郎の台本に曲を付し、波多野自身の歌に高橋のピアノと、リュート系の弦楽器であるブズーキ奏者を交え初演されている。今回はブスーキのパートを、栃尾克樹がバリトン・サックスで吹く、風ぐるまヴァージョンでの演奏である。

 高橋悠治の曲を、波多野睦美の歌で聴くと云う意味で、前半の歌曲は想定の範囲内だったが、モノ・オペラではその官能的な音楽と演奏に、僕は意表を突かれた。詩人の書き下ろした台本は、人の夢を住処としている猫が、幼い時に母に死なれた男の夢の中に棲み着く話。母の思い出の残る納戸の薄闇の中で、猫と男は出会い、互いに惹かれ合うようになる。やがて猫は人の身体を持ち、二人は愛し合うようになるが、猫は彼が愛しているのは自分では無く、彼の母を自分に投影しているだけでは無いかと疑う。男を愛さずにはおれない猫と、彼女との愛に溺れる男。夢の中での二人の愛に、軋みが生ずるようになる…と、何やら隠微にエロティックなのである。

 波多野は歌曲と同じく、歌ったり語ったりの繰り返しで曲を進めるが、前半とは異なり歌唱部分はスピントする声で、フォルテの音量を出すようになる。勿論、スピントしてもノン・ヴィブラートを保ち、細かいデュナーミクの起伏で、日本語を明瞭に伝えてくれる。この方のノン・ヴィブラート唱法を、僕はバロック以前の音楽に特化していると思い込んでいたが、日本語のディクションの明晰さにも繋がっているようだ。また、語りと云うか詩の朗読にも、素人に有り勝ちなクサい節回しは無く、上手なアナウンサーのように自然で、明快な言葉の扱いがある。どうやら高橋悠治は、その辺りを見込んで波多野を重用しているフシがある。

 高橋のピアノも歌曲とは異なり、両手で鳴らすハーモニーをペダルで響かせ、波多野の歌や語りとも絡み、そのピアニズムには官能性も漂って来る。栃尾のサックスと共に歌と絡むのは、やはり歌曲集とは違うモノ・オペラで、男と猫と母の三名の登場人物を描き分けねばならず、高橋の音楽も対位法的に複雑化するようだ。淡彩な歌曲とは異なり、やはりオペラを名乗るだけに、男女の愛憎を扱う台本に付す音楽は、濃厚な雰囲気を醸している。男と猫の絡みには高橋のピアノ、母の手紙の朗読には栃尾のサックスで伴奏を付ける、役割分担もあるようだ。

 このモノ・オペラの成功の要因として、まず台本の充実を挙げねばならない。恐らく高橋は時里二郎の紡ぐ言葉を、自分の音楽性に合うと見極めた上で、台本作家として起用している。詩人は自分に要求された役割を把握し、作曲家の音楽性を能う限り引き出す台本を執筆した。モノ・オペラ「納戸の夢、或いは夢のもつれ」で、詩人の書いたエロティックな妄想を、作曲家は正面から受け止め、成功を収めたのだと思う。

 ただ、敢えて言わずもがなの願望を述べれば、波多野の声は清冽に過ぎて、僕には物足りなく感じられる。もっと女性らしい情感を含むレジェーロな声で、猫と男と母の物語を聴いて見たい。具体的には森麻季か石橋栄実か小林沙羅辺りの、アデーレやツェルリーナを歌うソプラノで、このオペラを聴きたいと妄想するのである。
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