
<日本ペラ連盟・兵庫芸文センター・東京二期会・愛知県文化振興事業団共同制作>
2009年7月4日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター
指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
二期会合唱団
宝塚少年少女合唱団
ダンスオブハーツ
演出/ジャン・ルイ・マルティノーティ
美術/ハンス・シャヴェルノホ
照明/ファブリス・ケブール
衣裳/シルヴィ・ド・セゴンザック
<Bキャスト>
カルメン/林美智子
ドン・ホセ/佐野成宏
ミカエラ/安藤赴美子
エスカミーリョ/成田博之
隊長スニガ/松本進
伍長モラレス/桝貴志
フラスキータ/田村由貴絵
メルセデス/吉村美樹
ダンカイロ/初鹿野剛
レメンダード/大川信之
客電が落ちて暗くなると直ぐに、指揮者が足早にオケピットに入って来る。客席から拍手を受けた佐渡が、思い切りオケを煽り立て、前奏曲を威勢良く指揮し出すと、これは今日の上演は当たりかな、と期待が膨らむ。華やかな前奏曲から、短調の宿命の音楽に移ると幕が上がり、舞台上では今まさにホセの死刑が執行される処。演出家の説明によると、椅子に縛り付けられたホセの後ろから首を締めるのは、スペイン独特の絞首刑なのだそうだ。この冒頭の暗く陰惨なシーンで、宿命の音楽が印象付けられ、オペラの中で宿命のフレーズが聴こえて来ると、刷り込まれたように不安な気分になる仕掛けだ。実際、これは良く出来たプロローグと思う。
今回のプロダクションは、フリッツ・エーザー校訂によるアルコア版を基本に、三幕にはエルネスト・ギロー補作による、グランド・オペラ版のレチタティーヴォを使用するとの事で、三幕以外のレチタティーヴォは台詞として語られた。「カルメン」は演劇的な要素の強いオペラなので、レチタティ−ヴォよりも台詞で喋る方が楽しめると、個人的には思っている。
グランド・オペラ版と云うのは、パリ・オペラ・コミック座での初演が不評だった為、ビゼー死後のウィーン初演の際に、ギローが台詞部分をレチタティーヴォに改作した版で、ネイティヴ以外の歌手がフランス語の台詞を喋るのは難しい為、現在でも良く使用されている。このレチタティ−ヴォ版によってヒット作となった「カルメン」を、初演時の状態に戻そうとしたのがアルコア版である。でも、厳密には原典版と呼べない折衷的な版らしいので、実際の上演に使用する場合は、色々と手を加えるのが普通らしい。
佐渡はインタビューで、次の音楽を予測出来てしまう、レチタティーヴォで繋げる事に抵抗を感じる。だから、今回はなるべくオリジナルを使いたかった。出来るだけ台詞を残し、突然次の音楽が始まるようにしたい、と云う意味を述べている。但し、三幕にレチタティーヴォ版を使用するのは、台詞が多くなると主役の二人、カルメンとホセへの負担が大きくなるから。今回勉強してみて、世界中の劇場で色んな箇所をカットする理由が分かった。何しろ長い作品なので、とも述べている。僕のような素人にも分かり易い発言だが、やや正直過ぎて、自分はオペラ上演の経験が足りないから、と吐露してるようなモンですな。
今日の舞台は下手側には固定された、上手側には半円に沿って可動する、二つの建物のセットにより進行する。扉を閉めるように可動セットが舞台前まで来ると、下手側の固定セットは客席から隠されてしまう仕掛け。一幕の冒頭では扉を閉めた状態で、可動セットの前面は歩哨所になり、兵隊さん達がゴロゴロしている。これが四幕では闘牛士の控え室となり、エスカミーリョとカルメンがイチャイチャする。
一幕後半のカルメン登場の場面で、可動セットは半開きとなり、煙草工場に設定された固定セットの窓から、女工達が顔を出す。幕切れ近く、可動セットが全開になると、固定セットは闘牛場の客席となり、ホセによるカルメン殺しの行われる背景で、闘牛に熱狂する観客たちの後姿を見せる。このセットは兵庫芸文と愛知芸劇では必要ないが、舞台の狭い東京文化会館に使い回す為に考案された物で、場面転換も素早く機能的に行える、とても良く出来た舞台装置と思う。
一幕の舞台には、十字架を背負って受難のキリストに扮装した助演が出て来て、写真屋さんに記念撮影して貰っていたが、これは説明抜きでは、何でこんな連中の出て来るのかサッパリ分からない。何も知らずに観た僕は、こいつ等は映画のロケ隊か、と思った。家に帰ってから、貰ったプログラムを読むと演出のマルティノーティが、「カルメン」一幕はイースターの頃の季節設定で、その復活祭前の聖週間を、スペインでは「セマーナ・サンタ」と云う、と説明している。
更に調べた処では、セマーナ・サンタはスペイン最大の国民的行事で、一週間みっちりとお祭りを続けるらしい。特にセビーリャの祭礼は有名で、キリスト受難の仮装行列が練り歩く、と云う記事を見付けた処で、「カルメン」 に十字架を担いでキリストに扮装したオッサンの出て来る意味を、ようやく理解する事が出来た。そこで今日観て来たばかりの、煙草工場の場面も思い出す。ここで女工達が勢揃いし、集合写真を撮って貰う演出のあったのも、お祭りだから記念撮影していたのだとは、調べてみて始めて腑に落ちた事だった。
マルティノーティさんに拠ると、当時の煙草工場ではジプシー女はシガレット、アンダルシア人はより高級なシガーの製造に従事する人種差別があり、ビゼーはアンダルシア人はソプラノ、ジプシーはメゾ・ソプラノに振り分けて、この階層差を音楽に反映させているのだそうだ。今日の舞台でも、ソプラノとメゾは異なる民族衣装を纏い、両者の乱闘シーンは見た目にもハッキリと、ジプシーと土着民の区別が付くようになっていた。
ミカエラの扱いにも工夫がある。ホセに会いに歩哨所を訪れると、モラレスに鞄を奪われてしまうのだが、ここでナイフを振り回し、兵隊達を追い払ってから立ち去る。三幕で密輸業者のアジトに向かう際にも、怯む案内人を逆に叱咤激励して、山道を登って行く。このように芯の強い女性として描かれた、今回のミカエラ像には説得力がある。この役に起用された安藤と木下の二人が、「椿姫」や「蝶々夫人」のタイトル・ロールを歌えるスピント系で、か弱いレジェーロではないのも、演出に沿った起用なのだろう。
細かい演技指導では、特に終幕のカルメン殺し。刺せるものなら刺してみろ、と挑発的なカルメンが立ち去ろうとする背後に、ホセがナイフを突き立てる。その後、椅子に座り込んだホセは、カルメンに投げつけられた赤い花びらを取り出し、香りを嗅いで慟哭する、スッキリ決まった幕切れだった。今日の演出では、カルメンとホセやエスカミーリョの濃厚に抱き合うシーンが多いのだが、そのラブ・シーンにも、それぞれに細かい工夫があって飽きさせない。オーソドックスな装いだが、「カルメン」の物語への入念な読み込みに基づく、首尾一貫したプランによって練られて、とても見応えのある演出だった。
只、一つ苦言を呈すると、例えば一幕でスニガ隊長が兵隊達に号令を掛け、縦隊行進させる芝居では、スニガの大声がオケの後奏と被さり、音楽の余韻を打ち壊してくれる。又、二幕でエスカミーリョが登場し、「闘牛士の歌」を唱う場面。コーラスの他に助演も沢山居たようだが、こいつ等がさすがにエスカミーリョの邪魔だけはしなかったが、オケの演奏中でもお構い無しに大声で喚き散らし、僕は腹立たしい思いをする程にヤカマシかった。演出家は、「ビゼーの音楽ではテキストとの結び付きが非常に重要」と強調するが、この辺りのテキストと深い関係は無さそうなシーンで、演出がオーケストラの邪魔をするのは何故なのか?と、小一時間問い質したい。
前回の「メリー・ウィドウ」でも、場面の切れ目に録音の音楽を流し、芸術監督は何故こんな事を容認するのだろうと、不審に思った記憶がある。今回の上演では台本に無い台詞で、音楽の聴こえ難い場合が多く、雑音をオーケストラの音に被せる必然性を、僕は全く理解出来なかった。佐渡は全権を委任されている筈なのに、何故このような非音楽的な行為を見過ごすのだろうか。僕が佐渡と云う指揮者を、心底から信頼し切れないのは、そのような音楽に対する繊細な配慮を欠く部分を、時に垣間見るように思うからだ。
2009年7月4日(土)14:00/兵庫県立芸術文化センター
指揮/佐渡裕
兵庫芸術文化センター管弦楽団
ひょうごプロデュースオペラ合唱団
二期会合唱団
宝塚少年少女合唱団
ダンスオブハーツ
演出/ジャン・ルイ・マルティノーティ
美術/ハンス・シャヴェルノホ
照明/ファブリス・ケブール
衣裳/シルヴィ・ド・セゴンザック
<Bキャスト>
カルメン/林美智子
ドン・ホセ/佐野成宏
ミカエラ/安藤赴美子
エスカミーリョ/成田博之
隊長スニガ/松本進
伍長モラレス/桝貴志
フラスキータ/田村由貴絵
メルセデス/吉村美樹
ダンカイロ/初鹿野剛
レメンダード/大川信之
客電が落ちて暗くなると直ぐに、指揮者が足早にオケピットに入って来る。客席から拍手を受けた佐渡が、思い切りオケを煽り立て、前奏曲を威勢良く指揮し出すと、これは今日の上演は当たりかな、と期待が膨らむ。華やかな前奏曲から、短調の宿命の音楽に移ると幕が上がり、舞台上では今まさにホセの死刑が執行される処。演出家の説明によると、椅子に縛り付けられたホセの後ろから首を締めるのは、スペイン独特の絞首刑なのだそうだ。この冒頭の暗く陰惨なシーンで、宿命の音楽が印象付けられ、オペラの中で宿命のフレーズが聴こえて来ると、刷り込まれたように不安な気分になる仕掛けだ。実際、これは良く出来たプロローグと思う。
今回のプロダクションは、フリッツ・エーザー校訂によるアルコア版を基本に、三幕にはエルネスト・ギロー補作による、グランド・オペラ版のレチタティーヴォを使用するとの事で、三幕以外のレチタティーヴォは台詞として語られた。「カルメン」は演劇的な要素の強いオペラなので、レチタティ−ヴォよりも台詞で喋る方が楽しめると、個人的には思っている。
グランド・オペラ版と云うのは、パリ・オペラ・コミック座での初演が不評だった為、ビゼー死後のウィーン初演の際に、ギローが台詞部分をレチタティーヴォに改作した版で、ネイティヴ以外の歌手がフランス語の台詞を喋るのは難しい為、現在でも良く使用されている。このレチタティ−ヴォ版によってヒット作となった「カルメン」を、初演時の状態に戻そうとしたのがアルコア版である。でも、厳密には原典版と呼べない折衷的な版らしいので、実際の上演に使用する場合は、色々と手を加えるのが普通らしい。
佐渡はインタビューで、次の音楽を予測出来てしまう、レチタティーヴォで繋げる事に抵抗を感じる。だから、今回はなるべくオリジナルを使いたかった。出来るだけ台詞を残し、突然次の音楽が始まるようにしたい、と云う意味を述べている。但し、三幕にレチタティーヴォ版を使用するのは、台詞が多くなると主役の二人、カルメンとホセへの負担が大きくなるから。今回勉強してみて、世界中の劇場で色んな箇所をカットする理由が分かった。何しろ長い作品なので、とも述べている。僕のような素人にも分かり易い発言だが、やや正直過ぎて、自分はオペラ上演の経験が足りないから、と吐露してるようなモンですな。
今日の舞台は下手側には固定された、上手側には半円に沿って可動する、二つの建物のセットにより進行する。扉を閉めるように可動セットが舞台前まで来ると、下手側の固定セットは客席から隠されてしまう仕掛け。一幕の冒頭では扉を閉めた状態で、可動セットの前面は歩哨所になり、兵隊さん達がゴロゴロしている。これが四幕では闘牛士の控え室となり、エスカミーリョとカルメンがイチャイチャする。
一幕後半のカルメン登場の場面で、可動セットは半開きとなり、煙草工場に設定された固定セットの窓から、女工達が顔を出す。幕切れ近く、可動セットが全開になると、固定セットは闘牛場の客席となり、ホセによるカルメン殺しの行われる背景で、闘牛に熱狂する観客たちの後姿を見せる。このセットは兵庫芸文と愛知芸劇では必要ないが、舞台の狭い東京文化会館に使い回す為に考案された物で、場面転換も素早く機能的に行える、とても良く出来た舞台装置と思う。
一幕の舞台には、十字架を背負って受難のキリストに扮装した助演が出て来て、写真屋さんに記念撮影して貰っていたが、これは説明抜きでは、何でこんな連中の出て来るのかサッパリ分からない。何も知らずに観た僕は、こいつ等は映画のロケ隊か、と思った。家に帰ってから、貰ったプログラムを読むと演出のマルティノーティが、「カルメン」一幕はイースターの頃の季節設定で、その復活祭前の聖週間を、スペインでは「セマーナ・サンタ」と云う、と説明している。
更に調べた処では、セマーナ・サンタはスペイン最大の国民的行事で、一週間みっちりとお祭りを続けるらしい。特にセビーリャの祭礼は有名で、キリスト受難の仮装行列が練り歩く、と云う記事を見付けた処で、「カルメン」 に十字架を担いでキリストに扮装したオッサンの出て来る意味を、ようやく理解する事が出来た。そこで今日観て来たばかりの、煙草工場の場面も思い出す。ここで女工達が勢揃いし、集合写真を撮って貰う演出のあったのも、お祭りだから記念撮影していたのだとは、調べてみて始めて腑に落ちた事だった。
マルティノーティさんに拠ると、当時の煙草工場ではジプシー女はシガレット、アンダルシア人はより高級なシガーの製造に従事する人種差別があり、ビゼーはアンダルシア人はソプラノ、ジプシーはメゾ・ソプラノに振り分けて、この階層差を音楽に反映させているのだそうだ。今日の舞台でも、ソプラノとメゾは異なる民族衣装を纏い、両者の乱闘シーンは見た目にもハッキリと、ジプシーと土着民の区別が付くようになっていた。
ミカエラの扱いにも工夫がある。ホセに会いに歩哨所を訪れると、モラレスに鞄を奪われてしまうのだが、ここでナイフを振り回し、兵隊達を追い払ってから立ち去る。三幕で密輸業者のアジトに向かう際にも、怯む案内人を逆に叱咤激励して、山道を登って行く。このように芯の強い女性として描かれた、今回のミカエラ像には説得力がある。この役に起用された安藤と木下の二人が、「椿姫」や「蝶々夫人」のタイトル・ロールを歌えるスピント系で、か弱いレジェーロではないのも、演出に沿った起用なのだろう。
細かい演技指導では、特に終幕のカルメン殺し。刺せるものなら刺してみろ、と挑発的なカルメンが立ち去ろうとする背後に、ホセがナイフを突き立てる。その後、椅子に座り込んだホセは、カルメンに投げつけられた赤い花びらを取り出し、香りを嗅いで慟哭する、スッキリ決まった幕切れだった。今日の演出では、カルメンとホセやエスカミーリョの濃厚に抱き合うシーンが多いのだが、そのラブ・シーンにも、それぞれに細かい工夫があって飽きさせない。オーソドックスな装いだが、「カルメン」の物語への入念な読み込みに基づく、首尾一貫したプランによって練られて、とても見応えのある演出だった。
只、一つ苦言を呈すると、例えば一幕でスニガ隊長が兵隊達に号令を掛け、縦隊行進させる芝居では、スニガの大声がオケの後奏と被さり、音楽の余韻を打ち壊してくれる。又、二幕でエスカミーリョが登場し、「闘牛士の歌」を唱う場面。コーラスの他に助演も沢山居たようだが、こいつ等がさすがにエスカミーリョの邪魔だけはしなかったが、オケの演奏中でもお構い無しに大声で喚き散らし、僕は腹立たしい思いをする程にヤカマシかった。演出家は、「ビゼーの音楽ではテキストとの結び付きが非常に重要」と強調するが、この辺りのテキストと深い関係は無さそうなシーンで、演出がオーケストラの邪魔をするのは何故なのか?と、小一時間問い質したい。
前回の「メリー・ウィドウ」でも、場面の切れ目に録音の音楽を流し、芸術監督は何故こんな事を容認するのだろうと、不審に思った記憶がある。今回の上演では台本に無い台詞で、音楽の聴こえ難い場合が多く、雑音をオーケストラの音に被せる必然性を、僕は全く理解出来なかった。佐渡は全権を委任されている筈なのに、何故このような非音楽的な行為を見過ごすのだろうか。僕が佐渡と云う指揮者を、心底から信頼し切れないのは、そのような音楽に対する繊細な配慮を欠く部分を、時に垣間見るように思うからだ。









