オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」

2008-08-26 | 各国オペラ
<フィレンツェ・マッジョ・ムジカーレ共同制作/プレミエ>
2008年8月26日(火)18:30/まつもと市民芸術館

指揮/小澤征爾
サイトウ・キネン・オーケストラ
東京オペラシンガーズ

演出・衣装/ロラン・ペリー
美術/バーバラ・デリンバーグ
照明/ペーター・ヴァン・プラント
振付/リオネル・オッシュ

女狐ビストロウシュカ/イザベル・ベイラクダリアン
雄狐ズラトフシュビーテク/ローレン・カーナウ
森番/クィン・ケルシー
森番の妻&梟/ジュディス・クリスティン
校長&蚊/デニス・ピーターソン
神父&穴熊/ケヴィン・ランガン
密猟者ハラシュタ/デール・トラヴィス
バーセク亭主人/松原友
バーセク亭女将/増田弥生
飼い犬ラパーク/マリー・レノーマン
きつつき/牧野真由美
雄鶏&かけす/黒木真弓
雌鶏/高島敦子/柴田由香/中園陽江/北村典子/三宮美穂/橋本啓香

<SKF松本児童合唱団>
子狐ビストロウシカ/伊藤ゆきな
蛙/前田正志郎
こおろぎ&子狐/杉田円夏
きりぎりす&子狐/細谷枝里佳
森番の息子ペピーク/伊藤駿
その友達フランチーク/幅谷穣
子狐/大島美波/沢野仁美/松本知紗


 初めて聴くオペラだったが、透明で哀切な歌の続く、美しい音楽に大変感銘を受けた。「利口な女狐」には、ヴェルディやプッチーニにあるような、これみよがしな要素は全く無い。ひたすら音楽が浄らかに響くと云う意味で、僕の中では「魔笛」に比肩するオペラとなった。純粋な音楽が象徴の域にまで高められたオペラと云う意味では、「パルシファル」にも匹敵すると思う。

 客電の落ちた真っ暗なホールに、「どっこいしょ」と云う声が聞こえ、小澤がオケピットに入って来る。例によってタクトを持たずに指揮をする、小澤の前にある照明を内蔵した譜面台に、楽譜は置かれていない。「利口な女狐」を、小澤の十八番の一つとする評価が有るのかどうかは良く知らないが、今日の上演を聴き終え、チャイコフスキーやプーランクのオペラと同様に、小澤が彼なりに自家薬籠中のものとした演奏と感じた。つまり、音楽を慈しむような姿勢は魅力的なのだが、遅い部分では更にテンポを落とし、抒情的な面を強調して欲しい所もある。個々の場面ではアゴーギグの動かし方が柔軟で、リズムの扱いに弾力はあるのだが、全体を通すと同じようなテンポに終始していて、単調になってしまう。

 しかし、そんな不満は不満として、小澤がオーケストラから紡ぎ出す音には全く衒いがなく、ヤナーチェクの音楽を美しく演奏しようとする意図だけが感じられ、僕は充分満足した。とにかく、このオペラは間奏曲が長いので、オーケストラの音を楽しめなければ、どうにもならない。もしかすると小澤も遂に、老大家としての音楽を奏でるようになったのかと思う程に、滋味深いオケの音だった。

 このオペラで指揮者が聴かせ処と心得るべきは、まず二幕の女狐と雄狐の邂逅の場面で、最も力を込めるべき劇的なダイアローグのように思う。女狐のベイラクダリアンと、雄狐のカーナウの二人は共にソプラノなのだが、両者の声の対照は今ひとつ際立たない。辛うじて二人の声の聴き分けは付くと云う程度で、場面を多彩に描き分ける事の出来る、豊富な音色は無い。今日のタイトル・ロールは盛り上げるべき局面では、それなりに頑張ったが、中高の音域で音色に変化が無い為、音楽の単調になる嫌いがあった。

 一般的には、女狐の撃ち殺されるシーンが山場のように思われるのだが、ヤナーチェクがこの場面に付けたのは、とても簡明で寂かな音楽。でも、大袈裟な身振りの無い分、哀しみも深い。小澤の取ったパウゼの長さに、胸を衝かれた。

 その次の聴かせ処は、やはり幕切れ前の森番のモノローグだろうか。ここでは森番のケルシーが、ヤナーチェクの独特な朗唱法を把握した歌い振りで、しみじみと聴かせてくれる。このオペラには基本的に、ここぞとばかりに歌手が声を張り上げるようなアリアは無い。ケルシーは地味なレチタティーヴォのような歌を、巧みに広げたダイナミック・レンジで聴かせてくれる。この若いバリトンの歌には、今日の他の歌手たちから抜きん出たものがあり、それは多分テクニックの問題だけではないのだろう。あくまで淡々と進むうち、次第に感動の深まって行く音楽の中では、歌手の美声や華麗なテクニック等、あまり必要とされない。このオペラの上演の勘所は、モラヴィア語のイントネーションを基本としたヤナーチェクの音楽を、如何に表現するかに尽きる筈。今日の上演で最も疑問だったのは、小澤がモラヴィア語を解さないのは当然として、歌手の中にもネイティヴ・スピーカーの見当たらない事だった。

 演出で気になるのは、セットも着ぐるみも妙にリアルに作ってある事。そもそも、このオペラは全くリアルな話ではない。蚊と蛙と狐と人間が、全て同じ大きさである事からして変なのだから、造形がリアルであればある程、その辺の違和感が募って来る。飼い犬は四本脚で歩くのに、狐は二本脚で走り去るのも、何だか妙な感じ。雌鶏たちがスライド式の鳥小屋に収まっていて、森番の妻が引き出すと、ゾロゾロ出て来る工夫は面白かったが、この雌鶏たちが羽をパタパタさせる度に、僕の後ろの席の婆ちゃんたちが、「きゃあ、可愛い~」と嬌声を上げるのは、あまり気持ちの良いものではなかった。

 女狐だけは胸元を大きく開いて、おっぱいの谷間を見せる衣装で、オペラのタイトル・ロールの造形として納得の行くものだったが、何故このコンセプトで他の役の衣装も統一しなかったのか、疑問に思う。間奏曲の際に、必ず蝿のダンサーが出て来て踊るのも、全くワン・パタ-ンで芸の無いこと夥しいし、ヴォーカーリーズによる合唱が全て陰コーラスなのも、演出の逃げとしか思えなかった。

 女狐と雄狐は、常に前向きで未来志向なのに、校長や神父等の人間達は、過去に捉われていて後ろ向き。女狐が穴熊の巣を横取りしたり、鶏を全滅させたりするのは、如何にも厚かましいにも関わらず、見ていて実に爽快なのだが、密猟者のハラシュタが同じような事をするのは、何だか陰険に見える。若者と老人と云う暗喩なのかもしれないが、そこを絵にして見せるのが演出の仕事の筈。要するに、今日の演出には統一された視点と云うものが無く、全て思い付きの域を出て居ないと感じられた。

 文句ばかり言っているようだが、こんなに美しいオペラの上演の際には、演奏前にオケも歌手も、既に浄化されているのだと思う。このオペラの理想的な上演といっても、果たして次に何時、「利口な女狐」の実演に接する事が出来るのだろう。ただ純粋に音楽だけを鳴り響かせた、今日の小澤の指揮による上演は、このオペラの真価に接する事の出来る、本当に貴重な機会だったと思う。
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『利口な女狐の物語』 (頁の余白から ―― 幕間のひとりごと)
松本は空気と水が清涼で、初めて行ったときからとても気に入っている。サイトウキネン