オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

清水脩「修禅寺物語」

2009-06-27 | 日本オペラ
2009年6月27日(土)14:00/新国立中劇場

指揮/外山雄三
東京交響楽団

演出/坂田藤十郎
美術/前田剛
照明/沢田祐二
衣装/宮永晃久

<Aキャスト>
桂/横山惠子
夜叉王/木村俊光
源左金吾頼家/福井敬
楓/天羽明恵
春彦/樋口達哉
下田五郎景安/土崎譲
金窪兵衛尉行親/若林勉
修禅寺の僧/竹澤嘉明
軍兵/細岡雅哉/大木太郎/三戸大久


 幕が上がると舞台は、書割その物のチープな歌舞伎セット。短い序奏があって、直ぐに桂と楓の姉妹が歌い出す。二人は白塗りの女形メークだが、楓の方は既婚者なので、眉を落としお歯黒をしている。これに限らず衣装も所作も、全て歌舞伎のお約束事に従っているようだ。その藤十郎の演出は、歌手に殆んど動きを付けない、やはり型に嵌まった物で、これはパウゼの多い歌舞伎の緩やかなテンポには合うのだろうが、のべつ幕なしに歌い続けて切れ目のない、テンポも伸び縮みする西洋劇音楽では、何とも間延びして退屈に感じる。

 今回の「修禅寺物語」で、“より強く歌舞伎色を打ち出したい”とする、若杉芸術監督に懇望され、藤十郎は演出を引き受けたそうだ。だが、やはりオペラと歌舞伎は全く別物で、そうなると思い出されるのは、栗山昌良による「蝶々夫人」や「黒船」の上演だ。あれは和風の所作を西洋オペラにフィットするようアレンジして、完成された様式美を持つオペラ演出だったとは、藤十郎の演出に接し、初めて気付かされた事である。僕は若杉さんの歌舞伎風オペラ上演を二つ、鎌倉での「サロメ」と、コクーン・シアターでの「ポッペアの戴冠」を観ているが、何れも豪華な楽しい演出だったと記憶している。結局、あれは演出担当の歌舞伎役者に任せ切りにせず、若杉さんが主導したからこそ成功したのだと、これも今更ながら思い当たった次第である。

 「修禅寺物語」の歌の旋律は、フォルテの部分は自然に大きな声を出すように作られているが、語尾を上げて伸ばす場合も間々あって、これは日本語の抑揚に沿うと云う原則を外れた手法だが、オペラ歌唱の効果を考えれば、この程度の逸脱は致し方ないのだろう。本来、清水脩は「月光とピエロ」のような抒情的なメロディーを書ける人だが、「修禅寺物語」では、まだ実作の殆んどない状況でオペラを作曲する為、長唄や声明の旋律に似せて、歌唱部分を狭い音域に押し込めざるを得なかったようだ。

 音域の狭いレチタティーヴォでは、音色に変化を付けるのが難しいので、歌手は何が何でもダイナミック・レンジを広げ、フォルテで輝かしい音色を作らないと、聴かせ映えする歌にはならない。このオペラでの歌手は、あくまで声の力で勝負しなけらばならず、これを平たく言えば、単調なレチタティーヴォの歌では、歌手の実力がモロに出てしまうと云う事。

 その点で最も残念だったのは、金曜日のキャストで桂を歌った小濱妙美で、声量に乏しい為にダイナミク・レンジが狭く、主役なのに他の歌手に食われっ放し。はて?小濱はこんなに声の輝きに乏しい人だったか、と怪訝に思われる程で、女性の年齢は良く分からないが、これも寄る年波による声の衰えなのだろうか。小濱と比較するまでもなく、土曜日の桂の横山惠子は、声そのものの魅力で聴かせて見事だった。幕切れで瀕死の桂に対し、夜叉王の歌う「娘、顔をみせい」に答える、「あい」と云う二音節を思い切り引き伸ばす歌に、横山は渾身の力を込め、胸を衝かれた。ここがキマらんと、幕を下ろせんよな。

 面作師夜叉王は、豊かな声量で広いダイナミク・レンジを使う黒田博に、主役らしい声の響きの充実があった。木村俊光さんは失礼ながら、既に引退したのかと思っていたが、今だ充分に現役の実力がある。往年を髣髴とさせる声量を保って、黒田のバリトンの輝きとは対照的なバス・バリトンの重い声が、主役に相応しい貫禄を感じさせた。

 白塗りの色男、テノール主役の源頼家は村上敏明のリリックな声の方が、役にハマったように思う。清水脩のレチタティーヴォは、福井さんのようにカラフの得意なスピントには役不足で、“牛刀を以て鶏を裂く”の感があり、彼本来の持ち味は出て来なかった。楓の薗田真木子と天羽明恵は何れも好演。薗田の楓は柔らかいレジェーロなのに、声量でリリコの桂を圧倒したし、天羽の方も、三月にトゥーランドットを歌った横山と互角に張り合っていた。もっとひ弱な声でも務まる役だし、天羽さんのように中高の音域で色々出来る歌手には、音域的にも物足りないかも知れない。楓の婿の第二テノール・春彦は、経種廉彦のノー天気なレジェーロでは軽過ぎる。樋口達哉の喉を詰めた、邦楽的地声風の発声の方が、清水脩の意図に沿っていると思う。

 上方落語の故桂枝雀師匠は、落語には“オモロ声”がある、と云う説を述べておられたと記憶する。つまり落語家には、例えば二代目桂春団治のように、喋り声そのものに既に面白味を含んでいる話者がいて、そのような声を持つ落語家は噺の内容如何に関わらず、何を喋っても客は笑うと言うのである。「修禅寺物語」を観ながら、僕がその挿話を思い出したのは、コミカルな僧呂役を歌う竹澤嘉明の声を聴いた時だった。あの人の声は浪花節っぽい、どちらかと云うと悪声に属する声だろう。しかし、他の人が歌うと何て事のない役でも、竹澤が歌うだけで、そこに巧まざるユーモアが漂うのである。

 天性の噺家ではなく、努力の人だった生前の枝雀師匠は、自分の持論を実践し証明する為、“オモロ声”の習得に躍起になっていたように思う。竹澤さんは枝雀師匠の羨む、天与の“オモロ声”の持ち主で、現存の噺家では桂ざこば、漫才師では西川のりお等を、この系譜に連なるコメディアンとして名前を挙げておきたい。でも、竹澤さんの声の演技は、もしかすると緻密に計算されたものなのかも知れない。もし、そうであるなら失礼の段はご容赦頂くとして、その辺りの良く分からんのが、あのテの芸人の持ち味だろうと僕は考えている。
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2 コメント

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清水脩 (pockn)
2009-07-11 01:14:30
こんにちは。facciamo la musica!のpocknです。「オペラの夜」さんは両キャストの公演に行かれたのですね。清水脩という作曲家の日本作曲界での位置づけや、このオペラの価値についてのコメント、とても興味深く読ませていただき、大いに勉強にもなりました。私も「月光とピエロ」は歌ったことがあります。この時代の日本人作品の中では異彩を放つ存在感があることを感じました。オペラという大作になるとやはり苦労も多かったのでしょうね。
今回の公演では私も、演出が違っていたら随分印象も違っていただろうと思いました。別のアプローチ、できれば若杉さんの指揮でまた観てみたい作品だと思いました。
コメントありがとうございます。 (ピルグリム)
2009-07-12 11:36:48
 pocknさん、こんにちは。

 僕は清水脩に思い入れがあるので、オペラを楽しみにしていたのですが、「月光とピエロ」のような抒情的な音楽を期待していたので、やや拍子抜けでした。

 藤十郎の演出は、歌舞伎を見慣れた人達には好評だったようですね。でも、“歌舞伎そのままの演出”と、“歌舞伎風に味付けされた演出”では、天地の開きがあると思います。

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