
<英国ロイヤル・オペラ製作プロダクション>
2009年5月4日(月)14:00/新国立劇場
指揮/ミハイル・シンケヴィチ
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
演出/リチャード・ジョーンズ
再演演出/エレイン・キッド
美術/ジョン・マクファーレン
照明/ミミ・ジョーダン・シェリン
衣裳/ニッキー・ギリブランド
カテリーナ/ステファニー・フリーデ
セルゲイ/ヴィクトール・ルトシュク
ボリス&老いた囚人/ワレリー・アレクセイエフ
ジノーヴィー/内山信吾
女囚ソニェートカ/森山京子
下女アクシーニャ/出来田三智子
ボロ服の男/高橋淳
司祭/妻屋秀和
警察署長/初鹿野剛
教師/大野光彦
女囚/黒澤明子
哨兵&番頭/山下浩司
屋敷番/今尾滋
水車屋/渥美史生
警官/大久保光哉
酔客/二階谷洋介
軍曹/小林由樹
使用人&御者/大槻孝志
使用人/児玉和弘/青地英幸
僕は「マクベス夫人」を舞台で観るのは三回目になるが、これほど一夜の上演を楽しめたのは、今日が初めてだった。又、このオペラが闇鍋のように、多様なジャンルの音楽をごちゃ混ぜにして展開する、野蛮な程のエネルギーに満ちた、見事なエンターテインメントとして成立している事にも始めて気付かされた。これは若杉さんの代役として指揮台に立ったシンケヴィチが、このオペラの内容をしっかりと把握し、委曲を尽くした演奏で、我々聴衆に伝えてくれた事によるものと思う。今日、自分の蒙を開いてくれた、この若いロシア人指揮者に感謝すると共に、病に臥しておられる若杉芸術監督の、一日も早い快癒を願って已まない。
歌手ではカテリーナのフリーデが、高低の音域でムラの無い声で、全幕を通して頑張ったし、セルゲイのルトシュクも甘さと強さのあるテノールで、ジゴロらしい説得力があった。ボリスのアレクセイエフには、この役の嫌らしさはあったが、変な愛嬌のある側面は表現出来なかったように思う。しかし何と云っても、このオペラの主役は、歌手よりもオーケストラの雄弁な音楽にある。今日のオケピットに入った東響(15人のバンダも、舞台上やバルコニー席に出没した)は、昨年「軍人たち」を技術的に克服したオケだけの事はあり、さすがにショスタコーヴィチの音楽を明快に捉えていた。
このオペラの上演の際には、常に論議の的となる一幕最後の“ポルノフォニー”。音楽によって性描写を行うトロンボーンのグリッサンドによる下降音型、露骨に言えば射精した男性が脱力して行く過程を表す音楽は、「薔薇の騎士」序奏を踏まえて、R.シュトラウス何するものぞと云う、若い作曲家の満々たる自信の現われなのだと思う。「マクベス夫人」は、まだ二十代半ばのショスタコーヴィチが、その思いの丈を注ぎ込んだ、若い情熱に満ちたオペラと、僕は今日ようやく納得する事が出来た。
このオペラに無調っぽい部分はなく、調性のある美しい旋律と明るい音楽に満ちている。だが、一幕の使用人達による合唱、二幕のボリスのアリア、三幕の警官達の合唱等、幕毎に置かれた軽快なワルツのリズムは、聴いていてグロテスクにも感じる音楽になっている。僕には分からないだけで、これ等のワルツには全て出典があり、レハールやらJ.シュトラウスやらの引用なのだろう。
金管とパーカッションが賑やかに大音量を出す音楽から、僕はカール・オルフやクルト・ヴァイルの匂いを嗅ぐ。行進曲風のリズムも多用されているが、そこに何処か憂鬱さを感じるのは、やはりマーラーの引用だからだろうか。このオペラはほぼ全曲に亘り、その旋律には必ず何らかの出典があるようだが、教えてくれる人が居ない以上、僕には確かな事は何も分からない。そう考えると僕には、このオペラを単純に楽しむ事は出来なくなってしまう。
「マクベス夫人」は引用によるパロディで綴られる、軽い音楽に満ちたオペレッタ風だが、お話そのものは、「使用人と浮気した有閑マダムが、舅と夫を殺害。シベリア流刑となり、愛人の愛人を道連れに自殺」と、甚だシンプルに暗い。題材とそれに付けられた音楽の、アンビバレントな関係が、このオペラを難解にしているのだと思う。
「マクベス夫人」が初演された当時、富農のボリスとジノーヴィーはブルジョアで搾取者であり、カテリーナと使用人達は抑圧された人民と解釈されたらしい。これはショスタコーヴィチが意図した通りの反応で、オペラ全曲は階級的対立のドラマに仕立てられ、ポルノフォニーの音楽的実験を覆い隠す役目を果たした。スターリンの進めていた農場集団化、コルホーズの導入と平行して行われた、富農追放キャンペーン(勤勉な農民の土地を奪い、収容所送りにする)の国策に沿うものとも計算していた筈だ(因みにショスタコーヴィチがオペラの作曲に勤しんでいた頃、ウクライナと北コーカサスの穀倉地帯では、七百万人以上の農民が餓死したとされる)。
「マクベス夫人」には、ソビエト共産党による政治的な保証のあったが故に、オペラの聴衆は猥褻ポルノ・シーンを安心して楽しめた、と云う事情がある。「カテリーナの犠牲者は社会の敵であり、歴史的発展の最低段階の存在だった。史的唯物論の法則に則り、カテリーナには彼等を殲滅する全権があった」(タラスキン)…なのだそうです。
では何故、ショスタコーヴィチは“プラウダ批判”の憂き目に遭い、「マクベス夫人」は上演禁止となったのか?これは34年12月(レニングラードでの初演は、同じ年の1月)に起こった、スターリンの側近であるキーロフが暗殺された事件を契機に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン等の古参ボリシェビキが処刑され、ソビエト社会に吹き荒れた大粛清(反革命罪で68万人が銃殺され、63万人が強制収容所へ送られた)の嵐の余波であるらしい。つまり、「史的唯物論の原則に則った」テロリズムは、大粛清前までは容認されていたのだが、キーロフ暗殺事件以降、個人的テロは全て「トロツキー一派の仕業」と云う事で、否定される次第となった。
「マクベス夫人」のヒロインによる舅殺しは、ソビエト共産党内の尊属殺人であるキーロフ事件を連想させたが故に、スターリンの逆鱗に触れ、哀れなカテリーナは“トロツキスト”と認定される事と相成った。そうなると、ポルノフォニーも無事では済まない。人民の性的堕落は、重工業中心の工業化及び農業の集団化を推し進める、第一次五ヵ年計画の妨げになるし、“偉大なる父”スターリンへの個人崇拝を疎かにもする。故に、あられもない俗悪な性的関心を露出する、モラルの崩壊したオペラは、断固忌避されねばならなくなった…。
これも「マクベス夫人」を語る際に、良く引用されるエピソードで、作曲者自身がこのオペラを、リングに於ける「ラインの黄金」に当たるとし、ロシアの女性をテーマとした四部作にする壮大なプランを抱いていた、と云うものがある。だが周知のように、ショスタコーヴィチの公式発言は常に“二枚舌”、或いは“イソップの言葉”であり、一応全て疑ってみる必要はある。常に大風呂敷を広げ、将来の計画をぶち上げる事が重要な世渡りの手段だった、当時のソビエト社会の状況を知る必要もある。ショスタコーヴィチに本気で、リングに匹敵するオペラを作る意志があったのどうか、少なくともこれを頭から信じ込むのは、僕にはナイーブに過ぎるように思われる。
2009年5月4日(月)14:00/新国立劇場
指揮/ミハイル・シンケヴィチ
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
演出/リチャード・ジョーンズ
再演演出/エレイン・キッド
美術/ジョン・マクファーレン
照明/ミミ・ジョーダン・シェリン
衣裳/ニッキー・ギリブランド
カテリーナ/ステファニー・フリーデ
セルゲイ/ヴィクトール・ルトシュク
ボリス&老いた囚人/ワレリー・アレクセイエフ
ジノーヴィー/内山信吾
女囚ソニェートカ/森山京子
下女アクシーニャ/出来田三智子
ボロ服の男/高橋淳
司祭/妻屋秀和
警察署長/初鹿野剛
教師/大野光彦
女囚/黒澤明子
哨兵&番頭/山下浩司
屋敷番/今尾滋
水車屋/渥美史生
警官/大久保光哉
酔客/二階谷洋介
軍曹/小林由樹
使用人&御者/大槻孝志
使用人/児玉和弘/青地英幸
僕は「マクベス夫人」を舞台で観るのは三回目になるが、これほど一夜の上演を楽しめたのは、今日が初めてだった。又、このオペラが闇鍋のように、多様なジャンルの音楽をごちゃ混ぜにして展開する、野蛮な程のエネルギーに満ちた、見事なエンターテインメントとして成立している事にも始めて気付かされた。これは若杉さんの代役として指揮台に立ったシンケヴィチが、このオペラの内容をしっかりと把握し、委曲を尽くした演奏で、我々聴衆に伝えてくれた事によるものと思う。今日、自分の蒙を開いてくれた、この若いロシア人指揮者に感謝すると共に、病に臥しておられる若杉芸術監督の、一日も早い快癒を願って已まない。
歌手ではカテリーナのフリーデが、高低の音域でムラの無い声で、全幕を通して頑張ったし、セルゲイのルトシュクも甘さと強さのあるテノールで、ジゴロらしい説得力があった。ボリスのアレクセイエフには、この役の嫌らしさはあったが、変な愛嬌のある側面は表現出来なかったように思う。しかし何と云っても、このオペラの主役は、歌手よりもオーケストラの雄弁な音楽にある。今日のオケピットに入った東響(15人のバンダも、舞台上やバルコニー席に出没した)は、昨年「軍人たち」を技術的に克服したオケだけの事はあり、さすがにショスタコーヴィチの音楽を明快に捉えていた。
このオペラの上演の際には、常に論議の的となる一幕最後の“ポルノフォニー”。音楽によって性描写を行うトロンボーンのグリッサンドによる下降音型、露骨に言えば射精した男性が脱力して行く過程を表す音楽は、「薔薇の騎士」序奏を踏まえて、R.シュトラウス何するものぞと云う、若い作曲家の満々たる自信の現われなのだと思う。「マクベス夫人」は、まだ二十代半ばのショスタコーヴィチが、その思いの丈を注ぎ込んだ、若い情熱に満ちたオペラと、僕は今日ようやく納得する事が出来た。
このオペラに無調っぽい部分はなく、調性のある美しい旋律と明るい音楽に満ちている。だが、一幕の使用人達による合唱、二幕のボリスのアリア、三幕の警官達の合唱等、幕毎に置かれた軽快なワルツのリズムは、聴いていてグロテスクにも感じる音楽になっている。僕には分からないだけで、これ等のワルツには全て出典があり、レハールやらJ.シュトラウスやらの引用なのだろう。
金管とパーカッションが賑やかに大音量を出す音楽から、僕はカール・オルフやクルト・ヴァイルの匂いを嗅ぐ。行進曲風のリズムも多用されているが、そこに何処か憂鬱さを感じるのは、やはりマーラーの引用だからだろうか。このオペラはほぼ全曲に亘り、その旋律には必ず何らかの出典があるようだが、教えてくれる人が居ない以上、僕には確かな事は何も分からない。そう考えると僕には、このオペラを単純に楽しむ事は出来なくなってしまう。
「マクベス夫人」は引用によるパロディで綴られる、軽い音楽に満ちたオペレッタ風だが、お話そのものは、「使用人と浮気した有閑マダムが、舅と夫を殺害。シベリア流刑となり、愛人の愛人を道連れに自殺」と、甚だシンプルに暗い。題材とそれに付けられた音楽の、アンビバレントな関係が、このオペラを難解にしているのだと思う。
「マクベス夫人」が初演された当時、富農のボリスとジノーヴィーはブルジョアで搾取者であり、カテリーナと使用人達は抑圧された人民と解釈されたらしい。これはショスタコーヴィチが意図した通りの反応で、オペラ全曲は階級的対立のドラマに仕立てられ、ポルノフォニーの音楽的実験を覆い隠す役目を果たした。スターリンの進めていた農場集団化、コルホーズの導入と平行して行われた、富農追放キャンペーン(勤勉な農民の土地を奪い、収容所送りにする)の国策に沿うものとも計算していた筈だ(因みにショスタコーヴィチがオペラの作曲に勤しんでいた頃、ウクライナと北コーカサスの穀倉地帯では、七百万人以上の農民が餓死したとされる)。
「マクベス夫人」には、ソビエト共産党による政治的な保証のあったが故に、オペラの聴衆は猥褻ポルノ・シーンを安心して楽しめた、と云う事情がある。「カテリーナの犠牲者は社会の敵であり、歴史的発展の最低段階の存在だった。史的唯物論の法則に則り、カテリーナには彼等を殲滅する全権があった」(タラスキン)…なのだそうです。
では何故、ショスタコーヴィチは“プラウダ批判”の憂き目に遭い、「マクベス夫人」は上演禁止となったのか?これは34年12月(レニングラードでの初演は、同じ年の1月)に起こった、スターリンの側近であるキーロフが暗殺された事件を契機に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン等の古参ボリシェビキが処刑され、ソビエト社会に吹き荒れた大粛清(反革命罪で68万人が銃殺され、63万人が強制収容所へ送られた)の嵐の余波であるらしい。つまり、「史的唯物論の原則に則った」テロリズムは、大粛清前までは容認されていたのだが、キーロフ暗殺事件以降、個人的テロは全て「トロツキー一派の仕業」と云う事で、否定される次第となった。
「マクベス夫人」のヒロインによる舅殺しは、ソビエト共産党内の尊属殺人であるキーロフ事件を連想させたが故に、スターリンの逆鱗に触れ、哀れなカテリーナは“トロツキスト”と認定される事と相成った。そうなると、ポルノフォニーも無事では済まない。人民の性的堕落は、重工業中心の工業化及び農業の集団化を推し進める、第一次五ヵ年計画の妨げになるし、“偉大なる父”スターリンへの個人崇拝を疎かにもする。故に、あられもない俗悪な性的関心を露出する、モラルの崩壊したオペラは、断固忌避されねばならなくなった…。
これも「マクベス夫人」を語る際に、良く引用されるエピソードで、作曲者自身がこのオペラを、リングに於ける「ラインの黄金」に当たるとし、ロシアの女性をテーマとした四部作にする壮大なプランを抱いていた、と云うものがある。だが周知のように、ショスタコーヴィチの公式発言は常に“二枚舌”、或いは“イソップの言葉”であり、一応全て疑ってみる必要はある。常に大風呂敷を広げ、将来の計画をぶち上げる事が重要な世渡りの手段だった、当時のソビエト社会の状況を知る必要もある。ショスタコーヴィチに本気で、リングに匹敵するオペラを作る意志があったのどうか、少なくともこれを頭から信じ込むのは、僕にはナイーブに過ぎるように思われる。










こちらのサイトで詳しく書かれている
スタッフ・キャストを引用させて頂きます。
内容も勉強になりました。
当ブログのリンクにも加えさせて頂きます。
今後ともよろしくお願い致します。
こちらの説明で、このオペラが、政府に歓迎され、そして否定されたという奇妙な経緯がよくわかりました。強権的な支配者というのはころころと変わるものですね。それにしても、餓死やら粛正の規模がすごいです。あらためて恐ろしいと思いました。
わざわざご挨拶頂き、しかもリンクに加えて頂ける由、誠に恐縮に思います。
こちらこそよろしくお願い致します。
■edcさん
何時もありがとうございます。冷戦終結後、旧ソ連時代の圧制は昔語りになりましたが、ショスタコーヴィチの音楽は政治と密接な関係があり、多少の知識はあった方が良いと感じました。
>ブログにできないのが不思議です。
誠に面目ない次第です。
この種のオペラがシーズンに一本入るのはスパイスのようで新鮮です。来シーズンの「ヴォツェック」も楽しみです。
既に2度別プロでもご覧になっていたのですか。
”闇鍋のように、多様なジャンルの音楽をごちゃ混ぜにして展開する、野蛮な程のエネルギーに満ちた、見事なエンターテインメント”、私がうまく言葉にできなかったこのオペラに対して感じたものそのものです!本当、刺激的な一夜でした。
こういうものを見る(聴く)と、やはり音楽とそれが生まれた国、その時代の世相とは切っても切り離せないものだと実感します。
ご訪問頂き、ありがとうございます。
僕はこのテのオペラが大好きで、ジャンジャンやって欲しい方です。ヴォツェックも楽しみです。
■フェリーチェさん
こんばんは。三回目で初めて、このオペラの真価を納得出来たと云うのは、あまり自慢になる話ではありません。時代背景については、亀山さんの著作を参考にしました。専門家って、話を端折るんで分かり難いんですよ。いまどき、キーロフ事件とかコルホーズとか、説明抜きじゃ分かんないですよね。
御礼、遅くなり申し訳ありません。
宜しければ、また覗いてみて下さいませ。
オペラと写真の話題です。
つい最近までネット落ちをしておりましたので、トラバをいただいていたのに気付きませんでした。
遅まきながら、本日承認させていただきましたので、ご挨拶に上がった次第です。
>トロンボーンのグリッサンドによる下降音型
ははぁ、具体的にはそういうことだったのですね。
今更ながら納得しました。
私はこのオペラの音楽に接するのもこの時が初めてだったのですが、トロンボーンのあの部分はたいへん印象的で、いつまでも耳に残っていました。
マクベス夫人の記事を拝読し、「滑稽なプロレスごっこにしか見えないよ」で、以前読んだ事のあるのを、直ぐに思い出しました。
あのトロンボーンは耳に付きますよね。僕も後から調べて知り、あの音楽を直ぐに思い出しましたから。