オペラの夜

出かけたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深めるためのブログです。

クレマン・ジャヌカン・アンサンブル2009日本公演

2009-09-27 | ピリオド
<甦るルネサンス/驚異の男声五重唱>
2009年9月27日(日)14:00/伊丹アイフォニックホール

アンサンブル・クレマン・ジャヌカン ENSEMBLE CLEMENT JANEQUIN
カウンターテナー/ドミニク・ヴィス(ディレクター)
テノール/セルジュ・グビウ
バリトン/ヴァンサン・ブーショ/フランソワ・フォーシェ
バス/ルノー・ドレーグ
リュート/エリック・ベロック

クレマン・ジャヌカン
A ce joly moys de may この美しい五月に(四声)
Ce moys de may この五月(四声)/Va Rossignol 夜鶯よ行け(四声)
Bel aubepin verdissant 緑に萌える美しいサンザシ(四声)
M'amye a eu de Dieu le don 恋人は神の贈り物を授かり(四声)
Si le coqu en ce moys この五月に郭公が(四声)
Herbes et fleurs 草と花(四声)/Le Chant de l'alouette 雲雀の歌(四声)
Sur l'aubepin qui est en Fleur 花咲くサンザシの梢で(四声)
Au verd boys je m'en iray 緑の森へ(四声)
Si Dieu vouloit que je feusse arrondelle 神様が僕を燕に変えてくれたなら(四声)
Quelqu'un me disoit l'aultre jour ある人が私に言った(四声)
Or vien ca さあおいで(四声)/Le chant des oyseaulx 鳥の歌(四声)
クロード・ル・ジュヌ
Voicy du gay printemps 楽しい春が来て(二声)/d'un oeil farde 媚びた目(四声)
Tu ne l'enten pas 君には分からない(四声)/Le Chant de l'alouette 雲雀の歌(五声)
Qu'est devenu ce bel oeil この美しい目は(四声)
Laute joun 或る日(五声)/Le chant du Rossignol 夜鶯の歌(五声)
Debat la nostre trill'en May 五月に葡萄棚の下で(四声)
Je bois a toi mon compagnon 貴方に乾杯(五声)
<リュート独奏>
ピエール・アテニャン「プレリュード/黄色と白が」
ギョーム・モレル「スコットランドのブランルとロメーヌ」


 昨日のヘンデル・オペラに、今日はジャヌカン・アンサンブルと古楽の演奏会が続き、連日の伊丹通いとなった。今日のコンサートでは、事前にプログラムが発表されたのか良く分からず、僕は当日の会場で初めて詳細な曲目を知ったのだが、これが前回四年前の来日時のコンサートと全く同じ内容の、ジャヌカンとル・ジュネによるシャンソン・プログラム。このプロは定番になっているようで、箸休めに挿入されるベロックのリュート独奏を除き、前回から一曲の異同もなかった。まあ、四年も前の演奏の記憶は空漠としているし、それと世俗音楽の場合はポピュラーな、毎度お染みのレパートリーを聴かせて貰うのも楽しいので、その点に不満がある訳ではない。

 例によって開演前の舞台上には、黒いクロスを掛けたテーブルが置かれている。アンサンブルの五人のメンバーは、このテーブルの上に楽譜を開き、椅子に着席したまま歌う。これは初来日時から変わらない、ジャヌカン・アンサンブル独特のスタイル。作曲された当時の多声シャンソンやマドリガーレ等が、直ぐに楽譜として出版されていたのは、専らアンサンブルを楽しむアマチュア向けだったのでは、と僕は考える。人に聴かせるのではなく、歌う自分達で楽しむのだから、起立して歌う必要などない訳で、だから彼等がテーブルを囲むのは、素人がアンサンブルを楽しむオーセンティックなスタイルで理に適っている、と僕は思っている。客席にお尻を向けるヤツが居ても良い位だ。

 今日もジャヌカン・アンサンブルの演奏は充分に楽しめた。ジャヌカンは四声曲ばかりで、メンバーは常に一人余っているので、最低声部をバスのドレーグとバリトンのフォーシェが交互に歌っていた。又、アカペラとリュート伴奏を付ける曲の割合も、ほぼ半々だったが、その仕訳けの基準はイマイチ良く分からない。速い曲はアカペラ、遅い曲には伴奏を入れると云う事でもなさそうで、「鳥の歌」のような擬音の入る曲はアカペラ、「緑の森へ」のような抒情的な曲にはリュートを付けると云う、大雑把な傾向はあるようだ。

 今回の公演では初来日時から、常にヴィスの隣りで芸達者な処を聴かせてくれた、テノールのブルーノ・ボデルフが居なかった。その代わりのテノールの声は輝きに乏しく、また完全な頭声に入っていないので、とりわけ四声曲で全体のアンサンブルのハーモニーの完成度を下げてしまったように思う。従って、後半のル・ジュネでの五声曲の演奏は、四声曲よりも充実したアンサンブルとなり、あまり感心した理由ではないが、目の覚めるように鮮烈な効果を挙げていた。

 巷間、フランス人は個性を尊重すると良く云われる。タリス・スコラーズやキングズ・シンガーズに代表される、イギリスの声楽アンサンブルが歌手の個性を抑え、あくまで圭角の取れた流麗な音楽を志向するのに対し、ジャヌカン・アンサンブルは全体の音色を決定付ける、カウンターテナーのドミニク・ヴィスを筆頭に、五人のメンバーが出し惜しみをせず、声の個性のぶつかり合いによって音楽を作っている。又、そのエンターテインメント性にもフランス風に下世話な処があり、イギリス勢の紳士風で上品なユーモアを湛えたステージ・マナーとは、大きく異なっている。

 「この男声ばかりの重唱団は芸達者ではありますものの、時として調子に乗りすぎる嫌いがあります。たしかにジャヌカンのシャンソンにはハメをはずしたような歌詞があって、歌っている側でもツイツイそれに乗ってしまいがちですが、実はそれはジャヌカンの罠にマンマとはまってしまったということです。まるでデタラメのような歌詞とは裏腹に、ジャヌカンの音楽はなんと気品と誇りとにみちて流れているではありませんか」と、これは碩学・皆川達夫大先生の有難い御宣託である。昔、まだ僕がレコード芸術を購読し、毎月新入荷する輸入盤を小まめにチェックしていた頃、大先生はジャヌカン・アンサンブルの新譜が発売される度、やや大人気無いほど居丈高に、彼等の演奏をクサしていた事を思い出す。ジョスカンの世俗音楽集なんかは、クソミソにコキ卸してましたな。

 実際、あの頃はジャヌカン・アンサンブルのCDを熱心に聴いたものだ。でも、僕はその演奏を聴きながら、これは録音技術によって美しく響くのであって、実演で聴くとハモって聴こえないのでは?等と、失礼な想像をしていた。96年の彼等の初来日の際には、関西でも京都と大阪で二公演があり、僕は手ぐすね引いて待ち構え、そして初めて聴いた実演でのジャヌカン・アンサンブルに、心底から驚かされた。こんな遣りたい放題の発声法でもキチンとハモらせる事は可能なのだと、あれは僕にとってカルチャー・ショックとなる程の経験だった。

 ジャヌカン・アンサンブルの演奏が、しばしば悪乗り気味になるのは事実だが、そのような彼等のサービス精神の発露を非難する人達(大先生も含めて)の考え方は、僕には理解し難い処がある。ジャヌカンに代表される十六世紀フランス・多声シャンソンを、大先生の仰るような香気の高い芸術的歌曲と捉える、考え方そのものを否定する訳ではない。ただ、多声シャンソンは本来、現代のコンサート・ホールでプロのアンサンブルが演奏する性質の音楽ではない。仲間内で楽しむ分には幾ら崩して歌っても、大先生に叱られる気遣いはないし、内輪ウケを狙って悪フザケのエスカレートする場合も多々あっただろう。

 僕の場合、十六世紀フランス・多声シャンソンを、ジャヌカン・アンサンブルの録音で初めて知った訳で、それ以外の演奏は未だに殆んど聴いてはいない。つまり、スタンダードなのだ。ジャヌカンのシャンソンには、もっと端正な演奏もあって然るべきとは思うが、だからと言って、それがジャヌカン・アンサンブルの羽目を外した演奏を排する事に直結はしない。これは大先生も認めているようだが、ジャヌカンやセルミジやベルトランの音楽のエスプリを充全に表現する事は、ネイティヴのフランス人にしか出来ない芸当と思う。それはフランス多声シャンソンが、極めてローカルで特殊な音楽だからなのだが、ドビュッシーやラヴェルやプーランクなら極東の日本人にも、それらしい演奏は可能な訳で、これは単純にルネサンスの音楽が世間に膾炙していないからだと、僕は考える。

 ジャヌカン・アンサンブルのシャンソン演奏では、専ら装飾音の頻繁に使用される事に非難が集中しているようだ。でも、何せドミニク・ヴィスはケルビーノのアリアや“人知れぬ涙”に装飾音を付ける人だし、世俗シャンソンで即興を付加する等、当然の事と考えているのだろう。実はドミニク君には学究としての側面もあり、原典手稿から現代譜への校訂や、演奏スタイルの時代考証等も自ら手掛けているらしい。彼等の演奏は研究とその実践なのだから、その実演に異論があれば、そう指摘して論議すれば良いだけの話なのだ。

     僕は彼女のドレスを持ち上げ、急いでエプロンを捲った。
     お嬢さん、君のエプロンの下にある茂みに触らせてくれ。
     ペチコートの下に小さな割れ目を見つけた。
     僕はズボンの前を開け、そこに自分の釘を差し込んだ。

 何と申しましょうか、こんな歌詞の付いたシャンソンを、真面目クサった顔して歌う方が余程どうかしていると思うのであります。アンコールの酒呑み唄では、メンバー全員で次第に酔っ払って行く演技があり、最後にヴィスがドスンと音を立て、テーブルに頭を打ち付けて突っ伏したのには、僕も思わず声を出して笑ってしまった。
ジャンル:
音楽
キーワード
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2 コメント

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プログラムは (さわやか革命)
2009-10-12 22:04:13
そちらでは何故かスペインものはやらなかったんですね。

いつだったか忘れましたが、かなり前の来日公演では人間の身体の某器官の名を連呼するという恐ろしい曲を歌ったこともありましたな。訳詞もそのままでは載せられないとゆう……。
邦訳は二文字 (Pilgrim)
2009-10-13 22:14:12
 それはヴィラールトの「アラスの市場で」でしょう。野菜を売るみたいに、娼婦が自分の商品を売り込む口上の歌です。

 トンデモない歌詞にソフィストケイトされた音楽の付く、それがルネサンスと云う時代だったのでしょうね。

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