オペラの夜

出かけたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深めるためのブログです。

日本センチュリー交響楽団第161回定期演奏会

2011-05-26 | モダンオケ
2011年5月26日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/沼尻竜典
ソプラノ/角田祐子
ヴァイオリン/フォルクハルト・シュトイデ

モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第4番」K.218
マーラー「交響曲第4番」


 コンサート通いを始めた若い頃にはあったが、同じオケの定期に二回連続で出掛けるなんて本当に久し振り。そもそもマーラーのシンフォニー自体、余り聴かなくなったが、今日は何と云っても抱腹絶倒のブログ、「職場はオペラハウスだったり」(でも残念ながら、現在は殆んどの記事を非公開にして居られる)の、ブログ主さんのお声を初めて拝聴すると云う事で、手ぐすねを引き待ち構えていた。

 コンサートの前半はヴァイオリン・コンチェルトで、ソリストはウィーン・フィルのコンマスを務めるシュトイデ君。差し迫った危機からは逃れたが、福島第一原発は安定した状態には程遠く、大きな余震のあれば一体どうなるのか。現状は取り合えず、海外から来て頂ける演奏家は何方でも有り難い、今日この頃である。もし逆の立場なら、敢えて原発のグラグラしている国へ渡航する日本人は、無謀な英雄気取りと誹られるのかも知れない。イラクで人質となったボランティアや、無惨に殺された香田証生さんを、非国民呼ばわりした向きの多い国ですから。

 シュトイデ君の弾くヴァイオリンには、玲瓏とした音色がある。この人は演奏旅行で世界中を飛び回る渡り鳥ではなく、居を定めてオペラの仕事に精を出す、ウィーン・シュターツオーパーのコンマスに弱冠23歳で就任している。予断を持つのは良くないが、キャリアの最初期から個性を主張するソリストではなく、周囲と協働するオケマンの職を選択した人で、ヴィブラートは控え目だがピリオドぽいのとも違う、その音色の美しさには周囲に溶け込む、八方美人的な処がある。蒸留水のような音はモーツァルトに打って付けでも、音色の変化を楽しめるタイプでは無い。

 オケの編成は30名程の弦楽に、オーボエとホルンの木管が二本づつ。沼尻はオケからフワフワした音を引き出し、リズムを立てるシュトイデ君のソロと対比させる。コンマスらしい温厚な解釈のソリストと、モーツァルトを振らせると穏健になる指揮者とは、まずまず上手く噛み合っていた。

 休憩後、僕の初めて聴く沼尻のマーラー。「庭は夏の日ざかり」のSonnenfleckさんは「感覚的陶酔の人工合成」と呼んだ、沼尻のスタイリッシュな姿勢は、死への憧れと恐怖の綯い混ぜとなったマーラーの粘着質な音楽に、最も効果を発揮するのではないかと思う。沼尻はマーラーに対して離れ過ぎず、だが没入はせず、その間合いの取り方が絶妙だった。

 鈴の音のリズムに支配された一楽章とスケルツォの二楽章で、指揮者は個性的なリタルダントとアチェルラントを駆使し、ユーモアと諧謔に溢れた曲を、如何にも快活に進める。アダージョの三楽章での弦の歌わせ方は堂に入っているが、カンタービレの甘さは今ひとつか。でも、中間部で音楽の暗くなるとテンションの揚がり、これは沼尻の計算通り。三楽章の終了直前、沼尻がオケと共に盛り上がっている中、ソリストがユックリと舞台袖から現われたのは適切な演出で、指揮者は拍手の隙を与えず、演奏はアタッカで四楽章に雪崩れ込む。

 角田祐子はレジェーロな声質のソプラノだが、その音色にはアルトのような暗さがある。但し、低音域に声量の無いのでダイナミク・レンジを広く取れず、表現の領域の狭くなる難はある。夢見るような歌ではなく、身振りの大きいオペラティックな歌で、声の清澄さに足りない部分を、彼女は音楽的な演技力で補う。それは甘く抒情的なマーラーではなく、沼尻のディヴェルティメント的な解釈に沿った、情緒よりも覚醒を目指す歌だった。

 角田さんの歌をオペラではなく、マーラーのシンフォニーのソリストとして聴くのでは、恐らくこの方の本領には接し得ない。実際に観ていないので確かな事は言えないが、ブログを拝読する限りでは、彼女は“女・晴雅彦”と呼び得るサービス精神の持ち主と推測される。一度、晴さんのパパゲーノと角田さんのパパゲーナで、「魔笛」を観てみたいと思う。

 3.11以降、何処のコンサート会場でも震災の義捐金を募ってはいるが、何だか申し訳のようにロビーの片隅に、小さな募金箱を置いているだけのホールも多い。そんな中でセンチュリー響の仙台フィル支援の志には、半端ではない気合の入れようがある。震災から三ヶ月以上が経過し、みんな自分の出せる金額は出して終い、もう募金箱を置くだけでは誰も見向きもしない。でも、センチュリー響は今も終演後、楽員の有志が募金箱を持ち、家路を急ぐ聴衆に義捐金を募っている。今の時期、そうでもしないと自発的にお金を出してくれる人は居ない。それがセンチュリー響の仙台フィルへの連帯表明の、決してポーズではない証拠と思う。
ジャンル:
音楽
キーワード
センチュリー モーツァルト 仙台フィル ディヴェルティメント サービス精神 パパゲーノ ヴィブラート パパゲーナ ウィーン・フィル ザ・シンフォニーホール
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