オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

大阪フィルハーモニー交響楽団第421回定期演奏会

2008-09-18 | モダンオケ
2008年9月18日(木)19:00/ザ・シンフォニーホール

指揮/ラドミル・エリシュカ
ソプラノ/慶児道代
アルト/ヤナ・シコロヴァー
テノール/ヴァレンティン・プロラット
バス/マルチン・グルバル
オルガン/室住素子
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団

ドヴォルザーク「序曲“自然の王国で”op.91」(自然と人生と愛)
モーツァルト「交響曲第38番“プラハ”」K.504
ヤナーチェク「グラゴール・ミサ」


 大阪市内では先週、「大阪クラシック」と称する音楽祭が開催され、今日は大フィル秋シーズンの初日ではあるが、そういう意味での高揚感は殆んど感じられない。久し振りに大フィルの定期を訪れて感じたのは、観客にクラヲタっぽい方々の多い事。それでも、兵庫芸文の俄か定期会員と比べれば、この方たちのマナーは大変宜しい。それと、あちらでは全く見かけなかった、古色蒼然たる関西在住の音楽評論家がゾロゾロいて、彼等は死ぬまでこういう生活を続けるのだろうなぁ、と云う感慨を催した。

 序曲「自然の王国」は、如何にもドヴォルジャークらしい、流麗な旋律美に溢れる曲。指揮者は旋律をオケに柔らかく歌わせ、細かく動く部分ではリズムに弾力もある。朴訥な曲も良いし、緩急自在な指揮も良い。エリシュカは77歳のチェコ人で、足元は相当に覚束ない。演奏後、拍手を受けてから袖に戻る際、舞台の端っこまで来ると指揮台まで戻るのが億劫らしく、そこで拍手に応えてから、そのまま引っ込んでしまった。

 チェコ人の指揮者だから「プラハ」と云うのも、何だか安易な選曲だが、ドヴォルジャークの演奏から、この人のモーツァルトには期待出来るかも、と思う。しかし、エリシュカのモ-ツァルトはドルチェ主体で、リズムに切れ味を欠き、やや物足りない。大フィルの音は良く云えば重厚だが、悪く云えば垢抜けず、もともとモーツァルト向きではない。この辺に関しては、指揮者の解釈とオケの音色に、齟齬があったと云う事だろう。演奏後、舞台下手で聴衆の拍手に答礼した指揮者は、袖に引っ込むと、そこで拍手の止むのを確認している。とにかく、歩くのが面倒らしい。それと指揮者は老眼鏡を掛けているのに、譜面台に置かれた楽譜は、何故か総譜ではなくポケット・スコアだった。緑色の表紙だから、ペータースだろうか。

 今日のメイン・ディッシュは「グラゴル・ミサ」。まず管弦楽による序奏があり、古代スラヴ語によるミサ典礼文・五章の後、オルガン独奏による「Postludium」を挟み、最後に管弦楽による「Intrada」で締め括る構成。概ね無用の長物と化しているパイプ・オルガンの演奏を聴ける、今日は数少ない機会でもある。指揮台に立ったエリシュカが緊張を解す為だろうが、コーラスに投げキッスしていた。合唱団員たちは、相当に固い表情をしていたのだろう。また、指揮者は椅子に座って指揮するのだが、音楽を盛り上げようとする際には必ず立ち上がるので、むしろオケとコーラスに出す指示の効果を考え、椅子を使っているようにも見えた。

 指揮者は終始オケを煽り立てて、やや一本調子。もう少し、柔らかく歌い上げる部分との対比も欲しいところだ。ソリストの歌う分量は、ソプラノとテノールが多目で、アルトとバリトンは少な目。でも何れにせよ、曲に彩りを添えると云う程度のもので、あれこれ取り沙汰する程でもないように思う。ただ、ソプラノとテノールは二人とも重めのリリコで、指揮者の解釈に沿った人選と感じた。今日のテノールの歌の旋律には、七月に聴いたパリ・オペラ座の「消えた男の日記」を髣髴とさせるものがあり、その際のミヒャエル・ケーニッヒのレジェーロな歌声は、やはりヤナーチェクの音楽を良く捉えていたのだと、改めて認識した。ヤナーチェクをプリミティヴな民族音楽として捉え、ひたすら荒っぽく演奏する慣習もあるようだが、僕は与しない。「利口な女狐の物語」の音楽から考えれば、ヤナーチェクの自然賛歌と云うものは、もう少しセンシティヴなものだと分かる筈だ。

 古代スラヴ語によるギリシャ正教典礼文は、ラテン語からの翻訳なので、内容的にはカトリック・ミサと全く同じ。その発音もラテン語と同じように、子音に母音がくっつく形なので、日本人にとって左程に難しいものではない。英語の方が発音は余程難しい。その意味で、今回の上演でのコーラスの負担は、重いものではなかった筈と思う。大植音楽監督に見離され、一から鍛え直す事となった大フィル合唱団は、どうやら今日は自前のメンバー百名弱で固めて、トラは入れていない様子。まっさらのアマチュアだし、この辺りが実力的に筒一杯といったところか。今日の指揮者の解釈からすると非力に過ぎるのだろうが、その代わり音色に透明感があり、それなりの演奏ではあった。但し、この軽い合唱団と重厚な大フィルの取り合わせでは、曲の選択と解釈に注意深さが必要かと思う。

 大植英次が音楽監督に就任して評価の上がった大フィルだが、最近は中弛みの様子もある。今日は聴く機会の少ない「グラゴル・ミサ」を、かなりの熱演で聴かせて貰えて、まずは満足の定期演奏会だった。
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2 コメント

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Unknown (河童メソッド)
2008-09-21 23:23:41
ヤナーチェクのグラゴール・ミサは、各フレーズの終わり目のところが独特で、あれが母国語のアクセントなのだろうかと思ったりしますね。それと、原始的民族的荒々しさは正調ではないと思います。ここらあたり同感です。ハンガリーのコダーイの場合もそうでした。
大阪フィルの重さはよくわかりません。ただ、重さで言えばN響もかなり重いときがありますね。
ピッチがあっていないとき、または、リズムがにぶいとき。そんな感じでしょうか。
弦なんですが、ヴァイオリンはヴァイオリンで、コントラバスはコントラバスで、勝手にやってる感じ。
このような演奏で合うオケはものすごい腕をそろえたところだけでしょうね。シカゴ、ニューヨーク、あたり。勝手にやってるの合う。
民俗音楽 (Pilgrim)
2008-09-23 11:11:44
 ヤナーチェクはモラヴィア語を、コダーイはマジャール語を、それぞれ深く掘り下げて作曲していた訳ですから、彼等の声楽曲を聴かないと、その本質は掴めない筈です。日本のクラシック好きの聴く範囲は管弦楽に偏っているので、その辺りの理解は行き届いていないと思います。

 大フィルに関しては仰る通り、単純に音が汚いという事です。でも、「それを言っちゃあ、おしまいよ」と、車寅次郎なら言いますね。

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