オペラの夜

出かけたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深めるためのブログです。

ブリテン「カーリュウ・リヴァー」op.71

2009-05-16 | 各国オペラ
<いずみホール・オペラ/プレミエ即千秋楽>
2009年5月16日(土)18:00/いずみホール

能「隅田川」
シテ・狂女/観世銕之丞
ワキ・渡守/福王和幸
ワキヅレ・旅人/福王知登
子方・梅若丸の霊/寺澤拓海
笛/藤田六郎兵衛
小鼓/大倉源次郎
大鼓/山本孝

オペラ「カーリュー・リヴァー」
指揮/高関健
いずみシンフォニエッタ大阪アンサンブル
The Chorus of Pilgrims

演出/岩田達宗
照明/原中治美

狂女/経種廉彦
船頭/晴雅彦
旅人/西田昭広
少年の霊/老田裕子
修道士長/花月真


 日本で能の「隅田川」を見物し、深い感銘を受けたブリテンが、物語を翻案してイギリス中世に移し、作曲したオペラが「カーリュー・リヴァー」である。このオペラは演奏時間が短く、先立って本歌である「隅田川」を上演する場合が多い。能楽とオペラを二本立て上演する事により、音楽劇としての「隅田川」と「カーリュー・リヴァー」の類似性と相違点を、浮き彫りにしようという試みである。

 まず最初に、僕は能楽の舞台と云う物を今日、生まれて初めて鑑賞した事を告白しておく。初経験の感想は、古典芸能の語り物って、みんな声明の親戚なのかなぁ、と云う物。つまり、お謡を聴いていると、何だか親戚の法事に出席して、坊さんのお経を聞かされているような気分になり、何度も心地良い睡魔に襲われる事となる。実際に地謡の男声八名が、南無阿弥陀仏の念仏を唱える場面もあり、ホール内には抹香臭い雰囲気が漂う。してみると大鼓の奏者が時折、突拍子もない奇声を発するのは、居眠りする観客を叩き起こす為だろうか、等とツマらない事を考える。

 でも、音楽劇としての能楽には、ヴォーカルによる語りがあり、インストゥルメンタルの間奏曲があり、両者がトゥッティで盛り上げたりと、なかなか変化に富んでいる。笛奏者が豊かな力量で聴かせてくれるし、地謡の男声コーラスも良いアクセントになっている。ところでお能初心者は終演後、これって一体何処で終わったんだ?とか、何時拍手すれば良かったのだ?とか云う、素朴な疑問に捉われる。少し調べてみると、どうやら能楽に於ける拍手のタイミングは、クラシックの場合よりも微妙な問題を孕んでいるようだ。

 能楽では、取り分けて悲劇的な結末の演目では、深い感動と共に余韻を楽しむ為、演者全員が引っ込むまで拍手は控えるべきである。又、舞台上に誰も居なくなるまで上演は続いているので、シテ、ワキ、地謡、後見役…と舞台から退場する度に、パラパラと拍手をする“必要”はない、と云うのが最大公約数の意見のようである。演者は退場の際に誰も客席に一礼せず、拍手をするキッカケを掴めなかったので、僕は最後まで拍手はしなかったが、今日はクラシックの観客が大半だったので、一度起こった拍手は最後まで途切れる事はなかった。

 オペラのお話は、誘拐された息子を探して彷徨う半狂乱の母親が、我が子は既に一年前、病で衰弱した為に誘拐者に置き去りにされ、逝った事を知る。母親が墓前に祈りを捧げると少年の声が聞こえ、狂っていた母親は救済される、と云う物語。「隅田川」では、少年の声は狂った母親の幻聴とし、仏教的な無常観を強調しているが、オペラでは少年の声は神の啓示で、母親に宗教的な救いが与えられている。ついでに言うと、少年が残酷な大人に虐待されるシチュエーションは、「ピーター・グライムズ」と共通している。

 舞台裏から巡礼達の唱うグレゴリオ聖歌が聴こえ、指揮者とアンサンブルを含めた出演者が、ゾロゾロと舞台に出て来て、上演が始まる。地謡とグレゴリオ聖歌には似通った雰囲気があり、ブリテンの「隅田川」に惹かれた理由の一端が分かる。グレゴリオ聖歌を唱いながらコーラスの入場するのは、ブリテンの合唱曲中で最も知られた「キャロルの祭典」と同じ趣向。そもそも、この曲はオペラではなくキリスト教の奇跡劇と銘打たれていて、専用の演奏会場ではなく、教会での上演を想定した、宗教儀式としての性格がある。

 「カーリュー・リヴァー」は、能楽の何となく入る感覚をスコアに記譜してあり、故意に奏者の入りの頭を揃えていない。入りのタイミングをズラしたり、半音ぶつけたり、二種類のテンポが並行したりしている。音程自体は特に難しくはないのだが、譜面ヅラはシンコペーションだらけで、異様に難しいらしい。そこを今日の指揮者の高関健は、手慣れた様子でテキパキと指示を出し、キレイに交通整理して流麗な音楽に仕立てていた。しかし「カーリュー・リヴァー」では、アンサンブルがお互いにキューを出し合い、フレーズを揃える事がスコアに指定されているらしい。つまり能楽と同じように、お互いのタイミングを計りながら、指揮者無しで演奏するスタイル。

 スコア通りにキッチリ演奏すると、邦楽のような“ゆらぎ”は感じられず、ごく普通のリズム感覚に聴こえてしまうパラドックスが、この作品にはあるように思う。八名のユニゾンによる男声合唱には、地謡衆のようなユルイ感覚があったのだが、七名によるアンサンブルは滑らかに圭角の取れた演奏で、やや整理し過ぎかも知れない。このオペラは多少ゴチャゴチャしても、室内楽のように各奏者がお互いに聴き合いながら演奏した方が良いのだろう。今日の演奏は、譜面を正確に再現する事に重点を置いた為、奇跡の起こる肝心な場面での盛り上がりに、やや欠けてしまったように思う。

 主役の三人の歌手は、それぞれ役に合った声で、ブリテンの音楽を的確に表現していた。狂女の経種廉彦はリリコ・レジェーロの綺麗な声のテノールだが、音色の変化を全く意識せず、終始一貫ノッペラボーな歌い振り。でも、これが息子の事だけを思い詰める、狂った母親の単調な心象風景に、ピッタリ嵌まったのが面白い。船頭の晴雅彦も持ち声の足りない部分を、考え抜いた歌い回しで補い、この重厚な役の為に充分な準備を積んだ事が、如実に伝わる。オドケて見せるのだけが、自分の持ち味ではない事を証明し、見事な演唱だった。旅人の西田昭広も重目のバスの声質が、晴のハイ・バリトンと好対称で、良い効果を挙げていた。

 昨年の「真夏の夜の夢」でも強調した、ブリテンの声楽曲に於けるボーイ・ソプラノ起用の問題。クライマックスでの少年の声を、成人女性のソプラノで代用する考え方には、このオペラに対する根本的な誤解があるように思う。これは老田さんの声云々の問題ではない。謡曲の「隅田川」ではキチンと、梅若丸の霊に子方である寺澤拓海君が起用され、感動的な効果を挙げていただけに、これ一点で今日のオペラの上演が、能楽の充実に及ばない結果をもたらした、そう言い切っても過言ではないと思う。

 演出もイマイチかなぁ…。セットらしいセットはなく、あまり照明も当てない暗い舞台上で、モノクロームな衣装の歌手達が、殆んど演技もせずに歌うだけ、と云う印象しかない。そもそもオペラの上演に能舞台を使わず、休憩時間に片付けてしまったのが疑問。「カーリュー・リヴァー」が「隅田川」に対抗するには、グランド・オペラ風にゴテゴテやるか、逆に能楽風の演出に徹するかの、どちらかしかないと思うのだが、今日の岩田の演出は中途半端に西洋風で、今ひとつピンと来ない。これは以前から感じている事だが、やはり彼は「第三舞台」出身の喜劇の人で、悲劇の演出には向いていないのだと思う。

 「キャロルの祭典」と同じく締め括りでも、出演者はグレゴリオ聖歌を唱いながら袖に引っ込んで行く。「カーリュー・リヴァー」のスコアには、ブリテン本人が初演の際に使った、演出ノートが付録に付いていて、一同がゾロゾロ退場するのも、その指定通りの演出。ただ、全員が袖に引っ込み、舞台上がカラッポになった処で、まだ聖歌の声が聴こえているにも関わらず、盛大な拍手の起こったのは誠に残念な事であった。拍手の向こうからは随分長い間、歌声が聴こえていた。多分、ブリテンは「隅田川」を観た際、上演が終っても拍手をせず、余韻を味わう当時の日本の観客にも、感銘を受けたのだろうと想像する。現代のコンサート・ホールに蔓延する、性急に拍手をする習慣は、是非とも改められるべきと感じた。
ジャンル:
音楽
キーワード
グレゴリオ聖歌 いずみホール 真夏の夜の夢 グランド・オペラ コンサート・ホール ピーター・グライムズ トゥッティ 観世銕之丞 藤田六郎兵衛 シンフォニエッタ
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