オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

松村禎三「沈黙」

2015-06-29 | 日本オペラ
2015年6月29日(月)14:00/新国立劇場

指揮/下野竜也
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
世田谷ジュニア合唱団

演出/宮田慶子
美術/池田ともゆき
照明/川口雅弘
衣裳/半田悦子

ロドリゴ司祭/小餅谷哲男
フェレイラ教父/黒田博
キチジロー/星野淳
モキチ/吉田浩之
オハル/高橋薫子
通辞/吉川健一
井上筑後守/島村武男
ヴァリニャーノ院長/成田博之
おまつ/与田朝子
少年/山下牧子
じさま/大久保眞
老人/大久保光哉
チョウキチ/加茂下稔
役人/峰茂樹


 僕が初めて「沈黙」を観たのは十二年前、今日と同じくロドリゴを小餅谷哲男の歌う、大阪音大制作のザ・カレッジ・オペラハウス公演だった。演奏の出来自体は良く覚えていないが、音楽そのものの力は充分に伝わり、その上演からは大きな感銘を受けた。あの小さな会場の小さなオケピットに詰め込まれた、スコア通りの楽器編成のオケ(弦は多少減らしたようだが)の、大音量の迫力に圧倒された。三年前、中ホールで行なわれた新国立劇場のプレミエ上演では、オルガンやパーカッションはピットに入り切らず、リハーサル室での演奏を同時中継したらしい。今にして思えば大阪音大の上演は、天晴れなものだった。

 オペラは隠れキリシタンを焚刑にする、強烈な音楽で始まる。この冒頭のオーケストレーションを聴けば、松村禎三が委嘱先との五年以内と云う契約を守れず、完成までに十三年を費やした、その緻密な彫琢の跡を窺える。第一場のドッペル・コールでは平明な賛美歌風の旋律と、無調の激しい音楽を対置して、曲全体のコンセプトも明示される。第二場から五場までは、無調のレシタティーヴォを主としながら、オハルとモキチの愛のデュエットやロドリゴの「山上のアリア」等、調性のある歌を挟み、嵐の前の静けさのような音楽が続く。

 松村禎三はロドリーゴの内面の葛藤に終始する、「沈黙」の本筋のお話しの間へ原作には無い、オハルとモキチの恋人達の挿話や、コメディ・リリーフとしてのキチジロー等で彩りを添え、オペラの展開に演劇的な工夫を凝らしている。キチジローの星野淳は役処を良く把握し、軽妙な演技を観せてくれる。また、レジェーロ同士でカップルを組む、高橋薫子と吉田浩之のベテラン・コンビは共に、その柔らかく美しい声を効果的に聴かせる。第十場でオハルの幻影として現れたモキチの、暗く激しい音楽の中に一筋の光の射すようなアリアで、吉田の柔らかい歌声に胸を衝かれた。ただ、高橋の歌う二つのアリアは、その内容の重さに合わせ、故意に重い声を作っているようで、彼女らしい魅力に乏しかったように思う。

 二幕後半のロドリゴとフェレイラの対話に至り、音楽は只ひたすら重苦しくなって行く。フェレイラの黒田博は持ち前の重い美声で、深刻な内容に説得力を与える。異教徒の走狗として生き長らえるフェレイラの、それでも信仰を捨て切れない苦悩を、黒田はデュナーミクの工夫に合わせた、音色の変化で表現している。だが、黒田の歌を聴いている内、主役を努める小餅谷哲男の歌い振りに疑念が湧いて来る。小餅谷は凡そ節操無く何でも歌う人で、僕はこれまでに彼の歌を度々聴いて来た。ロドリゴに付いて小餅谷哲男は、「この役は特別で、何回やっても眠れない日が続く」と語っていて、一応のめり込んではいるようだが、それを音楽的に表現出来ているとは言い難い。

 成程、小餅谷の歌から役への思い入れは伝わるが、それを具体的に表現する技術は無いので、結局は単調な歌い振りに陥って終う。この人は声を響かせるポイントが常に一定で、高低の音域で全く音色の変化が無く、ただ単に旋律の上下する歌にしか聴こえない。幾ら眠れない程に入れ込んでも、重い声ばかりで軽い音も使えなければ、表現の深まる筈など無いのである。だが、彼の単調な歌い口であっても、松村禎三の書いた音楽の力に拠り、ロドリゴの苦悩はそれなりに伝わる。「沈黙」関西初演の際から、小餅谷のロドリゴへの世評は高いようだが、そこに異論もある事は明記して置く。

 演出は至極明快なもので、取り分け照明を効果的に使えて、歌手の動かし方や合唱団のモブ処理等にも、手慣れたテクニックがある。ただ、明快で分かり易いのは、同時に皮相に過ぎるとも云える。演出の宮田慶子は今回のセットを「難破船であり、大地に突き刺さる十字架であり」、「荒れ狂う海に出て、十字架をマストのように出してはみたけど、傷付きボロボロになって、なおも航海を続けているイメージ」と、これまた明快に分かり易く説明している。観客に対し大変親切なビジュアルであるが、何分にもオペラの内容が重過ぎ、音のドラマに対応する舞台を作るので精一杯と云う印象だ。

 更にクライマックス・シーンとなる、ロドリーゴが踏み絵に足を掛ける場面の演出にも、今ひとつ納得し難い部分がある。何だか熱過ぎる風呂に入ろうとして、屁っ放り腰で足先だけ、そうっと浸けているみたいな格好なのだ。棄教に踏み切る瞬間をアッサリ流し、その後に踏み絵を抱き締めるシーンを念入りに行うのは、最も重要な場面からの逃げでしか無いと思う。

 東フィルは充実した演奏で、オペラのドラマを支えたと思う。指揮の下野は「沈黙」の音楽に入り込まず、音響として捉えるザッハリヒな解釈を取る。松村禎三のテンションの高い音楽に入れ込むと、一つ間違えばベタ押しの重苦しい演奏になって終う。外面的なアプローチを取る事に拠り、全体の流れを見通し、場面毎の情感の移ろいを描き分ける事で、宣教師や村人達の信仰への懐疑や逡巡を表現出来たのだと思う。

 余計な事かも知れないが、僕は先日野田版フィガロを観たばかりで、ポルトガル人の筈のロドリゴやフェレイラが、何の衒いも無く日本語で朗々とアリアを歌うのに、微かな違和感を覚えた。ロドリゴと幕府の役人やキリシタンの村人達との対話も、日本語でスムースに行われる。間宮芳生「ポポイ」を演出した宮城聰は、「日本語のオペラには往々にして、一種の気恥ずかしさが伴った」と述べ、その理由を「日本語の高低アクセントとメロディの兼ね合いが、今ひとつだった点に」求めている。彼に言わせると「日本語の求める高低アクセントを忠実に守っていては、かっこいい感じは出て来」ず、「でもハズレ過ぎると(中略)聴く者は気恥ずかしさを感じてしまう」のである。

 この説明は「沈黙」のレシタティーヴォに、多くの部分で当て嵌まるように思う。「沈黙」を日本語の抑揚を音楽に載せると云う側面から見ると、実は清水脩の労作「修禅寺物語」から、然程に進歩はしていない。しかし、「沈黙」の音楽そのものは力強い。松村は調性のある甘いアリアに、無調の暗く激しい間奏と、シュプレッヒシュティンメのレシタティーヴォとを組み合わせて、完成度の高いオペラに仕上げている。やはり、「沈黙」は日本オペラの傑作の一つで、今後も繰り返し上演される問題作であり続けるのだろう。「沈黙」に瑕瑾のある事は、今後も再演を妨げる理由にはならないと思う。
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