オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

水野修孝「天守物語」

2016-03-19 | 日本オペラ
<日本オペラプロジェクト2015>
2016年3月19日(土)14:00/兵庫芸術文化センター中ホール

指揮/山下一史
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
宝塚少年少女合唱団

演出/荒井間佐登
美術/池田ともゆき
照明/岡田勇輔
衣裳/桜井久美
振付/飛鳥左近

富姫/角野圭奈子
亀姫/沢崎恵美
姫川図書之助/中鉢聡
朱の盤坊/泉良平
舌長姥/きのしたひろこ
薄/福原寿美枝
侍女/楠永陽子/四方典子/西村薫/中嶋康子/森井美貴


 水野修孝と云う作曲家にも、オペラ「天守物語」にも、何の予備知識も持たないまま西宮北口まで出掛けた。ホールに到着し受付でプログラムを貰い、やおらストーリーの梗概を頭に入れようとする、我ながら天晴れな泥縄振りである。

 オペラは小太鼓系の邦楽器のピアニシモで始まり、フツーに調性のあるメロディーが聴こえ、やがてゲンオンっぽい音響での強奏となる。素朴な感想だが無調なら無調に徹した方が、全体の構成もスッキリする筈で、木に竹を継いだような印象を受けるし、僕には「天守物語」は常に旋律の聴こえる、折衷的な音楽と感じられる。幕間にオケピットの中を確認すると、邦楽器はパーカッションのみで、筝や尺八等の管弦楽器は一切使われていない様子だ。無調に旋律をくっ付けるのが、聴き易さを考えての配慮であれば、もっと邦楽のイディオムを取り込み、和の雰囲気を醸した方が聴衆へのサービスになるのでは?と思う。まあ、それを遣ると細川俊夫になるけれども…。

 一幕の富姫と亀姫の、二人のソプラノのデュエットは「アラベラ」を、武田門之介の生首は当然ながら「サロメ」を連想させ、作曲者はR.シュトラウスを意識している事を隠さない。亀姫の沢崎恵美は、格段に美しいリリコ・レジェーロで、オペラに華やかな彩りを添える。但し、オペラらしい歌はこれ位で、後はオケの間奏と、歌手の朗詠とが交互に出て来るだけで、僕はこの曲をオペラとして聴く事自体に無理を感じる。また、「天守物語」はNHKがテレビ放映用に委嘱した曲で、鏡花の戯曲から尺数の都合でカットされた台詞を、舞台上演版への改訂の際、後からレシタティーヴォとして挿入している。この後から突っ込まれたレシタティーヴォは抑揚に乏しく、歌か語りかも不分明な平べったい旋律で、お経のようにアカペラで延々と唱われる為、聴く側として相当な忍耐を強いられる。

 二幕に至り、事態は更に悪化する。そもそも立役者の筈の姫川図書之助が、朗詠ばかりで殆ど唱わず、ソコソコ名の通ったオペラ歌手を起用したにしては、テノールらしい歌はほぼ皆無で、これではオペラを聴く楽しみが無い。この曲はオペラでは無く、単なる劇伴音楽と言い切っても良いかと思われる。山場を盛り上げるのは歌では無く常にオケで、レシタティーヴォはドラマ進行のリズムを作らず、何れにしても歌の劇的展開力を等閑にしている。オペラをオペラとして成立させる、推進力は「歌」以外に有り得ない筈だが、恋人達が喜びを唱い上げる筈の場面で歌は止み、オケのみで盛り上げ全曲の山場を作る、そんなシロモノを僕はオペラとは呼びたくない。

 何と云っても泉鏡花の戯曲を原作とするオペラで、舞台作りに妖異な美しさを要求するのは、予算不足を察しない無い物強請りなのだろうか。でも、あの張り子の獅子頭や、亀の城主の生首のショボさは許容範囲を超えていて、鏡花の耽美的な世界の視覚化からは程遠い。恋人達がパイプで組み立てた、ビル建設の足場みたいなセットの天辺に立ち、目出度く昇天する幕切れも寂しい限りである。

 「天守物語」は作曲者としては観客サービスの積もりだろうが、音楽的にゴタゴタ詰めこみ過ぎで、ストーリー展開を素直に楽しめるように出来ていない。邦楽のイディオムの取り込みに徹するのか、或いは無調の響きで心理描写するのか焦点も定まらず、音楽の構成は散漫なまま放置されている。正直、何故この曲が繰り返し上演されるのか、僕には理解出来ない。これならば細川俊夫の既作の方が、エンターテインメントとして余程良く出来ていると思う。
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