
<佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2010>
2010年8月1日(日)13:00/兵庫県立芸術文化センター
指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
演出/ロバート・カーセン
美術/マイケル・レヴィン
照明/ピーター・ヴァン・プレート
衣裳/ブキ・シフ
振付/ロブ・アシュフォード
オリジナル・プロダクション選抜ダンサー
ヴォルテール&パングロス博士/アレックス・ジェニングズ
キャンディード/ジェレミー・フィンチ
クネゴンデ/マーニー・ブレッケンリッジ
メイド・パケット/ジェニ・バーン
バロン・マクシミリアン/デヴィッド・アダム・ムーア
オールド・レディ/ビヴァリー・クライン
カカンボ/ファーリン・ブラス
入国審査官/ボナヴェントゥラ・ボットーネ
今日、千秋楽の終演後の客席は、関西では滅多に見る事の無い、大変な盛り上がりを見せた。実際、満席の観客の殆んどがスタンディング・オベーションとなり、興奮した様子で拍手を続けていた。それを僕は、皆こんなに喜んでいるのだと、とても不思議な光景のように眺めていた。僕は「キャンディード」と云う劇音楽と今日の上演を、ちっとも面白いとは思わなかった。特に休憩後の二幕では、この作品の内実を見切ったように感じ、退屈を持て余していた。でも、僕以外の観客は皆んな喜んでいるようで、熱狂的な喝采は何時果てるとも知れず続いている…。
僕は兵庫芸文オケの定期で、やはりバーンスタインの交響曲「カディッシュ」を聴き、これも平板で退屈な曲と感じた。だから今回の「キャンディード」も、また佐渡がバーンスタインをやるのかと、最初から警戒心を抱いていた。でも、今度はシンフォニーではなくブロードウェイ・ミュージカルで、あのヒット作「ウェストサイド物語」を作った人だし、まあ大丈夫だろうと云う油断はあった。しかし結果的に、それは甘い見立てとなってしまった。
先日、「カディッシュ」を名曲と主張するコメントも付いたし、ついでの事に言って置くが、僕は駄曲の名演奏って珍しくも何ともないと思っている。それも大将、レナード・バーンスタインでっせ、バーンスタイン。あの人は前世紀の指揮者の中でも、偉大なフルトヴェングラーやトスカニーニと並ぶカリスマで、馬力だけで云えば、僕はカラヤンやカルロス・クライバーよりも上だったと思っている。そのカリスマが思い入れの深い自作を振って、盛り上がらなければその方が不思議で、だからバーンスタインは作曲家としても素晴しかった、なんて議論を僕は全く受け付けない。バンスタ爺さんには、それこそ信長貴富や木下牧子を振らせたって、感動的な演奏にしてしまえる能力があったんですよ。
バーンスタインは「カデッシュ」の完成にも三年を要しているが、「キャンディード」には更に梃子摺っている。初演から33年目に自ら指揮した最終校訂版は残されているが、このロンドン版も決定稿とは看做されていないらしい。バーンスタインは世界中を飛び回る超人気指揮者で、作曲に割く時間なんて無かった人だし、例え時間を掛けても良い結果は望めないタイプの作曲家だったようだ。序曲から景気の良い音楽で、今日も佐渡はオケを煽ろうとするが、踊れども笛吹かずでブラスはちっとも鳴らない。何だか空回りしてるなぁと思いながら見ていると、ああそうか、このドガジャガした音楽はカール・オルフのパクリなんだと気付く。
そう気付いてみると、タイトル・ロールが一幕で歌う二つのアリア(?)は、これまたクルト・ヴァイルのパクリじゃんか、と云う事になる。今回の上演は、四年前にパリ・シャトレ座で製作されたプロダクションを使用し、そのロンドン公演の際のキャストを主体にしている。ほぼ全員が英語圏出身の出演者は、オペラ歌手とミュージカル俳優の混成部隊で、その歌唱レヴェルはバラバラである。経歴を見ると、キャンディード役はストレート・プレイの英国人俳優で、この人の歌う際は盛大にPAが使用される。そのシミジミと聴かせる歌は、オペラ・アリアではなく「三文オペラ」や「七つの大罪」のソングのようなもので、俳優に歌わせるのが至当な曲だ。
クネゴンデ役は米国出身のソプラノ歌手で、この人が一幕で唱う「煌びやかに華やかに」は、プッチーニのアリアにベルカントの超絶技巧コロラトゥーラをくっ付けたような、つまりオペラのパロディとして歌われる曲。これは当然ながら、ミュージカル女優に歌えるシロモノではなく、クネゴンデ役はオペラ歌手にしか務まらない。また、「キャンディード」はミュージカルなので、ダンス・ナンバーもテンコ盛りだが、でもその全音階的なポピュラー風のダンス音楽に対し、やはり多用されるコーラスの方は妙に半音階的で、これも何かのパクリなのか、その辺は良く分からない。
要するに「キャンディード」は、あちこちから多様なジャンルの音楽を掻き集めた、パッチ・ワークのような作品なのだ。オペラなのかミュージカルなのか、はたまたオペレッタなのか、バーンスタインは自分でも「キャンディード」を異なったジャンルや要素の入り混じった、新しいスタイルの作品にしたいと気負っていたようだ。そのクセ「靴の中の小石」と自嘲して、最期まで作品の不出来を気に掛けていた。それは本人も、このジャンルを横断してパクった作品を、単なる音楽様式の羅列と自覚していたからだろう。実は「キャンディード」では、ライト・モティーフの使用やテーマの展開に、相当な工夫が凝らされているらしい。だが、それが目立った効果を挙げず、支離滅裂な音楽にしか聴こえない、これを失敗作と呼ばずして、他のどんな作品を失敗作と呼ぶのか。
抒情的な部分は嫋々と歌い上げ、ドガジャガした間奏部でパーカッションとブラスを痛快に鳴らせば、これはソコソコ盛り上がる音楽だが、佐渡と兵庫芸文オケの表現は何れも物足りない。ここのオケはメンバーの入れ替わりがあり、どうやら今年の金管は不作の年に当ったようだ。コーラスも不協和音の多いハーモニーをスカッと鳴らせていないが、フィナーレの「畑を耕そう」の全音階的な合唱だけは充実していたので、そこに至る途中経過の不発は、全面的に指揮者の責任と思う。オケもコーラスもハジケなかった以上、今日の観客の盛り上がりの要因は、演出が最大にして唯一の理由と云う事になる。
その演出は良かったと思う。哲学者ヴォルテールの風刺小説を原作とし、劇作家リリアン・ヘルマンがマッカーシズムの赤狩りをモティーフとした台本に基づく上演を、作曲された50年代に時代設定する演出は的を得ていると思う。ケネディ大統領夫妻やマリリン・モンロー等、50年代アメリカのアイコンが動員されて、文字通り玩具箱を引っくり返したような賑やかな舞台が設えられた。このプロダクションはパリ・シャトレ座からロンドンENO、ミラノ・スカラ座と巡演した後に、ここ西宮へ到着した訳で、外国人に対して甚だ分かり易く図式化された、米国文化の満艦飾なのである。本場仕込のダンス・シーンもタップリ盛り込まれ、50年代のレトロなファッションに彩られた絢爛豪華な演出は、決して観客の興味を逸らさない、エンターテインメントに徹していた。
早替わりでヴォルテールとバングロスの二役を演じた俳優さんには、如何にも本場英国のシェイクスピア役者らしい名優の風格があり、この人の存在が舞台全体をグッと引き締めていた。ただ、ブッシュやブレアやシラク等、肩書きに“元”の付く政治家の海パン姿は、既に賞味期限切れの笑えないクスグリでしかない。このテの時事ネタの傷みは早く(オバマは突っ込んであったが)、矢継ぎ早のヴァージョン・アップは必須と思う。
しかし、一昨年の「メリー・ウィドウ」を、オール日本人キャストで邦訳上演し、成功を収めた芸術監督は何故今回、海外のプロダクションをキャスト丸抱えで持ち込んだのだろう。音楽の分量の少ない、地の台詞の多いミュージカル上演で、時事ネタを盛り込んだジョークは観客サービスとして必須アイテムだろう。それが英語上演で字幕を通すのでは隔靴掻痒で、即興のアドリブなど望むべくも無く、しかも演出家も不在となれば、絵にして観せるストレートな表現手段しかない。芸術監督の意図は凡人には計り知れないが、日本人キャストの訳詞上演は既に東京でやっているらしいので、これは要するに彼の敬愛する師匠レニーのオリジナル上演を、日本でも目指したかったのだと僕は忖度する。顧客満足第一主義を標榜する芸術監督の、内実は観客無視の姿勢の現れと言わざるを得ない。
サッカーの試合も映画の興行も二時間以内に収める、この平成の御世に、上演三時間半は余りにも長過ぎる。こんな長ったらしいミュージカルをカット無しで全曲上演するのも、僕には理解し難い。この凡そ訳の分からない荒唐無稽な筋立てのミュージカルを、幾らバサバサ切っても話の繋がらないなんて事は有り得ない。分かり難いお話を切り詰め、日本語のジョークも盛り込んでくれれば、僕のような斜に構えた観客でも、もう少し上演を楽しめたのではないかと思う。まあ、今回のプロダクションの再演があっても、僕は「キャンディード」の音楽だけは二度と御免だけれども。
2010年8月1日(日)13:00/兵庫県立芸術文化センター
指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
演出/ロバート・カーセン
美術/マイケル・レヴィン
照明/ピーター・ヴァン・プレート
衣裳/ブキ・シフ
振付/ロブ・アシュフォード
オリジナル・プロダクション選抜ダンサー
ヴォルテール&パングロス博士/アレックス・ジェニングズ
キャンディード/ジェレミー・フィンチ
クネゴンデ/マーニー・ブレッケンリッジ
メイド・パケット/ジェニ・バーン
バロン・マクシミリアン/デヴィッド・アダム・ムーア
オールド・レディ/ビヴァリー・クライン
カカンボ/ファーリン・ブラス
入国審査官/ボナヴェントゥラ・ボットーネ
今日、千秋楽の終演後の客席は、関西では滅多に見る事の無い、大変な盛り上がりを見せた。実際、満席の観客の殆んどがスタンディング・オベーションとなり、興奮した様子で拍手を続けていた。それを僕は、皆こんなに喜んでいるのだと、とても不思議な光景のように眺めていた。僕は「キャンディード」と云う劇音楽と今日の上演を、ちっとも面白いとは思わなかった。特に休憩後の二幕では、この作品の内実を見切ったように感じ、退屈を持て余していた。でも、僕以外の観客は皆んな喜んでいるようで、熱狂的な喝采は何時果てるとも知れず続いている…。
僕は兵庫芸文オケの定期で、やはりバーンスタインの交響曲「カディッシュ」を聴き、これも平板で退屈な曲と感じた。だから今回の「キャンディード」も、また佐渡がバーンスタインをやるのかと、最初から警戒心を抱いていた。でも、今度はシンフォニーではなくブロードウェイ・ミュージカルで、あのヒット作「ウェストサイド物語」を作った人だし、まあ大丈夫だろうと云う油断はあった。しかし結果的に、それは甘い見立てとなってしまった。
先日、「カディッシュ」を名曲と主張するコメントも付いたし、ついでの事に言って置くが、僕は駄曲の名演奏って珍しくも何ともないと思っている。それも大将、レナード・バーンスタインでっせ、バーンスタイン。あの人は前世紀の指揮者の中でも、偉大なフルトヴェングラーやトスカニーニと並ぶカリスマで、馬力だけで云えば、僕はカラヤンやカルロス・クライバーよりも上だったと思っている。そのカリスマが思い入れの深い自作を振って、盛り上がらなければその方が不思議で、だからバーンスタインは作曲家としても素晴しかった、なんて議論を僕は全く受け付けない。バンスタ爺さんには、それこそ信長貴富や木下牧子を振らせたって、感動的な演奏にしてしまえる能力があったんですよ。
バーンスタインは「カデッシュ」の完成にも三年を要しているが、「キャンディード」には更に梃子摺っている。初演から33年目に自ら指揮した最終校訂版は残されているが、このロンドン版も決定稿とは看做されていないらしい。バーンスタインは世界中を飛び回る超人気指揮者で、作曲に割く時間なんて無かった人だし、例え時間を掛けても良い結果は望めないタイプの作曲家だったようだ。序曲から景気の良い音楽で、今日も佐渡はオケを煽ろうとするが、踊れども笛吹かずでブラスはちっとも鳴らない。何だか空回りしてるなぁと思いながら見ていると、ああそうか、このドガジャガした音楽はカール・オルフのパクリなんだと気付く。
そう気付いてみると、タイトル・ロールが一幕で歌う二つのアリア(?)は、これまたクルト・ヴァイルのパクリじゃんか、と云う事になる。今回の上演は、四年前にパリ・シャトレ座で製作されたプロダクションを使用し、そのロンドン公演の際のキャストを主体にしている。ほぼ全員が英語圏出身の出演者は、オペラ歌手とミュージカル俳優の混成部隊で、その歌唱レヴェルはバラバラである。経歴を見ると、キャンディード役はストレート・プレイの英国人俳優で、この人の歌う際は盛大にPAが使用される。そのシミジミと聴かせる歌は、オペラ・アリアではなく「三文オペラ」や「七つの大罪」のソングのようなもので、俳優に歌わせるのが至当な曲だ。
クネゴンデ役は米国出身のソプラノ歌手で、この人が一幕で唱う「煌びやかに華やかに」は、プッチーニのアリアにベルカントの超絶技巧コロラトゥーラをくっ付けたような、つまりオペラのパロディとして歌われる曲。これは当然ながら、ミュージカル女優に歌えるシロモノではなく、クネゴンデ役はオペラ歌手にしか務まらない。また、「キャンディード」はミュージカルなので、ダンス・ナンバーもテンコ盛りだが、でもその全音階的なポピュラー風のダンス音楽に対し、やはり多用されるコーラスの方は妙に半音階的で、これも何かのパクリなのか、その辺は良く分からない。
要するに「キャンディード」は、あちこちから多様なジャンルの音楽を掻き集めた、パッチ・ワークのような作品なのだ。オペラなのかミュージカルなのか、はたまたオペレッタなのか、バーンスタインは自分でも「キャンディード」を異なったジャンルや要素の入り混じった、新しいスタイルの作品にしたいと気負っていたようだ。そのクセ「靴の中の小石」と自嘲して、最期まで作品の不出来を気に掛けていた。それは本人も、このジャンルを横断してパクった作品を、単なる音楽様式の羅列と自覚していたからだろう。実は「キャンディード」では、ライト・モティーフの使用やテーマの展開に、相当な工夫が凝らされているらしい。だが、それが目立った効果を挙げず、支離滅裂な音楽にしか聴こえない、これを失敗作と呼ばずして、他のどんな作品を失敗作と呼ぶのか。
抒情的な部分は嫋々と歌い上げ、ドガジャガした間奏部でパーカッションとブラスを痛快に鳴らせば、これはソコソコ盛り上がる音楽だが、佐渡と兵庫芸文オケの表現は何れも物足りない。ここのオケはメンバーの入れ替わりがあり、どうやら今年の金管は不作の年に当ったようだ。コーラスも不協和音の多いハーモニーをスカッと鳴らせていないが、フィナーレの「畑を耕そう」の全音階的な合唱だけは充実していたので、そこに至る途中経過の不発は、全面的に指揮者の責任と思う。オケもコーラスもハジケなかった以上、今日の観客の盛り上がりの要因は、演出が最大にして唯一の理由と云う事になる。
その演出は良かったと思う。哲学者ヴォルテールの風刺小説を原作とし、劇作家リリアン・ヘルマンがマッカーシズムの赤狩りをモティーフとした台本に基づく上演を、作曲された50年代に時代設定する演出は的を得ていると思う。ケネディ大統領夫妻やマリリン・モンロー等、50年代アメリカのアイコンが動員されて、文字通り玩具箱を引っくり返したような賑やかな舞台が設えられた。このプロダクションはパリ・シャトレ座からロンドンENO、ミラノ・スカラ座と巡演した後に、ここ西宮へ到着した訳で、外国人に対して甚だ分かり易く図式化された、米国文化の満艦飾なのである。本場仕込のダンス・シーンもタップリ盛り込まれ、50年代のレトロなファッションに彩られた絢爛豪華な演出は、決して観客の興味を逸らさない、エンターテインメントに徹していた。
早替わりでヴォルテールとバングロスの二役を演じた俳優さんには、如何にも本場英国のシェイクスピア役者らしい名優の風格があり、この人の存在が舞台全体をグッと引き締めていた。ただ、ブッシュやブレアやシラク等、肩書きに“元”の付く政治家の海パン姿は、既に賞味期限切れの笑えないクスグリでしかない。このテの時事ネタの傷みは早く(オバマは突っ込んであったが)、矢継ぎ早のヴァージョン・アップは必須と思う。
しかし、一昨年の「メリー・ウィドウ」を、オール日本人キャストで邦訳上演し、成功を収めた芸術監督は何故今回、海外のプロダクションをキャスト丸抱えで持ち込んだのだろう。音楽の分量の少ない、地の台詞の多いミュージカル上演で、時事ネタを盛り込んだジョークは観客サービスとして必須アイテムだろう。それが英語上演で字幕を通すのでは隔靴掻痒で、即興のアドリブなど望むべくも無く、しかも演出家も不在となれば、絵にして観せるストレートな表現手段しかない。芸術監督の意図は凡人には計り知れないが、日本人キャストの訳詞上演は既に東京でやっているらしいので、これは要するに彼の敬愛する師匠レニーのオリジナル上演を、日本でも目指したかったのだと僕は忖度する。顧客満足第一主義を標榜する芸術監督の、内実は観客無視の姿勢の現れと言わざるを得ない。
サッカーの試合も映画の興行も二時間以内に収める、この平成の御世に、上演三時間半は余りにも長過ぎる。こんな長ったらしいミュージカルをカット無しで全曲上演するのも、僕には理解し難い。この凡そ訳の分からない荒唐無稽な筋立てのミュージカルを、幾らバサバサ切っても話の繋がらないなんて事は有り得ない。分かり難いお話を切り詰め、日本語のジョークも盛り込んでくれれば、僕のような斜に構えた観客でも、もう少し上演を楽しめたのではないかと思う。まあ、今回のプロダクションの再演があっても、僕は「キャンディード」の音楽だけは二度と御免だけれども。











Liliumと申します。
ブログ「はなまる人生」を開設しております。
このたびは、トラックバックありがとうございました。
貴殿のブログ読ませていただき、感動しております。
またお邪魔させていただきます。
失礼します。
ブログを拝見して「キャンディード」を思い出しました。私自身は音楽やオペラの知識は全くありませんが、ただ感じることを楽しんでいます。こちらの記事は本当に勉強になりました。
一緒に観た友人達にも(彼女達は皆一様に「長い!」と言っておりましたが)紹介させていただきます。ありがとうございました。
sweetbrierと申します。
拙ブログにTBありがとうございます。
情緒的な感想を気まぐれにメモして遊んでいます。
Pilgrimさんは、関西在住でいらっしゃいますか?
今後、同じ演奏会を聴く機会が何度もありそうです。貴ブログの分析、解説を拝読するのを楽しみにします。
見ないようにしていましたが、いざ回ってみると予想通り
絶賛の嵐で、みんなホントそんなに楽しんだのかぁ?と
疑問に感じました。お三方とも僕のネガティヴな意見に
ご賛同頂き、本当にありがとうございます。
Liliumさん、こちらこそ始めまして。
「はなまる人生」拝読致しました。ジャズ・ライブとコーラスを
掛け持ちで楽しまれている由、何よりと思います。
ところで「ことのは」って、あの方の指揮する合唱団ですよね…。
うちの記事は読み流して下さいませ。
tokikoさん、こちらこそ始めまして。
この娯楽に溢れた時代に、三時間半は長過ぎると云う意見が
何故ネット上に見当たらないのか?本当に奇妙な話と思います。
sweetbrierさん、こちらこそ始めまして。
矢張り、僕も同じコンサートに出掛けた方の意見は気になります。
大阪在住ですので、またご一緒する機会も多いかと思います。
今後もよろしくお願い致します。
観に行かなくてよかった?彼の地で四半世紀前に観ました。
バーンスタインの作品は指揮ほどの出来のものは無く、本人の弁も自伝のようなものを読めばいかに苦渋に満ちたものであったかよくわかります。ただ、アメリカではバーンスタイン物は比較的演奏されており人気もありますので、日本人とは感覚、位相など少し違うのかもしれません。
言い切っているのは、うちのブログだけと云う状況で
まあ、あれも無理にでも楽しもうと思えば、楽しめたのでしょう。
そりゃ、バンスタはジャズと並ぶ音楽文化である
ミュージカルの作曲家にして、史上最高の指揮者で
あの国の最大のアイドルですから。でも、それを日本人まで
有り難がる理由なんて、何もないと思います。
あぁ懐かしい、キャンディード。私はバレエも見ますし、バレエ音楽に比べりゃ・・・
といった感じで聴いておりました。
もちろんチャイコフスキーなど素晴らしい音楽もたくさんありますが、単に踊るための
音楽なんてのもありますし。
「芸術」としてではなく「娯楽」として騒ぎに乗ってしまいました。
ここしばらくはオペラ、オペラ、オペラです。また覗かせていただきますね。
バルトークの「青髭」と「中国の不思議な役人」の二本立てと発表されました。
でも、僕としては小澤が振らなければ、この演目は敬遠ですね。
よそ様のブログ記事ですが、「キャンディード」を芝居として観た友達は大満足。
音楽として聴いた友達は不満タラタラ、と云うのがありました。
まあ、そんな処だろうとは、僕も思います。