
2009年6月18日(木)18:30/いずみホール
指揮/ジョシュア・リフキン
ケンブリッジ・コンツェントゥス(第1グループ)
くにたちiBachコレギウム(第2グループ)
エヴァンゲリスト/ジェイソン・マクストゥーツ
イエス/サムナー・トンプソン
ソプラノ/クララ・ロットソーク/小島芙美子
アルト/ジーア・ローボ/坂上賀奈子
テノール/中嶋克彦
バス/小藤洋平
リピエーノ&下女&ピラトの妻/ウルリケ・ブレーガー
ユダ&祭司長/千葉祐也
ペテロ&ピラト&カヤパ&祭司長/狩野賢一
今日の客席は六割程度の入りで、これはチラシにエヴァンゲリストの名前すら記載されず、一体何者による演奏なのか、今ひとつ得体の知れないコンサートだった事が影響したのだろう。開演時間を五分程過ぎた頃、このホールの館長が舞台に現われ、何処かで聞いたような事を喋り出す。只でさえマタイは長いのだから、無駄な講釈は開演時間前にお願いしたい。
話が終わり、ようやく演奏者達が出て来る。オケの編成はファーストとセカンドのヴァイオリンが二名づつで、他は弦楽・木管共に全て一名の合計28名。通奏低音はオルガン・チェロ・ヴィオローネの三人が、第1と第2グループで交互にレチタティーヴォの伴奏を付けていた。歌手は勿論、今回の目玉企画である一パート一人の八名に、ユダやペテロや女中等の小さな役に専念する三人の歌手が居て、こちらは合計しても11名で、オケの半分以下の人数。
オケは歌手の入る前にチューニングを始めたのだが、今回のマタイの為に編成された国立音大のオケは直ぐに終えたのに、ケンブリッジ・コンツェントゥスと云うボストン大学音楽部の学生さんの団体の方は、えらく長い時間を掛ける。僕のような素人の耳にも、弦楽器の音の全く合わないのが分かると云うか、明らかに二つの楽器に二つの音程が聴こえて来るのだ。五分以上チューニングを続けたが、結局キチンとピッチの合わないまま、ウヤムヤにしたように思う。こいつ等ホントに大丈夫なんか?と、前途に一抹の不安を感じる。なんだかんだで開演は20分近く遅れ、結局終演も十時を回ってしまった。
今を去る事28年の昔、アメリカの音楽学者兼指揮者のジョシュア・リフキンが、OVPP(One Voice Per Part 各声部一人)を提唱し、翌年これを実践するオケ20名と歌手八名による「ロ短調ミサ」を録音・発表した。この頃、僕は地元でバッハを演奏する団体に片足を突っ込んでいて、ロ短調は眼前に聳え立つ高峰、技術的に険しい難関と云うイメージがあり、声楽パート一人説とその実践には、大変驚かされた記憶がある。クラシック音楽なんぞは全く聴かないアマチュア合唱団員の間でも、この演奏は話題となり、その団体の指揮者に僕が、リフキン説どうですか?と訊ねると、ロ短調って何でもアリだからなぁ、と云う返事だった。まあ、楽譜に合唱でやれと指定されている訳でなし、一応の根拠はあるが、例外的な事例を一般化しようとする極端な説、が当時の最大公約数の意見だったと思う。
その後のリフキンは勿論、地元ではバッハの演奏活動を続けていたのだろうが、他の古楽指揮者のように大手レーベルの専属となったフシがなく、矢継ぎ早の新譜の発売が無い為、レコード業界では忘れられた存在となっていた。ところがどっこい、近年になってマクリーシュやユングヘーネルがOVPPによるマタイを録音し、リフキン説は再び脚光を浴びる事となる。但し、これはリフキン説がオーセンティックなアプローチだからではなく、単純にOVPPでやった方が面白いから、と云う理由に拠るらしい。結局、リフキンさんは先駆者として時代を先取りし、今頃になって世間が追い付いて来た、と云う事なのだろうか。
実はリフキン先生は、バッハ研究の碩学に留まる人では全くない。まず先生は、ジョン・ケージの企画した、四分の十三拍子の二つのメロディからなる、一分程度の短いフレーズを八百四十回繰り返して、演奏に18時間以上を要する、エリック・サティ「ヴェクサシオン」のニューヨークでの世界初演と、ロンドン再演に参加したピアニストの一人である。次に先生は、コープランドやべリオを振る現代音楽の指揮者であり、オノ・ヨーコやナム・ジュン・パイクもメンバーだった前衛芸術集団「フルクサス」の展開する、コンセプチュアル・アートのパフォーマンスに、ピアニストとして参加していた。
更に、73年の映画「スティング」の監督ジョージ・ロイ・ヒルは、スコット・ジョプリンの音楽をリフキン先生の録音で知り、映画音楽に使用した。先生のラグタイム・アルバムは、クラシック・ピアニストの立場から、それまでジャズの世界でアドリブの対象となっていたジョプリンのピアノ曲を、楽譜通り忠実に演奏したもので、「スティング」効果も相まって、世界中を席巻するラグタイム・ブームの端緒となった。実はリフキン先生はバッハの楽譜校訂者としてよりも、ラグタイム弾きのピアニストとして高名な人らしい。バッハを録音するヒマもない、先生は多芸な研究者兼指揮者兼ピアニストなのである。
リフキン先生の提唱する、マタイの合唱を全て一パート一人で歌わせる説の当否は、もちろん素人に判断出来る事柄ではない。ただ、今日の実演で気になったのは、小さな役に専念する歌手を三人も起用している事で、何でコイツ等に合唱を歌わせないんだ?と云う、素朴な疑問は残る。しかし、問題は今日の演奏に於いて、この説の実践が如何なる効果を挙げるかで、これについては単なる一聴衆として、僕にも何らかの意見を述べる資格はある。
今日の演奏者の配置は通常とは異なり、1グループが舞台上手側で、2グループが下手側。一パート一人の歌手達は左右両端に配され、距離的に随分離れている。これは当然、掛け合いの効果を狙ったもので、例えば“ゲッセマネの園”のオーボエ付きアリア「我はイエスの元に目覚め」では、上手のテノール独唱に対し、下手の第2コーラスが応唱し、この配置を納得させる、良い効果を挙げていた。このような応唱のスタイルは、先週タリス・スコラーズが演奏した十六世紀のヴェネツィア楽派、クローチェやA・ガブリエリの師匠筋に当る、アドリアン・ヴィラールトが創始者で、これをイタリアのモンテヴェルディからドイツのシュッツが学び、大バッハまで継承された、古い伝統のある技法なのである。
リフキン説は理論のみではなく、実際の演奏でも納得出来るものだった。歌手は八人しかいないので、当然テンポは速目になるし、小編成のオケにフーガの旋律を明快に聴かせようとする、意図は理解出来た。ただ、この指揮者の一パート一名の実践は、声楽を器楽的に扱う手法と僕は感じる。
一般的にマタイやロ短調ミサは合唱によって盛り上げ、劇的で彫りの深い演奏を志向する場合が多い。だが、リフキンの演奏では声楽は常に一名なのに、ヴァイオリンには二名づつを充当し、弦楽の音量が声楽のそれを凌駕している。ドッペル・コールを両端に引き離し、その中央に弦楽器をデンと据える配置は、専ら弦楽を聴かせる為と思われる。四声体のコラールはトゥッティで唱われるが、歌手が八名では今ひとつ迫力を欠く。これに対し、20名以上居るオケは合唱の伴奏には回らず、声楽はオケに組み込まれたように聴こえる。
つまり、リフキンは声楽と器楽の音色を近付け、一体として聴かせようとする、如何にもピアニスト出身の指揮者らしい発想を取っているのだと思う。この演奏スタイルに、華やかな声と技巧を持つ歌手は必要としない。均質な音色を目指しているので、あまり歌手に目立たれても困るのである。しかし、そう考えるとOVPPは、ただ単に指揮者としてのリフキンが、自分の演奏スタイルに合っているから主張しているだけ、とも捉える事が出来そうだ。
八名でマタイを歌い切ると云う事で、どんな強力な歌手が出て来るのかと期待していたが、これは僕の見当違いだった。主役の二人、エヴァンゲリストのマクストゥーツは軽やかなリリック・テノールで、中音域の深味のある声に表現力がある。だが、コーラス兼任で文字通り歌いっ放しなので、さすがに高音部はパッサージョではなく、完全なファルセットに逃げる事が多かった。イエスのトンプソンも軽い響きと豊かな声量のある良いバスで、これから経験を積めば、シミジミとした味わいも出て来るだろう。
総じてアメリカ勢は、ソコソコ声の出る連中を揃えたが、日本勢は学生に毛の生えたレヴェルで、力不足は歴然。指揮者は速目のテンポで劇的な盛り上がりを志向せず、ソリストも小粒で声に深味はなく、今日は決して悪い演奏ではなかったが、日常的な生活感のあるマタイで、バッハを聴く高揚感みたいな物は味わえなかった。
冒頭と第一部最後の合唱でのリピエーノ・ソプラノは、左サイドのバルコニー席に立った歌手がソロで唱ったのだが、この人が何だか素人っぽい、ボーイ・ソプラノみたいな声。このソプラノは後半、舞台に降りて来て女中を歌ったが、ついでにオケに加わってリコーダーも吹き、何だか良く分からないが多芸な人だった。“ペテロの否認”の際、アルトのアリアを伴奏する為、第1グループのコンミスが立ち上がったのだが、この人が譜面台を持ち上げると、足の部分が外れてしまった。ドカンと云う結構な音が会場中に響き渡り、今まさに大見得を切ろうとしていた、気の毒なエヴァンゲリストをビビらせていた。
指揮/ジョシュア・リフキン
ケンブリッジ・コンツェントゥス(第1グループ)
くにたちiBachコレギウム(第2グループ)
エヴァンゲリスト/ジェイソン・マクストゥーツ
イエス/サムナー・トンプソン
ソプラノ/クララ・ロットソーク/小島芙美子
アルト/ジーア・ローボ/坂上賀奈子
テノール/中嶋克彦
バス/小藤洋平
リピエーノ&下女&ピラトの妻/ウルリケ・ブレーガー
ユダ&祭司長/千葉祐也
ペテロ&ピラト&カヤパ&祭司長/狩野賢一
今日の客席は六割程度の入りで、これはチラシにエヴァンゲリストの名前すら記載されず、一体何者による演奏なのか、今ひとつ得体の知れないコンサートだった事が影響したのだろう。開演時間を五分程過ぎた頃、このホールの館長が舞台に現われ、何処かで聞いたような事を喋り出す。只でさえマタイは長いのだから、無駄な講釈は開演時間前にお願いしたい。
話が終わり、ようやく演奏者達が出て来る。オケの編成はファーストとセカンドのヴァイオリンが二名づつで、他は弦楽・木管共に全て一名の合計28名。通奏低音はオルガン・チェロ・ヴィオローネの三人が、第1と第2グループで交互にレチタティーヴォの伴奏を付けていた。歌手は勿論、今回の目玉企画である一パート一人の八名に、ユダやペテロや女中等の小さな役に専念する三人の歌手が居て、こちらは合計しても11名で、オケの半分以下の人数。
オケは歌手の入る前にチューニングを始めたのだが、今回のマタイの為に編成された国立音大のオケは直ぐに終えたのに、ケンブリッジ・コンツェントゥスと云うボストン大学音楽部の学生さんの団体の方は、えらく長い時間を掛ける。僕のような素人の耳にも、弦楽器の音の全く合わないのが分かると云うか、明らかに二つの楽器に二つの音程が聴こえて来るのだ。五分以上チューニングを続けたが、結局キチンとピッチの合わないまま、ウヤムヤにしたように思う。こいつ等ホントに大丈夫なんか?と、前途に一抹の不安を感じる。なんだかんだで開演は20分近く遅れ、結局終演も十時を回ってしまった。
今を去る事28年の昔、アメリカの音楽学者兼指揮者のジョシュア・リフキンが、OVPP(One Voice Per Part 各声部一人)を提唱し、翌年これを実践するオケ20名と歌手八名による「ロ短調ミサ」を録音・発表した。この頃、僕は地元でバッハを演奏する団体に片足を突っ込んでいて、ロ短調は眼前に聳え立つ高峰、技術的に険しい難関と云うイメージがあり、声楽パート一人説とその実践には、大変驚かされた記憶がある。クラシック音楽なんぞは全く聴かないアマチュア合唱団員の間でも、この演奏は話題となり、その団体の指揮者に僕が、リフキン説どうですか?と訊ねると、ロ短調って何でもアリだからなぁ、と云う返事だった。まあ、楽譜に合唱でやれと指定されている訳でなし、一応の根拠はあるが、例外的な事例を一般化しようとする極端な説、が当時の最大公約数の意見だったと思う。
その後のリフキンは勿論、地元ではバッハの演奏活動を続けていたのだろうが、他の古楽指揮者のように大手レーベルの専属となったフシがなく、矢継ぎ早の新譜の発売が無い為、レコード業界では忘れられた存在となっていた。ところがどっこい、近年になってマクリーシュやユングヘーネルがOVPPによるマタイを録音し、リフキン説は再び脚光を浴びる事となる。但し、これはリフキン説がオーセンティックなアプローチだからではなく、単純にOVPPでやった方が面白いから、と云う理由に拠るらしい。結局、リフキンさんは先駆者として時代を先取りし、今頃になって世間が追い付いて来た、と云う事なのだろうか。
実はリフキン先生は、バッハ研究の碩学に留まる人では全くない。まず先生は、ジョン・ケージの企画した、四分の十三拍子の二つのメロディからなる、一分程度の短いフレーズを八百四十回繰り返して、演奏に18時間以上を要する、エリック・サティ「ヴェクサシオン」のニューヨークでの世界初演と、ロンドン再演に参加したピアニストの一人である。次に先生は、コープランドやべリオを振る現代音楽の指揮者であり、オノ・ヨーコやナム・ジュン・パイクもメンバーだった前衛芸術集団「フルクサス」の展開する、コンセプチュアル・アートのパフォーマンスに、ピアニストとして参加していた。
更に、73年の映画「スティング」の監督ジョージ・ロイ・ヒルは、スコット・ジョプリンの音楽をリフキン先生の録音で知り、映画音楽に使用した。先生のラグタイム・アルバムは、クラシック・ピアニストの立場から、それまでジャズの世界でアドリブの対象となっていたジョプリンのピアノ曲を、楽譜通り忠実に演奏したもので、「スティング」効果も相まって、世界中を席巻するラグタイム・ブームの端緒となった。実はリフキン先生はバッハの楽譜校訂者としてよりも、ラグタイム弾きのピアニストとして高名な人らしい。バッハを録音するヒマもない、先生は多芸な研究者兼指揮者兼ピアニストなのである。
リフキン先生の提唱する、マタイの合唱を全て一パート一人で歌わせる説の当否は、もちろん素人に判断出来る事柄ではない。ただ、今日の実演で気になったのは、小さな役に専念する歌手を三人も起用している事で、何でコイツ等に合唱を歌わせないんだ?と云う、素朴な疑問は残る。しかし、問題は今日の演奏に於いて、この説の実践が如何なる効果を挙げるかで、これについては単なる一聴衆として、僕にも何らかの意見を述べる資格はある。
今日の演奏者の配置は通常とは異なり、1グループが舞台上手側で、2グループが下手側。一パート一人の歌手達は左右両端に配され、距離的に随分離れている。これは当然、掛け合いの効果を狙ったもので、例えば“ゲッセマネの園”のオーボエ付きアリア「我はイエスの元に目覚め」では、上手のテノール独唱に対し、下手の第2コーラスが応唱し、この配置を納得させる、良い効果を挙げていた。このような応唱のスタイルは、先週タリス・スコラーズが演奏した十六世紀のヴェネツィア楽派、クローチェやA・ガブリエリの師匠筋に当る、アドリアン・ヴィラールトが創始者で、これをイタリアのモンテヴェルディからドイツのシュッツが学び、大バッハまで継承された、古い伝統のある技法なのである。
リフキン説は理論のみではなく、実際の演奏でも納得出来るものだった。歌手は八人しかいないので、当然テンポは速目になるし、小編成のオケにフーガの旋律を明快に聴かせようとする、意図は理解出来た。ただ、この指揮者の一パート一名の実践は、声楽を器楽的に扱う手法と僕は感じる。
一般的にマタイやロ短調ミサは合唱によって盛り上げ、劇的で彫りの深い演奏を志向する場合が多い。だが、リフキンの演奏では声楽は常に一名なのに、ヴァイオリンには二名づつを充当し、弦楽の音量が声楽のそれを凌駕している。ドッペル・コールを両端に引き離し、その中央に弦楽器をデンと据える配置は、専ら弦楽を聴かせる為と思われる。四声体のコラールはトゥッティで唱われるが、歌手が八名では今ひとつ迫力を欠く。これに対し、20名以上居るオケは合唱の伴奏には回らず、声楽はオケに組み込まれたように聴こえる。
つまり、リフキンは声楽と器楽の音色を近付け、一体として聴かせようとする、如何にもピアニスト出身の指揮者らしい発想を取っているのだと思う。この演奏スタイルに、華やかな声と技巧を持つ歌手は必要としない。均質な音色を目指しているので、あまり歌手に目立たれても困るのである。しかし、そう考えるとOVPPは、ただ単に指揮者としてのリフキンが、自分の演奏スタイルに合っているから主張しているだけ、とも捉える事が出来そうだ。
八名でマタイを歌い切ると云う事で、どんな強力な歌手が出て来るのかと期待していたが、これは僕の見当違いだった。主役の二人、エヴァンゲリストのマクストゥーツは軽やかなリリック・テノールで、中音域の深味のある声に表現力がある。だが、コーラス兼任で文字通り歌いっ放しなので、さすがに高音部はパッサージョではなく、完全なファルセットに逃げる事が多かった。イエスのトンプソンも軽い響きと豊かな声量のある良いバスで、これから経験を積めば、シミジミとした味わいも出て来るだろう。
総じてアメリカ勢は、ソコソコ声の出る連中を揃えたが、日本勢は学生に毛の生えたレヴェルで、力不足は歴然。指揮者は速目のテンポで劇的な盛り上がりを志向せず、ソリストも小粒で声に深味はなく、今日は決して悪い演奏ではなかったが、日常的な生活感のあるマタイで、バッハを聴く高揚感みたいな物は味わえなかった。
冒頭と第一部最後の合唱でのリピエーノ・ソプラノは、左サイドのバルコニー席に立った歌手がソロで唱ったのだが、この人が何だか素人っぽい、ボーイ・ソプラノみたいな声。このソプラノは後半、舞台に降りて来て女中を歌ったが、ついでにオケに加わってリコーダーも吹き、何だか良く分からないが多芸な人だった。“ペテロの否認”の際、アルトのアリアを伴奏する為、第1グループのコンミスが立ち上がったのだが、この人が譜面台を持ち上げると、足の部分が外れてしまった。ドカンと云う結構な音が会場中に響き渡り、今まさに大見得を切ろうとしていた、気の毒なエヴァンゲリストをビビらせていた。











トラックバックを頂き、ありがとうございます。
私の拙いブログと違い、operanoyoru様のご意見が明解かつ知的に展開されていて、感心致しました。
これからもお邪魔させて頂きますね。
>自己を深く内省する厳しいバッハが好きだ
深く同感です。リフキン先生は一度聴けば充分かなぁ、と云うのが僕の本音です。
勝手ですが、このリフキン方式がこれからの音楽界をリードするような方向に行かないことを願っています。
僕はOVPPの実演に接し、これは充分にアリと思いました。リフキンさん以外の、もっと優秀な指揮者と歌手による演奏なら、また聴きたいです。
バッハに取り組む古楽指揮者は、今だにリヒターの呪縛から逃れ切れていないように思います。OVPPは“脱リヒター”の為の、一つの手段なのではないでしょうか。いや、僕もリヒターは好きですけど…。
第九やる為に集まった百人規模の合唱団が、勢いでマタイやロ短調に取り組む演奏は、一度聴いただけでコリゴリでした。