
<第42回オペラ公演/20世紀オペラ・シリーズ>
2008年10月13日(月)14:00/大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウス
指揮/チャン・ユンスン
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
演出/中村敬一
美術/増田寿子
照明/石川紀子
衣裳/前岡直子
オベロン王/田中友輝子
タイタニア女王/中西麻貴
妖精パック/中西麻梨
ハーミア/児玉祐子
ヘレナ/石橋栄実
ライサンダー/諏訪部匡司
デメトリアス/青木耕平
機織ボトム/西田明広
大工クインス/時宗務
修理屋フルート/松岡重親
指物師スナッグ/西尾岳史
鋳掛屋スナウト/柏原保典
仕立屋スターヴリング/森孝裕
シーシアス大公/藤村匡人
ヒポリタ姫/井川裕子
蜘蛛の巣/植田加奈子
豆の花/高木未知子
芥子の種/藤村江季奈
蛾の羽根/倉本尚子
「真夏の夜の夢」は、シェイクスピアの戯曲を原作とする三幕オペラで、重い題材を扱った作品の多い、ブリテンのオペラの中では、数少ない喜劇である。シェイクスピア原作と云う共通点もあり、ヴェルディの「ファルスタッフ」にも比せられる楽しいオペラ、と僕は個人的に思っている。
ブリテンの合唱曲の中で最も人口に膾炙しているのは、「キャロルの祭典」だろうか。本来、少年合唱によって演奏されるべき曲だが、日本では成人の女声合唱で演奏する場合が多い。イギリスでは伝統的に、カレッジやチャペルの聖歌隊は、ボーイ・ソプラノとカウンター・テナーを擁して、男声のみによる混声合唱の形態を取っている。この伝統を踏まえ、ブリテンのオペラや合唱等の声楽曲には、少年合唱とカウンター・テナーが、しばしば起用される。
そもそも日本には、ボーイ・ソプラノやカウンター・テナーによる演奏の伝統がない。特に関西では、そのような人材は皆無に近い。今日の上演でも、妖精の王オベロンにはカウンター・テナーの起用が望ましく、パック以下の妖精達も全て、変声前の少年によるアンサンブルが好ましい。何故なら、ブリテンの音楽には男声のファルセットや、少年のソプラノの硬質な声に馴染む、メタリックな響きがあるからだ。これを女声で代用すると、「真夏の夜の夢」上演の舞台上に、脂粉の香りが漂ってしまう。そもそも、音楽大学の企画・製作担当者には、少年合唱やファルセット歌手を起用すると云う、発想自体がないのだろう。しかし、これは作品の本質的な部分に関わる問題なので、少なくとも製作側には、女声を起用する音楽的な意味について、何らかのエクスキューズは必要と思う。
36名はオーケストラと云うより、室内楽の編成。トゥッティでガンガン鳴らすような場面は、殆んど無いオペラなので、パーカッションやチェレスタ独奏の、澄んだ響きとその余韻が、劇の展開に於いても重要な要素になる。微細な音によって演劇的な効果を挙げる為、指揮者には繊細で注意深い解釈が要求される。しかし、二階席からオケピットを見下ろすと、今日の指揮者は、ずっと同じテンポで棒を振り続けている。前屈みにならないと見えないので、偶に思い出して指揮者を見るのだが、何か少しでも芸を観せようと云う素振りすらない、常に同じ格好で振り続ける、メトロノームみたいな指揮だった。
今日の指揮者が、一体如何なる意図を持ち、「真夏の夜の夢」を指揮しているのか、全く伝わっては来ない。しかし、ブリテンの音楽自体に、難しい要素は何もない。要は精妙に織り上げられた、ブリテンの室内楽的なオーケストレーションを、理解出来ているか否かだ。微細な音で聴かせる発想で組み立てて行けば、テンポやダイナミズムの変化は、自ずと決まって来る筈。ピアニッシモではテンポを落とし、パーカッションの小さな響きを強調する基本を踏まえれば、妖精達のアンサンブルでは音量を上げ、速いテンポで演奏する事になる。実に単純だと思う。
ブリテンを実際に演奏すれば、ブリテンって何やっても全部同じじゃん、と誰でも気付く筈。“ブリテン節”と呼びたくなるようなフレーズを味わうのが、ブリテンを聴く楽しみと云うものだろう。恐らく今日の指揮者には、ブリテンの声楽曲の演奏経験はなく、単なる雇われ仕事として、このオペラを振ったものと思われる。
指揮者の作品に対する理解が浅い為、歌手達はそれぞれの持ち場で、個人的な理解度に応じた歌を唱うしかなかったようだ。オベロンのアルトはヴィブラートが大きい上に、低音も響かず、実声とファルセットを繋ぐ技術も無い、良い所を探す方が難しい歌手。七月の「フィガロ」のスザンナは、サッパリだった中西麻貴だが、今日のタイタニアでは見事なコロラトゥーラを聴かせた。しかし、それがブリテンの音楽の様式感を踏まえた歌かと云えば、僕にはそうは思えず、単なる技巧の誇示としか受け取れない。ハーミアの児玉祐子の素直な声質と、ヘレナの石橋栄実の柔らかくスピントする伸びやかな高音は、ソロの歌声も良かったのだが、むしろライサンダーとデメトリアスの男声二人を加えた四重唱のフーガで、質の高いアンサンブルを聴かせてくれた。
しかし、その朝陽と共に目覚めた二組の恋人達が、静かで落ち着いた喜びを奏でる、このオペラでも屈指の印象的な場面で、演出家は何の工夫も施さない。子供の頃の夏休みの朝のような、夏の夜明けの爽やかさを表現すべき処なのに、ホリゾントは真暗なままで、朝だか夜だかも分からないまま。演出家は、この場面の重要性を全く理解していない、そう判断ぜざるを得ない。今日のセットは三幕共通で、丸い部分はカーテンで囲み、直線の部分には階段の付いた、半円形の演壇が中央に置いてあるのだが、これを回転舞台で回して見せるのも不可解。別に無理に回さずとも、カーテンを上げ下げするだけで、場面転換は簡単に行える。ギシギシと雑音を発しながら回る舞台は、演出家の自己満足の為だけに回されているように見えた。
指揮者も演出家も作品を理解していない中、それでも一部を除き、歌手達は熱演した。明後日の方向を指し示す二人が、どんな指導をしたのかは知らないが、歌手達はブリテンの音楽だけを頼りに、本当に頑張ったと思う。このオペラを大好きな人は、僕以外にも沢山いる筈。その折角の機会に、貧弱なプロダクションを観せられた憾みは残るが、企画と製作担当者にはキチンと反省して貰い、次のブリテン作品の上演に繋げて欲しい。それだけが、僕の願う処である。
2008年10月13日(月)14:00/大阪音大ザ・カレッジ・オペラハウス
指揮/チャン・ユンスン
ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
演出/中村敬一
美術/増田寿子
照明/石川紀子
衣裳/前岡直子
オベロン王/田中友輝子
タイタニア女王/中西麻貴
妖精パック/中西麻梨
ハーミア/児玉祐子
ヘレナ/石橋栄実
ライサンダー/諏訪部匡司
デメトリアス/青木耕平
機織ボトム/西田明広
大工クインス/時宗務
修理屋フルート/松岡重親
指物師スナッグ/西尾岳史
鋳掛屋スナウト/柏原保典
仕立屋スターヴリング/森孝裕
シーシアス大公/藤村匡人
ヒポリタ姫/井川裕子
蜘蛛の巣/植田加奈子
豆の花/高木未知子
芥子の種/藤村江季奈
蛾の羽根/倉本尚子
「真夏の夜の夢」は、シェイクスピアの戯曲を原作とする三幕オペラで、重い題材を扱った作品の多い、ブリテンのオペラの中では、数少ない喜劇である。シェイクスピア原作と云う共通点もあり、ヴェルディの「ファルスタッフ」にも比せられる楽しいオペラ、と僕は個人的に思っている。
ブリテンの合唱曲の中で最も人口に膾炙しているのは、「キャロルの祭典」だろうか。本来、少年合唱によって演奏されるべき曲だが、日本では成人の女声合唱で演奏する場合が多い。イギリスでは伝統的に、カレッジやチャペルの聖歌隊は、ボーイ・ソプラノとカウンター・テナーを擁して、男声のみによる混声合唱の形態を取っている。この伝統を踏まえ、ブリテンのオペラや合唱等の声楽曲には、少年合唱とカウンター・テナーが、しばしば起用される。
そもそも日本には、ボーイ・ソプラノやカウンター・テナーによる演奏の伝統がない。特に関西では、そのような人材は皆無に近い。今日の上演でも、妖精の王オベロンにはカウンター・テナーの起用が望ましく、パック以下の妖精達も全て、変声前の少年によるアンサンブルが好ましい。何故なら、ブリテンの音楽には男声のファルセットや、少年のソプラノの硬質な声に馴染む、メタリックな響きがあるからだ。これを女声で代用すると、「真夏の夜の夢」上演の舞台上に、脂粉の香りが漂ってしまう。そもそも、音楽大学の企画・製作担当者には、少年合唱やファルセット歌手を起用すると云う、発想自体がないのだろう。しかし、これは作品の本質的な部分に関わる問題なので、少なくとも製作側には、女声を起用する音楽的な意味について、何らかのエクスキューズは必要と思う。
36名はオーケストラと云うより、室内楽の編成。トゥッティでガンガン鳴らすような場面は、殆んど無いオペラなので、パーカッションやチェレスタ独奏の、澄んだ響きとその余韻が、劇の展開に於いても重要な要素になる。微細な音によって演劇的な効果を挙げる為、指揮者には繊細で注意深い解釈が要求される。しかし、二階席からオケピットを見下ろすと、今日の指揮者は、ずっと同じテンポで棒を振り続けている。前屈みにならないと見えないので、偶に思い出して指揮者を見るのだが、何か少しでも芸を観せようと云う素振りすらない、常に同じ格好で振り続ける、メトロノームみたいな指揮だった。
今日の指揮者が、一体如何なる意図を持ち、「真夏の夜の夢」を指揮しているのか、全く伝わっては来ない。しかし、ブリテンの音楽自体に、難しい要素は何もない。要は精妙に織り上げられた、ブリテンの室内楽的なオーケストレーションを、理解出来ているか否かだ。微細な音で聴かせる発想で組み立てて行けば、テンポやダイナミズムの変化は、自ずと決まって来る筈。ピアニッシモではテンポを落とし、パーカッションの小さな響きを強調する基本を踏まえれば、妖精達のアンサンブルでは音量を上げ、速いテンポで演奏する事になる。実に単純だと思う。
ブリテンを実際に演奏すれば、ブリテンって何やっても全部同じじゃん、と誰でも気付く筈。“ブリテン節”と呼びたくなるようなフレーズを味わうのが、ブリテンを聴く楽しみと云うものだろう。恐らく今日の指揮者には、ブリテンの声楽曲の演奏経験はなく、単なる雇われ仕事として、このオペラを振ったものと思われる。
指揮者の作品に対する理解が浅い為、歌手達はそれぞれの持ち場で、個人的な理解度に応じた歌を唱うしかなかったようだ。オベロンのアルトはヴィブラートが大きい上に、低音も響かず、実声とファルセットを繋ぐ技術も無い、良い所を探す方が難しい歌手。七月の「フィガロ」のスザンナは、サッパリだった中西麻貴だが、今日のタイタニアでは見事なコロラトゥーラを聴かせた。しかし、それがブリテンの音楽の様式感を踏まえた歌かと云えば、僕にはそうは思えず、単なる技巧の誇示としか受け取れない。ハーミアの児玉祐子の素直な声質と、ヘレナの石橋栄実の柔らかくスピントする伸びやかな高音は、ソロの歌声も良かったのだが、むしろライサンダーとデメトリアスの男声二人を加えた四重唱のフーガで、質の高いアンサンブルを聴かせてくれた。
しかし、その朝陽と共に目覚めた二組の恋人達が、静かで落ち着いた喜びを奏でる、このオペラでも屈指の印象的な場面で、演出家は何の工夫も施さない。子供の頃の夏休みの朝のような、夏の夜明けの爽やかさを表現すべき処なのに、ホリゾントは真暗なままで、朝だか夜だかも分からないまま。演出家は、この場面の重要性を全く理解していない、そう判断ぜざるを得ない。今日のセットは三幕共通で、丸い部分はカーテンで囲み、直線の部分には階段の付いた、半円形の演壇が中央に置いてあるのだが、これを回転舞台で回して見せるのも不可解。別に無理に回さずとも、カーテンを上げ下げするだけで、場面転換は簡単に行える。ギシギシと雑音を発しながら回る舞台は、演出家の自己満足の為だけに回されているように見えた。
指揮者も演出家も作品を理解していない中、それでも一部を除き、歌手達は熱演した。明後日の方向を指し示す二人が、どんな指導をしたのかは知らないが、歌手達はブリテンの音楽だけを頼りに、本当に頑張ったと思う。このオペラを大好きな人は、僕以外にも沢山いる筈。その折角の機会に、貧弱なプロダクションを観せられた憾みは残るが、企画と製作担当者にはキチンと反省して貰い、次のブリテン作品の上演に繋げて欲しい。それだけが、僕の願う処である。










