
<出版四百周年記念企画公演>
2010年11月19日(金)19:00/京都府民ホール・アルティ
アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ
ソプラノ/平野資子/鈴木芳/北爪かおり/笹山晶子
アルト/安宅留美子/八川浩子
カウンターテノール/中嶋俊晴
テノール/岡本雄一/真木喜規
コルネット&バリトン/笠原雅仁
バス/今泉仁志/石井賢
バロック・ヴァイオリン/大内山薫/荻野美和
バロック・ヴィオラ/中川敦史
ヴィオラ・ダ・ガンバ/頼田麗
コルネット/上野訓子
サクバット/松田洋介/日生貴之/織田貴浩
ドゥルツィアン/淡島宏枝
テオルボ/高本一郎
ダブルハープ/アルト理子
ポジティヴ・オルガン/野澤知子
音楽史上屈指の名曲だが、実際に聴く機会の少ない「ヴェスプロ」の、ピリオド楽器による演奏会の行われると知り、金曜の夜に京都まで出掛けた。演奏はアンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニと称する団体だが、これはイタリアからの来日ではなく、京都を本拠とする国産の古楽器グループのようだ。
ヴェスプロと云えば、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」(I Vespri Siciliani)を思い出される向きもあろうが、あの表題はシチリア人の進駐フランス軍に対する一斉蜂起の際、教会の鐘の音を合図にしたストーリーから来ている。イタリア語のVespriには、お寺の鐘の鳴ればカラスもお家に帰る、一昔前の日本の夕方の情景と同じような意味があるらしい。これに対し、モンテヴェルディの方のタイトルは「Vespro della Beata Vergine」で、マリア被昇天の祝日の晩課(日没前にやる祈祷)として作曲されている。因みに、この祝日は八月十五日だが、この日に国内でヴェスプロを演奏したと云う話は、寡聞にして知らない。
モノの本に拠ると、この大曲で音楽史上初めて、モンテヴェルディは譜面に楽器指定したとあるが、それが証明可能な性質の事柄かどうかは知らない。これはシェーンベルクが十二音技法を発明した、なんて話とは訳が違うと思う。例のフィレンツェのカメラータ、カッチーニやペーリのオペラ作品は、楽器伴奏付き独唱様式を開発した点が取り柄で、今聴いて面白いシロモノではない。通奏低音付きの曲に、楽器固有の音色で味付けを施した点にこそ、モンテヴェルディの他に類の無い天才たる所以のあり、別にナントカを初めてやったから偉い訳では決してないのだ。
僕はヴェスプロ程に華やかで美しい音楽が、他に幾つあるのかは知らない。これまで録音で聴くのみだったモンテヴェルディの最高傑作(と敢えて書くが)を、今日は始めて生演奏で体験する。今回の編成は楽器指定からすると、ピッフェロ(ダブル・リードでオーボエ属の楽器)やリコーダーの管楽器系の欠けるのと、低音系弦楽器の人数の足りないのは気になるし、そもそも演奏団体の実力は皆目不明で、それでもホールに入り席に着くと、今日の演奏への期待は高まる。ヴェスプロ冒頭はご存知、「オルフェオ」開幕のトッカータの流用だが、この音楽には聴く者を陶酔へ導く魅力のあって、僕はその輝かしいトッカータに聴き惚れてしまう。
だが、続いてテノールのソリストが、グレゴリア聖歌のアンティフォナを歌い出したのには首を傾げてしまう。楽譜には詩篇の前後に歌われるアンティフォナの指定が無いので、教会で正式の典礼としてやる訳でなし、聖歌は歌わない方が普通と思う。現に僕の持っているCDで、グレゴリオ聖歌を挿入している録音は無い。音楽の華やかに盛り上がった処で、陰気な聖歌を聴かされると、少なくとも僕は感興の削がれる気がする。
アンサンブルのリズムのノリには心地良い軽さのあって、これは矢張りバッハ・コレギウム・ジャパンの影響だろう。でも、トゥッティの音色は綺麗に整っているが、ソロの歌い出すと盛り下がってしまう。ソリストとしてクレジットされているテノール二人の内、聖歌を独唱し、コンチェルトのソロを歌う人が平べったく抜けない声で、お世辞にも魅力的とは言い難い。もう一人の方も素人っぽい発声で、これではヴェスプロの音楽の盛り上がる筈もない。それとテノールのデュオによるエコー効果の二曲で、エコーの方の人が舞台奥に下がって歌ったのに、呆れてしまった。ここはエコー効果を際立たせるのと、観客を盛り上げる演出効果も狙って、ソリストはバルコニー席に配置するのが常道だろう。舞台奥で木霊を返すのでは、見た目にも貧相と思う。
Audi coelum(天よ我が声を聞け)で、それまでコルネットを吹いていたオジサンが立ち上がり、歌手としてソロを唱ったのにも驚かされた。どうやら、この人の本職はバリトン歌手で、コルネットは余技で吹いているようだが、プロフィールを読むとナイジェル・ロジャースに声楽を、ジャン・テュベリにコルネットを、更にはヤコブ・リンドベルイにリュートを師事となっていて、いやはや多才と云うか器用と云うか、何とも芸達者な人のようだ。実は今日の男声ソリストの中では、この人の歌が一番上手かったと思う。でも、才子は才に溺れると云うか、そんな風にマルチに舞台上で多芸振りを披露するが、公演のディレクターとして指揮をしなかったのは大いに問題と感じる。
今日の演奏の始まってから、そう云えば指揮者が居ないなぁと気付いた僕もアホだが、やはり指揮者の居ないと音楽は地味に進行してしまう。24名ものメンバーを揃えて室内楽風にやるのは、ヴェスプロの内実に見合っていない。指揮者が全体を見通してメリハリを付けないと、この祝祭的で壮麗な音楽を、充全に表現するのは無理だろう。器楽アンサンブルの音色にも鄙びた趣のあって、金管はモダン奏者ばかりのようでやや頼りなく、何だか古楽の草創期で30年前の録音を聴いているような気分になる。まあ、それはそれで悪くはないし、技術的に足りない部分をリズムの軽さでカヴァーする、このアンサンブルの指向自体には共感する。因みに通奏低音は、ハープ・テオルボ・オルガンの三名が担当した。
ソリスト以外の声楽メンバーは、公募で集めてノー・ギャラのようだがキチンと練習を積んだ様子の覗え、アンサンブルは透明で美しかった。みんなノン・ヴィブラートでメリスマの技術もあり、コーラスのレヴェルは高いし、Puldhra es(麗しき人よ)のソプラノ・デュオの二人も、まずまず堅実に歌ってくれた。それだけに男声ソリストのレヴェルの低さと、メンバーをヴェネツィア楽派風に分けて配置する、応唱のスタイルを取らなかった事にも落胆させられた。この曲の演奏で最も重視すべきは、詩篇曲でのトゥッティとコンチェルトのソロの、対比の鮮やかさにあると考えるからだ。
この出来たばかりのアンサンブルの成長を、気長に見守るべきかどうか、まだ結論を出すには早過ぎる。煌びやかなヴェスプロが、思い切り地味な室内楽風だったのは大いに不満だが、取り合えず演奏機会の少ない、この名曲の実演を聴けただけで、今回は満足したいと思う。次は是非ともソリストに人材を揃え、モンテヴェルディのオペラか、シュッツの宗教曲辺りを取り上げて頂きたく思う。このアンサンブルの芸達者な主宰者には、指揮者としてのポテンシャルも充分にある筈だ。そもそも、このテの目立ちたがりのお調子者は、指揮者向きの性格だろうと思うからだ。
2010年11月19日(金)19:00/京都府民ホール・アルティ
アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ
ソプラノ/平野資子/鈴木芳/北爪かおり/笹山晶子
アルト/安宅留美子/八川浩子
カウンターテノール/中嶋俊晴
テノール/岡本雄一/真木喜規
コルネット&バリトン/笠原雅仁
バス/今泉仁志/石井賢
バロック・ヴァイオリン/大内山薫/荻野美和
バロック・ヴィオラ/中川敦史
ヴィオラ・ダ・ガンバ/頼田麗
コルネット/上野訓子
サクバット/松田洋介/日生貴之/織田貴浩
ドゥルツィアン/淡島宏枝
テオルボ/高本一郎
ダブルハープ/アルト理子
ポジティヴ・オルガン/野澤知子
音楽史上屈指の名曲だが、実際に聴く機会の少ない「ヴェスプロ」の、ピリオド楽器による演奏会の行われると知り、金曜の夜に京都まで出掛けた。演奏はアンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニと称する団体だが、これはイタリアからの来日ではなく、京都を本拠とする国産の古楽器グループのようだ。
ヴェスプロと云えば、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」(I Vespri Siciliani)を思い出される向きもあろうが、あの表題はシチリア人の進駐フランス軍に対する一斉蜂起の際、教会の鐘の音を合図にしたストーリーから来ている。イタリア語のVespriには、お寺の鐘の鳴ればカラスもお家に帰る、一昔前の日本の夕方の情景と同じような意味があるらしい。これに対し、モンテヴェルディの方のタイトルは「Vespro della Beata Vergine」で、マリア被昇天の祝日の晩課(日没前にやる祈祷)として作曲されている。因みに、この祝日は八月十五日だが、この日に国内でヴェスプロを演奏したと云う話は、寡聞にして知らない。
モノの本に拠ると、この大曲で音楽史上初めて、モンテヴェルディは譜面に楽器指定したとあるが、それが証明可能な性質の事柄かどうかは知らない。これはシェーンベルクが十二音技法を発明した、なんて話とは訳が違うと思う。例のフィレンツェのカメラータ、カッチーニやペーリのオペラ作品は、楽器伴奏付き独唱様式を開発した点が取り柄で、今聴いて面白いシロモノではない。通奏低音付きの曲に、楽器固有の音色で味付けを施した点にこそ、モンテヴェルディの他に類の無い天才たる所以のあり、別にナントカを初めてやったから偉い訳では決してないのだ。
僕はヴェスプロ程に華やかで美しい音楽が、他に幾つあるのかは知らない。これまで録音で聴くのみだったモンテヴェルディの最高傑作(と敢えて書くが)を、今日は始めて生演奏で体験する。今回の編成は楽器指定からすると、ピッフェロ(ダブル・リードでオーボエ属の楽器)やリコーダーの管楽器系の欠けるのと、低音系弦楽器の人数の足りないのは気になるし、そもそも演奏団体の実力は皆目不明で、それでもホールに入り席に着くと、今日の演奏への期待は高まる。ヴェスプロ冒頭はご存知、「オルフェオ」開幕のトッカータの流用だが、この音楽には聴く者を陶酔へ導く魅力のあって、僕はその輝かしいトッカータに聴き惚れてしまう。
だが、続いてテノールのソリストが、グレゴリア聖歌のアンティフォナを歌い出したのには首を傾げてしまう。楽譜には詩篇の前後に歌われるアンティフォナの指定が無いので、教会で正式の典礼としてやる訳でなし、聖歌は歌わない方が普通と思う。現に僕の持っているCDで、グレゴリオ聖歌を挿入している録音は無い。音楽の華やかに盛り上がった処で、陰気な聖歌を聴かされると、少なくとも僕は感興の削がれる気がする。
アンサンブルのリズムのノリには心地良い軽さのあって、これは矢張りバッハ・コレギウム・ジャパンの影響だろう。でも、トゥッティの音色は綺麗に整っているが、ソロの歌い出すと盛り下がってしまう。ソリストとしてクレジットされているテノール二人の内、聖歌を独唱し、コンチェルトのソロを歌う人が平べったく抜けない声で、お世辞にも魅力的とは言い難い。もう一人の方も素人っぽい発声で、これではヴェスプロの音楽の盛り上がる筈もない。それとテノールのデュオによるエコー効果の二曲で、エコーの方の人が舞台奥に下がって歌ったのに、呆れてしまった。ここはエコー効果を際立たせるのと、観客を盛り上げる演出効果も狙って、ソリストはバルコニー席に配置するのが常道だろう。舞台奥で木霊を返すのでは、見た目にも貧相と思う。
Audi coelum(天よ我が声を聞け)で、それまでコルネットを吹いていたオジサンが立ち上がり、歌手としてソロを唱ったのにも驚かされた。どうやら、この人の本職はバリトン歌手で、コルネットは余技で吹いているようだが、プロフィールを読むとナイジェル・ロジャースに声楽を、ジャン・テュベリにコルネットを、更にはヤコブ・リンドベルイにリュートを師事となっていて、いやはや多才と云うか器用と云うか、何とも芸達者な人のようだ。実は今日の男声ソリストの中では、この人の歌が一番上手かったと思う。でも、才子は才に溺れると云うか、そんな風にマルチに舞台上で多芸振りを披露するが、公演のディレクターとして指揮をしなかったのは大いに問題と感じる。
今日の演奏の始まってから、そう云えば指揮者が居ないなぁと気付いた僕もアホだが、やはり指揮者の居ないと音楽は地味に進行してしまう。24名ものメンバーを揃えて室内楽風にやるのは、ヴェスプロの内実に見合っていない。指揮者が全体を見通してメリハリを付けないと、この祝祭的で壮麗な音楽を、充全に表現するのは無理だろう。器楽アンサンブルの音色にも鄙びた趣のあって、金管はモダン奏者ばかりのようでやや頼りなく、何だか古楽の草創期で30年前の録音を聴いているような気分になる。まあ、それはそれで悪くはないし、技術的に足りない部分をリズムの軽さでカヴァーする、このアンサンブルの指向自体には共感する。因みに通奏低音は、ハープ・テオルボ・オルガンの三名が担当した。
ソリスト以外の声楽メンバーは、公募で集めてノー・ギャラのようだがキチンと練習を積んだ様子の覗え、アンサンブルは透明で美しかった。みんなノン・ヴィブラートでメリスマの技術もあり、コーラスのレヴェルは高いし、Puldhra es(麗しき人よ)のソプラノ・デュオの二人も、まずまず堅実に歌ってくれた。それだけに男声ソリストのレヴェルの低さと、メンバーをヴェネツィア楽派風に分けて配置する、応唱のスタイルを取らなかった事にも落胆させられた。この曲の演奏で最も重視すべきは、詩篇曲でのトゥッティとコンチェルトのソロの、対比の鮮やかさにあると考えるからだ。
この出来たばかりのアンサンブルの成長を、気長に見守るべきかどうか、まだ結論を出すには早過ぎる。煌びやかなヴェスプロが、思い切り地味な室内楽風だったのは大いに不満だが、取り合えず演奏機会の少ない、この名曲の実演を聴けただけで、今回は満足したいと思う。次は是非ともソリストに人材を揃え、モンテヴェルディのオペラか、シュッツの宗教曲辺りを取り上げて頂きたく思う。このアンサンブルの芸達者な主宰者には、指揮者としてのポテンシャルも充分にある筈だ。そもそも、このテの目立ちたがりのお調子者は、指揮者向きの性格だろうと思うからだ。










