オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

ヴェルディ「リゴレット&椿姫」

2013-04-13 | ヴェルディ
<ヴェネツィア・フェニーチェ歌劇場特別コンサート/演奏会形式>
2013年4月13日(土)14:30/フェスティバルホール

指揮/チョン・ミョンフン
テアトロ・ラ・フェニーチェ管弦楽団
テアトロ・ラ・フェニーチェ合唱団

ジルダ&ヴィオレッタ/エカテリーナ・バカノワ
マントヴァ公爵&アルフレード/シャルヴァ・ムケリア
リゴレット&ジェルモン/ジュリアン・キム
マッダレーナ/エリザベッタ・マルトラーナ
フローラ/クラウディア・エルネスタ・クラリチ
ガストン子爵/ディオニージ・ドストゥーニ
ドゥフォール男爵/エマヌエーレ・ぺドリーニ
ドビニー侯爵/エミリアーノ・エスポジト
女中アンニーナ/サブリナ・オリアーナ・マッツァムート
医師グランヴィル/ニコラ・ナレッソ
召使ジュゼッペ/ロベルト・メネガッツォ
使者/ジャンパオロ・バルディン
給仕/ジュゼッペ・アッコラ

「リゴレット」より
前奏曲/二重唱「愛は心の太陽だ」/アリア「慕わしき御名」/
合唱曲「静かに、静かに」/アリア「彼女の涙が見えるようだ」/
四重唱「いつかお前に会ったような気がする」/アリア「女心の歌」
「椿姫」第二幕より
アリア「燃える想いを」/二重唱「天使のように清らかな娘」/
アリア「プロヴァンスの海と陸」/フィナーレ


 個人的に“チョン・ミョンフン祭り”として楽しんでいる、フェスティバルホールの開幕シリーズも三日目で最終日。これまでの二日間はソワレで、今日は初めてのマチネとなる。その土曜日の早朝、大阪で震度四の地震が起こる。十八年前の大震災とほぼ同時刻で、しかも震源地は淡路島との事。これは日本列島全体で、地震の多発する時期に差し掛かっているのかも知れないと思う。

 今も毎日、福島のテレビ・ニュースでは天気予報と共に、県内各地の「今日の放射線量」を伝えている。“地震大国”日本に、五十基もの原子力発電所を作った事自体が間違っている。そうフクシマ・ダイイチの事故で反省した筈が、最近は喉元過ぎれば何とやらで、賢し気に「原発を再稼動させないと、経済が立ち行かない」と言い募り、原発全廃の主張を感情論として蔑む意見が幅を利かせているように思う。ドイツに出来た事が、何故に日本では出来ないのか。今は新しく組織された、原子力規制委員会に期待するしかないとは、全く情け無い話だ。

 地震の影響でJRも私鉄も一旦運転を見合わせたが、幸い直ぐにダイヤ通りの運行に戻ったようだ。念の為、フェステバルホールのサイトを覗くと、公演は予定通り行うとあった。交通機関に影響が出ているので遅れないように来いとの、要らぬお節介も書いてあった。

 コンサートは前半の「リゴレット」と、後半は「椿姫」をハイライトで演奏する。前奏曲で始まる「リゴレット」の方は、専らマントヴァ公とジルダが歌い、タイトル・ロールはアリア“悪魔め鬼め”すら歌わず、やや肩透かしに感じる。“静かに、静かに”と大声で歌い合う男声合唱も、箸休めには良いが倍音に乏しく、もう少し輝かしい声のトップ・テノールで聴かせて欲しかった。

 マントヴァ公爵のシャルヴァ・ムケリアは端正な歌を唱うテノールで、常にイン・テンポを守り、ポルタメントやグリッサンドは最小限しか使わない。ただ、リズムに音楽的な揺れの無い上、声の音色の変化も一切無い。この方はハイCをキッチリ出すし、変に歌い崩したりしない、高い技術力のあるテノールとは思う。だが、ちゃんと強弱を付けて、唱い回しに工夫はあっても、歌そのものに全く感情が籠っていない。結局、演奏に滲む情感とは音色の変化、つまり倍音構造の変化でしか表現出来ないと気付かされる。

 ジルダのエカテリーナ・バカノワは柔らかく暖かい声質は良いが、高音部で度々フラット気味になる。コロラトゥーラのテクニックを手の内にしていない、まだ未完成なソプラノと感じる。ヴィオレッタではポルタメントを多用し、遣り過ぎる程にルバートして、パセティックな表現力に長けた歌を唱う。ただ、この歌い方で一幕のアリアを唱いこなすのは、まず無理だろうと思う。

 「リゴレット」ではカルテットのみを歌ったジュリアン・キムだが、「椿姫」の方はジェルモンで、こちらはタップリと歌って頂く。剛毅な声質のバリトンで、絵に描いたように謹厳実直な歌い振り。豊かな声量を生かした振幅の大きなデュナーミクと、音色の変化を意識した、立派な表現力がある。「プロヴァンスの海と陸」は超有名アリアだが、往々にして単調になり勝ちな曲で、これだけの声量が無いと歌いこなせないのだと分かる。まだ若い人のようだが、既に充分な実力者で、これは前途洋々の逸材と思う。

 ミョンフンはオケから冴々とした美しい音色を引き出す。パウゼでタメを作り、思い切ったルバートやアチェルラントを仕掛けても、この人の演奏は決してアザトくはならない。ミョンフンには絶対音感と同じような、“絶対リズム感”みたいな能力のベースにあって、常に正確且つ清潔なテンポを保っているからと思う。主役歌手は三人ともリズムのキッチリしていて、そこを唱い崩すような歌手では、ミョンフンとの共演は難しいのだろう。

 「リゴレット」は添え物扱いだったが、「椿姫」二幕は冒頭部分を割愛しただけで、普通はカットされる「プロヴァンスの海と陸」のカバレッタも入れ、ほぼ全部演奏された。何故、途中から始めたのかは知らない。僕はミョンフンの振る「椿姫」を四年前、やはり演奏会形式ではあるが全曲を聴いている。その際も一昨日の「オテロ」でも、ミョンフンは興奮を煽るのでは無く、冴々とした美しい音色と、静かに滾るような情熱とで聴かせてくれた。弦楽陣からは一心不乱に弾いている様子を窺がえるし、オーボエやフルートの木管陣は達者な技量で持って、それぞれ指揮者の要請に応え、フィナーレを大いに盛り上げてくれた。

 新装成ったフェスティバルホールは正面玄関を入ると、赤い絨毯を敷いた大階段を登ってホール入口へ向かう仕掛けで、このアプローチはコンサートへの期待感を高めて悪くない。でも、エントランスを右手に回り込み、一階席へ登るエスカレーターは無駄に長過ぎ、グルリ回り込まないとホール本体へ辿り着けない、建物の構造自体に疑問を感じる。更にメイン・ロビーの薄暗いのにも首を傾げる。そもそも狭苦しい上、四ツ橋筋に面した一角は壁に覆われ、窓は両端に小さいのがあるだけで、薄暗い空間には閉塞感すら漂う。これは無駄に広いエントランスを階下に作った煽りで、メイン・ロビーを狭くして終ったように思う。これではマチネでもソワレでも、会場の雰囲気は何も変わらない。

 三千人近い収容能力のあるのに、脱出口が一方向だけなのも不安だ。何故、両側に階段を付けなかったのか不審に思う。ホールの音響自体は悪くないが、これもコンクリートの乾き切るまで、本当の処は分からない。これならば湖に面し、ロケーション抜群のびわ湖ホールの方が遥かに良いし、広々として開放的なロビーのある兵庫芸術文化センターにも劣る。誠に残念ながら、新フェスティバルホールは手直し程度では処置無しの、建物として根本的に出来損ないと思う。
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