
2008年3月8日(土)14:00/兵庫芸文センター小ホール
カウンターテナー/ドミニク・ヴィス
ピアノ/デヴィッド・アブラモヴィッツ
モンテヴェルディ「アルナルタの子守歌」(ポッペーアの戴冠)
チェスティ「セリーノの哀歌」(アルジーア)
パーセル「私が土の下に横たわる時」(ダイドーとエネアス)
ヘンデル「オンブラ・マイ・フ(セルセ)/愛は嵐のように(オルランド)/
愛しい妻よ(リナルド)/武器がキラリと光り(ジュリオ・チェーザレ)」
モーツァルト「自分で自分がわからない/恋とはどんなものかしら」(フィガロの結婚)
ドニゼッティ「人知れぬ涙」(愛の妙薬)
ビゼー「ハバネラ〜恋は野の鳥」(カルメン)
マスネ「泣け、わが瞳よ」(ル・シッド)
サン・サーンス「あなたの声に心は開く」(サムソンとデリラ)
オッフェンバック「ああ、私は兵隊さんが大好き」(ジェロルスティン大公妃)
今を去ること三十年の昔に結成され、以来変わらずドミニク・ヴィスの主宰するクレマン・ジャヌカン・アンサンブルの初ディスク「鳥の歌」のCDは、今でも僕の愛聴盤である。なにせ三十年だから、さすがに万年青年みたいな外見のヴィスも老けた。例の長髪が真っ白になっているのには、やはり軽く驚かされた。
まず「アルナルタの子守歌」。彼のオペラ歌手としての最高の当たり役と言っても良いかと思う、ポッペーアの乳母のアリアである。チェスティとパーセルの二曲と共に音域の低い曲で、大部分は普通に地声で歌われるが、ファルセットと地声をソット・ヴォーチェで繋ぐテクニックは、さすがに年季の入った巧みさだった。この人、本来の声質はバリトンらしく、テノールのアクートは全てファルセットで処理するようだ。
箸休めのピアノ・ソロ、バッハのパルティータからのサラバンドを挟み、ヘンデルのカストラート・アリアを四曲。あまりにも有名な「オンブラ・マイ・フ」は、しかし彼の上品とは言いかねるキャラクターには合わない。この曲には普通に高貴さ、清浄さが求められると思う。「愛は嵐のように」では、時々オクターブ下のバリトン声でおどけて見せ、リナルドのアリアではギンギンのファルセットと、持ち前の下世話な歌い回しでタップリと聴かせてくれた。最後のチェーザレのアリアも、ジャヌカンのシャンソンの演奏で聴き慣れた、ファルセットでのメリスマの技術の確かさで、早く細かいパッセージを上質な音楽として聴かせてくれた。
休憩の後はケルビーノのアリア。ところどころで装飾音符を付けるので、「えっ」と驚いてしまう。モーツァルトでもピアノ・コンチェルトなら、最近は付ける方が普通のようだが、オペラ・アリアでは始めて聴いた。歌い回しもポルタメントを多用する、ヘンデルと同じような著しく下世話なもの。モーツァルトの様式からは大きく外れているが、これは確信犯だから言ってもムダか。「人知れぬ涙」では、何とカデンツァみたいなものまで付けて歌い、ひっくり返りそうになってしまった。
再び箸休めで、リストのペトラルカのソネットの後、歌手の母国語であるフランス語のアリアが四曲。「カルメン」は、かなり音域的に無理があり、アリアの最後の部分では旋律の形を変え、最高音を避けていた。マスネではメランコリックな曲を切々と、サン・サーンスでは明るく喜ばしい曲を力強く歌い切り、やはりフランス語の曲は一味違うという印象を受けた。最後はオペレッタで、コミカルなエンターテイナーとしての魅力を存分に発揮した。
アンコールは武満徹の「燃える秋」と、オッフェンバックの「ペリコール」から“酔っ払いの歌”。ドミニク・ヴィスのオペレッタ、いいですね。一度、舞台で見てみたいものだ。
カウンターテナー/ドミニク・ヴィス
ピアノ/デヴィッド・アブラモヴィッツ
モンテヴェルディ「アルナルタの子守歌」(ポッペーアの戴冠)
チェスティ「セリーノの哀歌」(アルジーア)
パーセル「私が土の下に横たわる時」(ダイドーとエネアス)
ヘンデル「オンブラ・マイ・フ(セルセ)/愛は嵐のように(オルランド)/
愛しい妻よ(リナルド)/武器がキラリと光り(ジュリオ・チェーザレ)」
モーツァルト「自分で自分がわからない/恋とはどんなものかしら」(フィガロの結婚)
ドニゼッティ「人知れぬ涙」(愛の妙薬)
ビゼー「ハバネラ〜恋は野の鳥」(カルメン)
マスネ「泣け、わが瞳よ」(ル・シッド)
サン・サーンス「あなたの声に心は開く」(サムソンとデリラ)
オッフェンバック「ああ、私は兵隊さんが大好き」(ジェロルスティン大公妃)
今を去ること三十年の昔に結成され、以来変わらずドミニク・ヴィスの主宰するクレマン・ジャヌカン・アンサンブルの初ディスク「鳥の歌」のCDは、今でも僕の愛聴盤である。なにせ三十年だから、さすがに万年青年みたいな外見のヴィスも老けた。例の長髪が真っ白になっているのには、やはり軽く驚かされた。
まず「アルナルタの子守歌」。彼のオペラ歌手としての最高の当たり役と言っても良いかと思う、ポッペーアの乳母のアリアである。チェスティとパーセルの二曲と共に音域の低い曲で、大部分は普通に地声で歌われるが、ファルセットと地声をソット・ヴォーチェで繋ぐテクニックは、さすがに年季の入った巧みさだった。この人、本来の声質はバリトンらしく、テノールのアクートは全てファルセットで処理するようだ。
箸休めのピアノ・ソロ、バッハのパルティータからのサラバンドを挟み、ヘンデルのカストラート・アリアを四曲。あまりにも有名な「オンブラ・マイ・フ」は、しかし彼の上品とは言いかねるキャラクターには合わない。この曲には普通に高貴さ、清浄さが求められると思う。「愛は嵐のように」では、時々オクターブ下のバリトン声でおどけて見せ、リナルドのアリアではギンギンのファルセットと、持ち前の下世話な歌い回しでタップリと聴かせてくれた。最後のチェーザレのアリアも、ジャヌカンのシャンソンの演奏で聴き慣れた、ファルセットでのメリスマの技術の確かさで、早く細かいパッセージを上質な音楽として聴かせてくれた。
休憩の後はケルビーノのアリア。ところどころで装飾音符を付けるので、「えっ」と驚いてしまう。モーツァルトでもピアノ・コンチェルトなら、最近は付ける方が普通のようだが、オペラ・アリアでは始めて聴いた。歌い回しもポルタメントを多用する、ヘンデルと同じような著しく下世話なもの。モーツァルトの様式からは大きく外れているが、これは確信犯だから言ってもムダか。「人知れぬ涙」では、何とカデンツァみたいなものまで付けて歌い、ひっくり返りそうになってしまった。
再び箸休めで、リストのペトラルカのソネットの後、歌手の母国語であるフランス語のアリアが四曲。「カルメン」は、かなり音域的に無理があり、アリアの最後の部分では旋律の形を変え、最高音を避けていた。マスネではメランコリックな曲を切々と、サン・サーンスでは明るく喜ばしい曲を力強く歌い切り、やはりフランス語の曲は一味違うという印象を受けた。最後はオペレッタで、コミカルなエンターテイナーとしての魅力を存分に発揮した。
アンコールは武満徹の「燃える秋」と、オッフェンバックの「ペリコール」から“酔っ払いの歌”。ドミニク・ヴィスのオペレッタ、いいですね。一度、舞台で見てみたいものだ。










