
<リスボン・サン・カルロス・テアトロ・ナチオナル共同制作>
2008年10月12日(日)14:00/びわ湖ホール
指揮/沼尻竜典
大阪センチュリー交響楽団
演出/カロリーネ・グルーバー
美術・衣裳/ヘルマン・フォイヒター
照明/山本英明
サロメ/大岩千穂
ヨカナーン/井原秀人
ヘロデ/高橋淳
ヘロディアス/小山由美
ナラボート/吉田浩之
小姓/小林久美子
奴隷/黒田恵美
カパドキア人/安田旺司
兵士/服部英生/松森治
ナザレ人/相沢創/竹内公一
ユダヤ人/二塚直紀/竹内直紀/清水徹太郎/山本康寛/迎肇聡
例によってプレミエ即千秋楽の、びわ湖ホール・プロデュース公演だが、今回はポルトガル国立サン・カルロス劇場との共同制作という事で、終演後即座にセットを壊したりはしないらしい。しかし、こんなに素晴らしいプロダクションが、国内公演は今日一回切りと云うのは、嘉田滋賀県知事のキャッチフレーズ、“もったいない”そのものである。何故これを富山でやらないんだぁ!と、文句を付けたくもなる。それほど、今日のグルーバーの演出には見応えがあった。
ヘロデの宮殿のセットは、三段のカプセル・ベッドのような曲線の建物で、プロセニアム上部に届く高さがある。左右に分かれたセットの中央部分は、カーブを描いて狭まり、出演者の出入りする通路になっている。このプラスチックのような質感のある建物の前に、下手からブランコ、四角い砂場、滑り台が置いてある。幕開けに登場したのは、小学校高学年位の黙役の少女で、ピンクのカーディガンに白いブラウス、紺色のプリーツ・スカートに白いソックスと云う衣装は、イノセントな少女時代のサロメと云う設定か。全く同じ服装の大岩サロメが登場すると、少女サロメは上手の滑り台の方へ退き、ママゴトをしたり、シャボン玉を飛ばしたりする。
サロメがヨカナーンに接吻を迫る傍らで、小姓もナラボートに同性愛関係を求めるのだが、ヨカナーンがサロメを拒絶する爆発的な音楽と同時に、ナラボートも小姓を突き放す。この場面で演出家の方針、つまりスコアから読み取った音楽と、演出との整合性を追求する姿勢は明白となる。この演出家の音楽と演技を一致させる方針は、最後まで一貫していた。
今日の演出ではナラボートは自殺せず、サロメに刺し殺される読み替えがある。この際に、倒れたナラボートを介抱するのが、小姓ではなくヨカナーンなのが面白い。どうやら今日の演出意図では、ヨカナーンとナラボートと小姓は三人セットで、対等の存在とされて居るようだ。出入りするべき井戸を持たないヨカナーンは、セット中央の通路から登場し、リスト・カットした手首から流れる血を、壁に擦り付ける。この芝居は、ヨカナーンの宗教者としての狂信性を表現して、面白い。ナラボートに続き、小姓もサロメに刺し殺されるが、この二人は性愛に囚われた憎むべき存在として、清純な自己を保とうとするサロメに殺されるのだろう。大岩は気迫を込めた演技で、この読み替えに説得力を与えた。
ヘロデ王は麻薬の売人風、ヘロディアス妃は娼婦風の衣装。カパドキア人と奴隷も、その他のエキストラと共にパンク風ファッションで、これはヘロデ王の主催する、ドラッグ・パーティーと云う設定だろう。この場面で最も衝撃的なのは、ヘロディアス妃を両性愛者と設定し、娘のサロメの目の前で、男女の両方と睦み合わせる事。サロメには性的なトラウマがあり、それ故に清純な少女時代に逃げ込もうとしているのだが、その主な原因は母親にある事が、ここで明示される。
「七つのヴェールの踊り」でサロメは一切踊らず、ヘロデ家の三人の家族団欒のシーンが続く。誕生祝いに、巨大なバースデー・ケーキを贈られたヘロデ王は、妻と娘にケーキを切り分けてやり、父娘は仲良くオセロやバドミントンで遊ぶ。ヘロディアスがアイロンを掛けている間、サロメがリコーダーを吹いて見せる場面は、オケのオーボエのフレーズに合わせていて、ここにも演出と音楽の対応がある。これは、サロメの夢見る幻想の世界なのだ、と云う見当は付くが、ヘロデとヘロディアスの二人が、不気味な昆虫のマスクを被った処で、場面は悪夢に変わる。サロメが多くの昆虫に取り囲まれる、戦慄的なシーンで暗転となり、場面は元の猥雑なパーティ-・シーンに戻る。幸福な家庭の夢が破れたサロメは、ここでヨカナーンの首を所望する。
ずっと抛りっ放しで、「七つのヴェールの踊り」の前に、ようやく運び出されたナラボートと小姓の二人の死体は、最後のシーンで元の位置に戻される。吉田浩之と小林久美子の二人は、誠にご苦労様である。ヨカナーンの生首が手押し車で運ばれて来て、サロメに殺された三人が勢揃い。三者連続殺人鬼のサロメは、ラッピングされて形状の良く分からない生首を、ブラウスの中に抱えて、妊婦の格好になる。ヘロデがサロメの死を命ずると(三人殺せば、鳩山でなくても死刑執行か)、サロメはナイフを腹に突き立て自死する。この衝撃的なラスト・シーンでも、大岩が笑みを浮かべていたのが、とても印象的だった。
歌手はそれぞれが適役で、日本人キャストによるサロメ上演としては、恐らく望まれる最高に近い布陣だろう。サロメの大岩千穂は、ヴィヴラートの少ない透明な声質が役に嵌まり、中高の音域で音色を使い分ける、知的な歌を唱った。但し、声量は今ひとつで、高音域はオケの音に乗るようにして聴こえて来るが、中音域以下は大音量のオケに消されてしまう。キャラクター・テノールとして評価の高い、ヘロデ王の高橋淳は役にピッタリだが、もう少し音色の変化の欲しい部分もある。また、キンキンした高音は良いが、低声部ではオケに埋もれ勝ち。この辺りは沼尻に、歌手のピアニッシモを美しく聴かせる、もうひと工夫があれば、カヴァー出来た筈と思う。ヨカナーンの井原秀人は、四人の主役の中では最も声量があり、しんねりムッツリとしたキャラも見事にハマる。ヘロディアスの小山由美も軽やかなメゾで、大岩のサロメの透明な声との対照が美しかった。
指揮とオケも良かった。沼尻の鳴らす音には明快な響きがあり、緻密で美しいサロメの音楽を、爽やかに聴かせてくれる。但し、オケの音は淡彩な印象で、音色の変化と「サロメ」らしい馬力に、やや物足りないものがあり、濃厚で官能的な響きは欠けていたかも知れない。ともあれ今回の「サロメ」も、「こびと〜王女様の誕生日」と、「ばらの騎士」に続き、沼尻のオペラ指揮者としての能力を如何なく発揮した、立派な上演となった。
カーテン・コールでは演出家に対し、ブーイングとブラーヴォが交錯したが、これは関西では異例の事態と云うべきだろう。でも、今日の演出家にはスコアの深い読みがあり、これだけ音楽に寄り添った演出は、そんなに何時もあるものではない。全て終わってロビーを出ると、広報の名札を付けた女性に、「こんな訳の分からない演出は…」と、気色ばんで喋っているクラヲタ風を見かけた。こんなに面白い、考え抜かれた演出に、何故そんなに腹を立てるのか、僕には良く分からない心理だ。でも結局、お約束通りにブーを叫んだり、怒り狂ったりしている人達は、演出家の掌の上で踊らされている訳で、これは誠に微笑ましい光景でもありました。
2008年10月12日(日)14:00/びわ湖ホール
指揮/沼尻竜典
大阪センチュリー交響楽団
演出/カロリーネ・グルーバー
美術・衣裳/ヘルマン・フォイヒター
照明/山本英明
サロメ/大岩千穂
ヨカナーン/井原秀人
ヘロデ/高橋淳
ヘロディアス/小山由美
ナラボート/吉田浩之
小姓/小林久美子
奴隷/黒田恵美
カパドキア人/安田旺司
兵士/服部英生/松森治
ナザレ人/相沢創/竹内公一
ユダヤ人/二塚直紀/竹内直紀/清水徹太郎/山本康寛/迎肇聡
例によってプレミエ即千秋楽の、びわ湖ホール・プロデュース公演だが、今回はポルトガル国立サン・カルロス劇場との共同制作という事で、終演後即座にセットを壊したりはしないらしい。しかし、こんなに素晴らしいプロダクションが、国内公演は今日一回切りと云うのは、嘉田滋賀県知事のキャッチフレーズ、“もったいない”そのものである。何故これを富山でやらないんだぁ!と、文句を付けたくもなる。それほど、今日のグルーバーの演出には見応えがあった。
ヘロデの宮殿のセットは、三段のカプセル・ベッドのような曲線の建物で、プロセニアム上部に届く高さがある。左右に分かれたセットの中央部分は、カーブを描いて狭まり、出演者の出入りする通路になっている。このプラスチックのような質感のある建物の前に、下手からブランコ、四角い砂場、滑り台が置いてある。幕開けに登場したのは、小学校高学年位の黙役の少女で、ピンクのカーディガンに白いブラウス、紺色のプリーツ・スカートに白いソックスと云う衣装は、イノセントな少女時代のサロメと云う設定か。全く同じ服装の大岩サロメが登場すると、少女サロメは上手の滑り台の方へ退き、ママゴトをしたり、シャボン玉を飛ばしたりする。
サロメがヨカナーンに接吻を迫る傍らで、小姓もナラボートに同性愛関係を求めるのだが、ヨカナーンがサロメを拒絶する爆発的な音楽と同時に、ナラボートも小姓を突き放す。この場面で演出家の方針、つまりスコアから読み取った音楽と、演出との整合性を追求する姿勢は明白となる。この演出家の音楽と演技を一致させる方針は、最後まで一貫していた。
今日の演出ではナラボートは自殺せず、サロメに刺し殺される読み替えがある。この際に、倒れたナラボートを介抱するのが、小姓ではなくヨカナーンなのが面白い。どうやら今日の演出意図では、ヨカナーンとナラボートと小姓は三人セットで、対等の存在とされて居るようだ。出入りするべき井戸を持たないヨカナーンは、セット中央の通路から登場し、リスト・カットした手首から流れる血を、壁に擦り付ける。この芝居は、ヨカナーンの宗教者としての狂信性を表現して、面白い。ナラボートに続き、小姓もサロメに刺し殺されるが、この二人は性愛に囚われた憎むべき存在として、清純な自己を保とうとするサロメに殺されるのだろう。大岩は気迫を込めた演技で、この読み替えに説得力を与えた。
ヘロデ王は麻薬の売人風、ヘロディアス妃は娼婦風の衣装。カパドキア人と奴隷も、その他のエキストラと共にパンク風ファッションで、これはヘロデ王の主催する、ドラッグ・パーティーと云う設定だろう。この場面で最も衝撃的なのは、ヘロディアス妃を両性愛者と設定し、娘のサロメの目の前で、男女の両方と睦み合わせる事。サロメには性的なトラウマがあり、それ故に清純な少女時代に逃げ込もうとしているのだが、その主な原因は母親にある事が、ここで明示される。
「七つのヴェールの踊り」でサロメは一切踊らず、ヘロデ家の三人の家族団欒のシーンが続く。誕生祝いに、巨大なバースデー・ケーキを贈られたヘロデ王は、妻と娘にケーキを切り分けてやり、父娘は仲良くオセロやバドミントンで遊ぶ。ヘロディアスがアイロンを掛けている間、サロメがリコーダーを吹いて見せる場面は、オケのオーボエのフレーズに合わせていて、ここにも演出と音楽の対応がある。これは、サロメの夢見る幻想の世界なのだ、と云う見当は付くが、ヘロデとヘロディアスの二人が、不気味な昆虫のマスクを被った処で、場面は悪夢に変わる。サロメが多くの昆虫に取り囲まれる、戦慄的なシーンで暗転となり、場面は元の猥雑なパーティ-・シーンに戻る。幸福な家庭の夢が破れたサロメは、ここでヨカナーンの首を所望する。
ずっと抛りっ放しで、「七つのヴェールの踊り」の前に、ようやく運び出されたナラボートと小姓の二人の死体は、最後のシーンで元の位置に戻される。吉田浩之と小林久美子の二人は、誠にご苦労様である。ヨカナーンの生首が手押し車で運ばれて来て、サロメに殺された三人が勢揃い。三者連続殺人鬼のサロメは、ラッピングされて形状の良く分からない生首を、ブラウスの中に抱えて、妊婦の格好になる。ヘロデがサロメの死を命ずると(三人殺せば、鳩山でなくても死刑執行か)、サロメはナイフを腹に突き立て自死する。この衝撃的なラスト・シーンでも、大岩が笑みを浮かべていたのが、とても印象的だった。
歌手はそれぞれが適役で、日本人キャストによるサロメ上演としては、恐らく望まれる最高に近い布陣だろう。サロメの大岩千穂は、ヴィヴラートの少ない透明な声質が役に嵌まり、中高の音域で音色を使い分ける、知的な歌を唱った。但し、声量は今ひとつで、高音域はオケの音に乗るようにして聴こえて来るが、中音域以下は大音量のオケに消されてしまう。キャラクター・テノールとして評価の高い、ヘロデ王の高橋淳は役にピッタリだが、もう少し音色の変化の欲しい部分もある。また、キンキンした高音は良いが、低声部ではオケに埋もれ勝ち。この辺りは沼尻に、歌手のピアニッシモを美しく聴かせる、もうひと工夫があれば、カヴァー出来た筈と思う。ヨカナーンの井原秀人は、四人の主役の中では最も声量があり、しんねりムッツリとしたキャラも見事にハマる。ヘロディアスの小山由美も軽やかなメゾで、大岩のサロメの透明な声との対照が美しかった。
指揮とオケも良かった。沼尻の鳴らす音には明快な響きがあり、緻密で美しいサロメの音楽を、爽やかに聴かせてくれる。但し、オケの音は淡彩な印象で、音色の変化と「サロメ」らしい馬力に、やや物足りないものがあり、濃厚で官能的な響きは欠けていたかも知れない。ともあれ今回の「サロメ」も、「こびと〜王女様の誕生日」と、「ばらの騎士」に続き、沼尻のオペラ指揮者としての能力を如何なく発揮した、立派な上演となった。
カーテン・コールでは演出家に対し、ブーイングとブラーヴォが交錯したが、これは関西では異例の事態と云うべきだろう。でも、今日の演出家にはスコアの深い読みがあり、これだけ音楽に寄り添った演出は、そんなに何時もあるものではない。全て終わってロビーを出ると、広報の名札を付けた女性に、「こんな訳の分からない演出は…」と、気色ばんで喋っているクラヲタ風を見かけた。こんなに面白い、考え抜かれた演出に、何故そんなに腹を立てるのか、僕には良く分からない心理だ。でも結局、お約束通りにブーを叫んだり、怒り狂ったりしている人達は、演出家の掌の上で踊らされている訳で、これは誠に微笑ましい光景でもありました。











記事を拝見しました。
ネットを徘徊していると、演出に否定的な評論をよく目にしましたが、
演出家の意図を読まれ、深い洞察をされているこの記事に感激しました。
僕も、とてもよく考え抜かれた読み替えだと思いますし満足しています。
1回だけの公演というのは、本当に勿体無いですね。
深い洞察は誉め過ぎと思いますが、読み替え演出を楽しもうとする、ひろさんの姿勢に共感します。しかし、今回の「サロメ」の観客から、これ程の拒絶反応が起こった事には、やや意外の感を持ちました。劇場に出かけ、生身の役者の演ずる芝居を見る、楽しみそのものを否定する行為と、僕は思います。
滋賀から世界へ発信する、沼尻芸術監督の意気を壮としたい。これからも彼には、存分にやって欲しいと思います。