
2008年12月20日(土)16:00/兵庫芸術文化センター
指揮/鈴木雅明
ソプラノ/レイチェル・ニコルズ/藤崎美苗
カウンターテナ−/クリストファー・ローリー
テノール/櫻田亮/水越啓
バス/ドミニク・ヴェルナー
バッハ・コレギウム・ジャパン(古楽器オーケストラ&合唱)
今日の演奏で使用された楽譜は、1742年のダブリンに於けるメサイア初演の翌年、ロンドンでの再演の際に使用された版を基に、鈴木兄が手を入れたものらしいが、その辺りの細かい説明はパンフレットに記載されていない。メサイアには作曲者による決定稿が存在せず、版の選択及び校訂には、結構ややこしいものがあるらしいので、このような場合にこそ、指揮者によるレクチャーが必要と思う。講義好きで、指揮者よりも大学教授の方が任に合っている鈴木兄が、今日は何でマイク持って、演奏前に出て来なかったのだろう?
弦楽器は3-3-2-2-1の11名と少人数で、管打楽器もオーボエとトランペットが二本づつにティンパニーだけ。その代わりに通奏低音は手厚い人員配置で、チェロとコンバスに、チェンバロ・オルガン・ファゴットが補強されて、オーケストラは合計19名。コーラスは藤崎と水越がソリスト兼任で、こちらも19名の編成。指揮者・ソリストを入れても、総勢43名の小所帯によるメサイア演奏で、この辺りに鈴木兄の主張があるようだ。
木管がオーボエ二本のみの為に、オーケストラの音色は随分地味なものだった。メサイアの演奏には、大量の管楽器を動員して、ドンチャン騒ぎをやらかす場合も多いし、そもそもヘンデルには「水上の音楽」のような景気の良い曲が多く、メサイアにも同じような解釈を許す要素は内在すると思われる。そんな演奏はロマン派以降の発想で、今日の演奏がオーセンテッィクな時代様式に沿ったものだ、と云う主張があるのかどうか、鈴木兄の御高説を直接伺いたかった所以である。
トランペット二本とティンパニーが使用されるのは、ご存知ハレルヤ・コーラスとフィナーレのみで、その他の全曲に亘るアリアと合唱は、殆んどが通奏低音と弦楽器のみによる伴奏。華やかさを抑えた、渋い音楽としてメサイアを聴かせようとする、指揮者の姿勢は一貫していた。今日のメサイアは思索的・瞑想的なもので、神に祈りを捧げて静かに過ごす、本来の意味でのクリスマスに相応しい演奏になっていた。
パーティーで馬鹿騒ぎしたり、若い男女がホテルにお泊りしたりする、近年の日本のクリスマスの在り方には、耶蘇とは無縁の僕でも違和感を感じる。本来は復活祭に演奏する事を想定して作曲されたらしいメサイアを、この時期にBCJが敢えて取り上げるのには、そのような風潮に対するアンチテーゼの意味があると考えるのは、やや穿ち過ぎかも知れないけれども。
BCJ合唱団は何時ものように素晴らしい出来。軽く端正な発声で歌われる“Wonderful,Counsellor”のリフレインが印象的な、「私達の為に一人の嬰児が生まれた」では、縦横をピッタリ揃えて聴かせる。フル・ヴォリュームのスピントした声は出さないが、ソット・ヴォーチェでの柔らかいハーモニーが美しく、メリスマの音型と、英語の子音を揃える技術も、他では滅多に聴けないレヴェルの高さに達している。ただ、カウンターが二人と女声が四人のアルト・パートは、双方の声が溶け合わず、どちら付かずな音色になってしまっている事には、やや疑問を感じる。
休憩後、冒頭の合唱曲「Be hold the Lamb of God 見よ、神の子羊を」から、第二部最後の“Hallelujah!”へ向け、ソリスト達のアリアを挟みながら、BCJ合唱団を駆使し、ヒタヒタと次第に盛り上げて行く、指揮者の手腕は見事なもの。最初の曲でのテンポの遅さは、オケの地味な音色と相まって、信仰心を演出する演奏となる。明るい曲想に転換する「All we like sheep have gone astray 私達は皆、羊のように道を外れ」でも、オケの音色は渋いままなので、ここは指揮者の計算通り、ヘンデルらしい快活な音楽が、穏やかな宗教的愉悦感として響く事になる。この“穏やかな宗教的愉悦感”を、今日の演奏のキーワードとしたい。
ソプラノのニコルズは前半、高音に軽やかさがなく、喉で押す発声になってしまった。後半は持ち直し、伸びやかさは出て来たが、やはり高音は硬目。甘い音色のある中音域には魅力のある歌手だが、声質も歌い回しもコッテリしていて、あまりBCJ向きのソプラノとは思えない。むしろ、リューやミカエラを充分に歌いこなせる、オペラ畑の人と感じる。藤崎のソロは二曲だけで、彼女のレジェーロな歌声に音楽的な膨らみは足りないが、僕は一服の清涼剤として聴かせて貰った。
デュエットの二曲は、何れもカウンターのローリー絡みだが、この人とニコルズの声の相性は、全くの水と油。テノールの水越とはソコソコ合ったが、むしろカウンターの特異な音色を、重唱に使う難しさのみを感じさせてしまう。バスのヴェルナーはメリスマの技術に優れていて、その軽い歌い口は良いのだが、第三部のトランペット・オブリガード付きアリア、「Be hold, I tell you a mystery 見よ、我は汝らに奥義を告げよう」での高音は如何にも平べったく、あまり美しいとは言えない。でも、この人のレポレッロなら、聴いてみたい気はする。結局、ソリストで最も充実していたのは櫻田亮で、声の輝きで聴かせる、テノール歌手としての魅力を存分に味合わせてくれた。
「ハレルヤ・コーラス」では、フーガの各声部に装飾が付されていたが、僕は初めて聴いたので、これにも一言解説の欲しい処。ピリオド・コンサートには分厚いパンフレットか、楽譜校訂者の前口上は必要不可欠と思う。もしかして鈴木兄は、ありきたりなハレルヤを演奏するのが嫌で、別に根拠はないけれども面白いから、と云う理由だけで装飾音を付けたのでは?と、天邪鬼な僕は邪推してしまうのである。
指揮/鈴木雅明
ソプラノ/レイチェル・ニコルズ/藤崎美苗
カウンターテナ−/クリストファー・ローリー
テノール/櫻田亮/水越啓
バス/ドミニク・ヴェルナー
バッハ・コレギウム・ジャパン(古楽器オーケストラ&合唱)
今日の演奏で使用された楽譜は、1742年のダブリンに於けるメサイア初演の翌年、ロンドンでの再演の際に使用された版を基に、鈴木兄が手を入れたものらしいが、その辺りの細かい説明はパンフレットに記載されていない。メサイアには作曲者による決定稿が存在せず、版の選択及び校訂には、結構ややこしいものがあるらしいので、このような場合にこそ、指揮者によるレクチャーが必要と思う。講義好きで、指揮者よりも大学教授の方が任に合っている鈴木兄が、今日は何でマイク持って、演奏前に出て来なかったのだろう?
弦楽器は3-3-2-2-1の11名と少人数で、管打楽器もオーボエとトランペットが二本づつにティンパニーだけ。その代わりに通奏低音は手厚い人員配置で、チェロとコンバスに、チェンバロ・オルガン・ファゴットが補強されて、オーケストラは合計19名。コーラスは藤崎と水越がソリスト兼任で、こちらも19名の編成。指揮者・ソリストを入れても、総勢43名の小所帯によるメサイア演奏で、この辺りに鈴木兄の主張があるようだ。
木管がオーボエ二本のみの為に、オーケストラの音色は随分地味なものだった。メサイアの演奏には、大量の管楽器を動員して、ドンチャン騒ぎをやらかす場合も多いし、そもそもヘンデルには「水上の音楽」のような景気の良い曲が多く、メサイアにも同じような解釈を許す要素は内在すると思われる。そんな演奏はロマン派以降の発想で、今日の演奏がオーセンテッィクな時代様式に沿ったものだ、と云う主張があるのかどうか、鈴木兄の御高説を直接伺いたかった所以である。
トランペット二本とティンパニーが使用されるのは、ご存知ハレルヤ・コーラスとフィナーレのみで、その他の全曲に亘るアリアと合唱は、殆んどが通奏低音と弦楽器のみによる伴奏。華やかさを抑えた、渋い音楽としてメサイアを聴かせようとする、指揮者の姿勢は一貫していた。今日のメサイアは思索的・瞑想的なもので、神に祈りを捧げて静かに過ごす、本来の意味でのクリスマスに相応しい演奏になっていた。
パーティーで馬鹿騒ぎしたり、若い男女がホテルにお泊りしたりする、近年の日本のクリスマスの在り方には、耶蘇とは無縁の僕でも違和感を感じる。本来は復活祭に演奏する事を想定して作曲されたらしいメサイアを、この時期にBCJが敢えて取り上げるのには、そのような風潮に対するアンチテーゼの意味があると考えるのは、やや穿ち過ぎかも知れないけれども。
BCJ合唱団は何時ものように素晴らしい出来。軽く端正な発声で歌われる“Wonderful,Counsellor”のリフレインが印象的な、「私達の為に一人の嬰児が生まれた」では、縦横をピッタリ揃えて聴かせる。フル・ヴォリュームのスピントした声は出さないが、ソット・ヴォーチェでの柔らかいハーモニーが美しく、メリスマの音型と、英語の子音を揃える技術も、他では滅多に聴けないレヴェルの高さに達している。ただ、カウンターが二人と女声が四人のアルト・パートは、双方の声が溶け合わず、どちら付かずな音色になってしまっている事には、やや疑問を感じる。
休憩後、冒頭の合唱曲「Be hold the Lamb of God 見よ、神の子羊を」から、第二部最後の“Hallelujah!”へ向け、ソリスト達のアリアを挟みながら、BCJ合唱団を駆使し、ヒタヒタと次第に盛り上げて行く、指揮者の手腕は見事なもの。最初の曲でのテンポの遅さは、オケの地味な音色と相まって、信仰心を演出する演奏となる。明るい曲想に転換する「All we like sheep have gone astray 私達は皆、羊のように道を外れ」でも、オケの音色は渋いままなので、ここは指揮者の計算通り、ヘンデルらしい快活な音楽が、穏やかな宗教的愉悦感として響く事になる。この“穏やかな宗教的愉悦感”を、今日の演奏のキーワードとしたい。
ソプラノのニコルズは前半、高音に軽やかさがなく、喉で押す発声になってしまった。後半は持ち直し、伸びやかさは出て来たが、やはり高音は硬目。甘い音色のある中音域には魅力のある歌手だが、声質も歌い回しもコッテリしていて、あまりBCJ向きのソプラノとは思えない。むしろ、リューやミカエラを充分に歌いこなせる、オペラ畑の人と感じる。藤崎のソロは二曲だけで、彼女のレジェーロな歌声に音楽的な膨らみは足りないが、僕は一服の清涼剤として聴かせて貰った。
デュエットの二曲は、何れもカウンターのローリー絡みだが、この人とニコルズの声の相性は、全くの水と油。テノールの水越とはソコソコ合ったが、むしろカウンターの特異な音色を、重唱に使う難しさのみを感じさせてしまう。バスのヴェルナーはメリスマの技術に優れていて、その軽い歌い口は良いのだが、第三部のトランペット・オブリガード付きアリア、「Be hold, I tell you a mystery 見よ、我は汝らに奥義を告げよう」での高音は如何にも平べったく、あまり美しいとは言えない。でも、この人のレポレッロなら、聴いてみたい気はする。結局、ソリストで最も充実していたのは櫻田亮で、声の輝きで聴かせる、テノール歌手としての魅力を存分に味合わせてくれた。
「ハレルヤ・コーラス」では、フーガの各声部に装飾が付されていたが、僕は初めて聴いたので、これにも一言解説の欲しい処。ピリオド・コンサートには分厚いパンフレットか、楽譜校訂者の前口上は必要不可欠と思う。もしかして鈴木兄は、ありきたりなハレルヤを演奏するのが嫌で、別に根拠はないけれども面白いから、と云う理由だけで装飾音を付けたのでは?と、天邪鬼な僕は邪推してしまうのである。











私も、ユダス・マカベウス以上に、メサイアには宗教を感じました。ちょっとこの曲に対する認識がかわりましたね。
あと、カウンターテナーはやっぱメゾとはちがうんだなぁという再認識でした。
でも時節にふさわしい、荘厳な演奏が聴けて、とてもよかったです!
実に渋いメサイアで、宗教色の強い演奏でした。あの合唱団の技術の高さは、匹敵する団体を思い付かないレヴェルですね。
BCJの「メサイア」は以前、ジェラルド・レーヌが客演した時(多分)に聴いて以来、なぜか敬遠してきたのですが(BCJに限らず他のグループのも、ですね)、今年はヘンデル・イヤーですし、さすがに再挑戦してみようかと思います。
鈴木(兄)氏は喋りだすと長いから、下手に解説入れるとただでさえ長い演奏時間が余計に伸びてしまう危険性がありますよ。(笑)
古楽系は皆、喋り出すと長いですなぁ。コープマンとか、ピーター・フィリップスとか。でも、お付き合いする用意は整っております。
レーヌのメサイアですか…。それは聴きたかったすね。