オペラの夜

出かけたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深めるためのブログです。

R.シュトラウス「カプリッチョ」op.85

2009-11-21 | R.シュトラウス
<東京二期会オペラ劇場公演>
2009年11月21日(土)14:00/日生劇場

指揮/沼尻竜典
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

演出・美術/ジョエル・ローウェルス
照明/沢田祐二
衣裳/小栗菜代子

<Bキャスト>
マドレーヌ/釜洞裕子
作曲家フラマン/児玉和弘
詩人オリヴィエ/友清崇
支配人ラ・ロシュ/山下浩司
伯爵/成田博之
女優クレロン/谷口睦美
ソプラノ歌手/高橋知子
テノール歌手/村上公太
プロンプター/森田有生
執事長/小田川哲也
従僕/菅野敦/西岡慎介/宮本英一郎/園山正孝/
井上雅人/倉本晋児/塩入功司/千葉裕一


 弦楽六重奏による前奏曲が始まると、舞台袖にある字幕に“44年、占領下のパリ郊外”と表示され、今回の演出の時代設定が明示される。幕が上がると舞台は夜で、胸にユダヤの黄色い星のマークを付けた男性が二人、何かゴソゴソやっている。この二人が出て行くと、入れ替わりにナチスの軍服を着た兵士達が入って来て、荒れた室内を整頓する。これを土曜日に初めて見た僕は、ゲシュタポの探索から逃れるレジスタンスかと、ボンヤリ思った程度。最後まで観て演出の意図を把握した後、翌日の上演を観て漸く腑に落ちた事だった。

 二期会ブログに拠ると、この場面は連合軍のパリ爆撃で廃墟となった、伯爵邸での出来事なのだそうな。だが、僕は翌日の上演でも、これはゲシュタポが家宅捜索で荒らしたのだと思い込んでいた。爆撃されたにしては、床に額が落ちていたり、椅子が倒れたりしている程度で、震度三強の地震の後くらいにしか見えないからだ。ここはキチンと廃墟のセットを見せて貰わん事には、少なくともワシは納得出来ん。この最初の場面に出て来た二人は作曲家と詩人で、マドレーヌに渡した楽譜と詩稿を回収に来たと云う事らしい。ユダヤ人の二人は、ゲシュタポの追跡から逃げ回っている設定だそうだが、それならば何故わざわざ、ダヴィデの星を付けたジャケットを着込んでいるのか?これも謎である。

 この冒頭場面は実は後日譚で、ティー・パーティーがお開きとなり、出席者全員が伯爵邸を辞去したその後のシーンと云う事は、そこまで実際に上演を観ないと分からないように出来ている。でも、これは分かり難い。だって二回観て初めて、意味の繋がって来る演出ってねぇ…。

 改めてフラマンとオリヴィエの二人が出て来て、本来の“音楽による会話劇”である「カプリッチョ」が始まる。伯爵邸サロンでの芸術家達のスノッブな遣り取りを扱う、演出家の手腕は水際立っていて、観る者を惹き付け、飽きさせないテクニックがある。舞台に居座り続け、常に床を掃いたり窓の桟を拭いたりしている、召使の爺さんは蛇足に感じるが、その一方で僕の感心したのは、12人の少女バレリーナの扱い。

 小学校低学年から中学生位までの踊り子達には、背丈に30cm程の高低差があり、横一列に並ぶと富士山型になるのが視覚的に楽しい工夫だし、お掃除爺さんがチョコレート・ケーキを切り分けると、ワッと群がってケーキを貰い、舞台上のあちこちに散って居場所を決め、各自がケーキを食べながら演技を続ける。八人の従僕も常に何かしら演技をしているし、歌う場面は一つしかないイタリア人歌手の二人も、ティー・パーティーの最初から舞台に居て、色々と演技させられている。この辺りのローウェル君の芸は細かく、観ていて楽しい演出だった。

 これはモロに、喜寿のシュトラウス爺様に拠るロッシーニのパロディと分かる、サロンの主人と客達の歌う二つの八重唱アンサンブル。ここでの演出が今回の一つの山場で、八人それぞれに目まぐるしい程の演技を丁寧に振付け、ローウェル君のテクニックの見せ場となっていた。

 今回の演出の読替え部分で、恐らく演出家本人が自分の思い付きに悦に入っている場面。ティー・パーティーがお開きになり、客は伯爵兄妹に礼を述べて辞去するのだが、ここでゲシュタポに早替わりした伯爵家の従僕達が、お掃除爺さん(この人もユダヤ人だったと云う事)にダヴィデの星の付いたジャケットを着せ、追い立てて出て来る。作曲家と詩人にもジャケットを着せて逮捕しようとするが、実はナチスのメンバーだったラ・ロシュが隙を覗って二人を逃がし、鉤十字の腕章を外して床に叩き付ける、と云う演出である。

 でも、この第10場の音楽は誠に春風駘蕩としたもので、逮捕や逃亡のような緊迫した雰囲気からは、凡そ懸け離れている。これはフランス革命前のヨーロッパ貴族サロンの、儀式張った呑気な別れの挨拶の遣り取りをロココ調に仕立てて、シュトラウス爺様が同時代と関わる意図の全く無い事を、意思表明した音楽と僕は思う。ここでナチスとユダヤの逮捕逃亡劇を演じても、音楽との相乗効果は全く期待出来ない。音楽の内容を演劇的に表現すると云う意味で、両者は全く乖離しており、ここが今回の演出で最も弱い部分と思う。

 続く第11場の、従僕八人による後片付けのアンサンブルは、サロンでの貴族達の騒ぎを揶揄する内容だが、八人はナチスの制服を着たままで、これはブラック・ユーモアの漂う場面となる。第12場で、譜面を抱えて舞台に這い上がって来るプロンプターは、R.シュトラウス本人と二期会ブログにある。つまり、ここは憲兵隊長と燕尾服のマエストロの遣り取りに置き換えられている。ナチ政権下で帝国音楽院だかの総裁を務めた為、シュトラウスは後に戦犯容疑を掛けられるが、ユダヤ人の作家ツヴァイクに、次のオペラの上演される頃にはナチなんて居なくなっているから、と台本執筆を督促する手紙を送った事がナチにバレて、この職はクビになっていたらしいい。

 周知の通り、「カプリッチョ」はシュトラウス最後のオペラで、本来の時代設定はフランス革命直前の18世紀末である。音楽と言葉は同格として“オペラ改革”を唱えるグルックと、音楽の優位性を主張して旧体制を維持しようとするピッチーニとの間に起こった、ブフォン論争を題材としている。こんな呑気な内容のオペラを、切迫した戦時下に書くシュトラウスの態度は、消極的な厭戦主義と捉えるのが妥当な処と僕は思う。日本でも戦時中に随分勇ましい言動のあった人が、戦後は口を拭っているなんて例は枚挙に暇がないし、静かな抵抗を貫いたと主張する人の日記が、その死後に発表され、自分しか読まない日記にしては、えらく熱烈な戦争賛美の記述があったり、これは一筋縄で行く問題ではない。

 日本でも老いた巨匠としての芸術家、例えば谷崎潤一郎は「源氏物語」の現代語訳と、「細雪」の執筆に沈潜し、資産家で金利生活者の永井荷風は、公開を前提とした日記「断腸亭日乗」で、戦争へ邁進する政府や軍部や一般国民をボロクソにコキ卸しているが、執筆活動自体は停止している。この二つのパターンが、戦時下を過ごす芸術家の内、老大家にして耽美主義者の取る一般的な立場だろう。シュトラウスも又、然りと云う事か。40年代前半と云う作曲と初演の時期から、「カプリッチョ」を現実逃避と非難する向きも一部にあるようだ。でも、これは戦時中、実際にオペラ上演を行った為に批判される訳で、谷崎のように戦後になってから「細雪」を発表すると、“静かな抵抗”と賞賛されたりして、今も昔も世間様は常に、風向き次第なのである。

 “世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず。紅旗征戒吾が事に非ず”は「明月記」にある、藤原定家の有名なフレーズだが、戦時下に芸術の自立を守ろうとするシュトラウス爺様の姿勢は、政治的意図の皆無な分だけ音楽的な意味を深めていると、僕にはそんな風に言い切る自信は無いが、そのような考え方も在り得る事は指摘しておきたい。

 最終場への間奏曲は、コンサート・ピースとして良く演奏される“月光の音楽”。この場面の演出が両日で、やや異なっていた。土曜日はエトワール役の成人女性と男性ダンサーの組み合わせだったのが、日曜日は中学生位の少女がバレリーナとして出て来た。この場面、音楽の美しさを際立たせたと云う意味でも、少女ダンサーの踊りに深い感銘を受けた。何故、両日で踊る相手の代わったのか、その理由も不明だ。

 僕がダブル・キャスト公演を両方観て気付いた、双方で異なっている点は他にも二つ。一つはイタリア人歌手で、歌い終えた後に片方が卒倒する(これも倒れる理由は不明)のだが、両日でテノール歌手とソプラノ歌手と、倒れる役の入れ替わった事。もう一つはクレロンのメゾの衣装で、谷口さんはパンツ・ルックだったのが、加納さんはスカート・スーツだった事。これだけは理由が分かる、要するにその方が彼女達に似合っているからだ。僕はこの辺りに、演出家のご都合主義を感じ取る。

 冒頭に置かれた、パリ空爆後の伯爵邸のシーン。これは時系列に従えば、“月光の音楽”の場面に当て嵌まる。何故、時間を行きつ戻りつさせるのかは知らないが、これは話を分かり難くしただけだろう。演出家の自己満足の気配が強く、個人的に疑問を感じる。大詰めのマドレーヌによるモノローグでは、釜洞さんが銀髪の鬘に杖を突いて出て来たので、さすがに鈍い僕でも、これは何十年か先の事と読み取れた。シミジミとした雰囲気があり、悪くなかったと思う。

 「カプリッチョ」の近年の上演では、作曲された第二次世界大戦中へ、時代設定を動かす演出が多いらしい。今回の演出もその時流に沿ったものだが、僕の最も問題と感じるのは、わざわざシュトラウス爺様を視覚化したにも関わらず、その政治的な立場には何の解釈も施していない事にある。意味不明な黙役のお掃除爺さんではなく、プロンプターのシュトラウス爺様を伯爵のサロンに同席させ、一部始終を目撃させれば、その政治的な立ち位置を明確にせずには済まなくなる筈だ。政治的な解釈を避けてシュトラウスを出すのは、演出家の逃げで、あのプロンプターの出し方では面白くも何ともない。演出家は美術も兼任したが、そのセットがプログラムに載っていた、初演のセットのスケッチとソックリだったのも、芸の無い話と思う。

 ラ・ロシュに「下劣な行為を軽蔑すると言いながら、それを許しているのは諸君だ。君達は沈黙により、同じ罪を犯しているのだ」と云う台詞のある事を知り、このオペラは“言葉か音楽か”と云う二項対立に仮託された、“政治と芸術”の問題を扱っているのではないか?と、ふと思った。「カプリッチョ」は戦時下の現実逃避ではなく、芸術家の政治に接する姿勢の暗喩なのかも知れない、そんな風に感じるのだ。

 写真は会場入口でチラシを渡しておられた、泉良平さんです。ご協力ありがとうございました。
ジャンル:
音楽
キーワード
シュトラウス カプリッチョ マドレーヌ ティー・パーティー ダヴィデの星 イタリア人 フランス革命 テノール歌手 ローウェル ソプラノ歌手 オリヴィエ 谷崎潤一郎 ピッチーニ 断腸亭日乗 ダブル・キャスト ツヴァイク 第二次世界大戦中 マエストロ ハーモニック
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