オペラの夜

出掛けたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深める為のブログです。

プッチーニ「ラ・ボエーム」

2011-06-04 | プッチーニ
<メトロポリタン・オペラ2011日本公演>
2011年6月4日(土)15:00/愛知県芸術劇場

指揮/ファビオ・ルイジ
メトロポリタン・オペラ管弦楽団
メトロポリタン・オペラ合唱団
TOKYO FM少年合唱団

演出・美術/フランコ・ゼッフィレッリ
照明/ギル・ウェクスラー
衣装/ピーター・J・ホール

ミミ/バルバラ・フリットリ
ロドルフォ/ピョートル・ベチャワ
ムゼッタ/スザンナ・フィリップス
画家マルチェッロ/マリウシュ・クヴィエチェン
音楽家ショナール/エドワード・パークス
哲学者コッリーネ/ジョン・レリエ
家主ぺノア&旦那アルチンドロ/ポール・プリシュカ
玩具屋パルピニョール/ダニエル・クラーク・スミス
警官/ジェイソン・ヘンドリックス
役人/リチャード・ピアソン


 来日直後の3月11日、東日本大震災に遭遇したフィレンツェのオペラは、それでも健気に二回の公演を行ったが、福島第一原発が水素爆発を起すと、フィレンツェ市長の帰国命令で即座に逃げ帰った。我々もあの時は情報不足でイマイチ分かっていなかったが、まあ当然の措置だったと今にして思う。二回の水素爆発の後、東電も政府も格納容器は健全と強弁した訳で、イタ公どもは正しい判断を下したのだ。原発事故は地震そのものより恐ろしい、その事実を思い知らされる、今日この頃である。僕もお陰様で、メルト・ダウン(炉心熔融)より深刻なメルト・スルー(炉心熔融貫通)とか、水蒸気爆発と水素爆発の違い等、食卓の話題には相応しくない、シビア・アクシデントの用語を学ばせて頂いた。

 フィレンツェは逃げ帰ったし、六月までに原発事故の収束してるなんて有り得ないし、メトもけーへんやろなぁ、と僕は半ば諦めていた。それが四月中旬、米国務省が日本への渡航延期勧告を解除したのを受け、メトのピーター・ゲルブ総裁が日本公演を予定通り行うと表明。メト側からのキャンセルの申し出には経済的な負担の大きいのか、はたまた政治的な理由のあるのか良く分からないが、どうやらメトは本当に来るらしい。

 それでもメトのスタッフは首に縄を掛けてでも連れて来ても、アーティストの参加は自由意志で、実際に来日するまでに逃げる奴のポロポロ出るのは容易に予想の付く。音楽監督のレヴァインの体調の悪いのは知れ渡っていて、代役にファビオ・ルイジの立ったのまでは、こちらとしても織り込み済み。しかし、アンナ・ネトレプコのドタキャンを受け、エリザベッタを歌う筈のバルバラ・フリットリを、ミミへ回した荒業には驚かされた。まあ、原発事故の怖いのは端から分かっている話で、それを代役を探す時間の無い直前、最終段階でキャンセルの意思をメト側に伝えたネトコが一番問題だが、我々がそれを非難する立場にないのも、また情け無い話だ。

 普段は事務的な情報しかない自身の公式ウェブサイトに、フリットリはわざわざ日本語でメッセージを掲載している。我々日本の聴衆へ届けたいメッセージが、彼女にあったからだろう。日本に赴き歌う事が親愛の情を示す唯一の方法であり、訪日を躊躇しなかったと明言した上で、彼女はエリザベッタからミミへの唐突な配役変更を、不本意であると仄めかしている。それに続け、自分の歌で聴衆を楽しませる為、精一杯舞台を務めるとも述べている。僕はフリットリのミミは初めてで、彼女の本領は奈辺にあるのか、それは実際に聴いて判断するしかない。今はフリットリが当代一流のプリ・マドンナとして、ミミを歌う心の準備を整えてくれる事を祈るばかりだ。

 相次ぐドタキャン騒ぎのお詫びとかで、プログラムをタダで貰えたのはちょっと嬉しい。名古屋での公演初日、何時もながら大勢の客でごった返す、狭苦しい愛知県芸のロビーだが、スッタモンダの挙句の来日でもあり、周囲には心なし普段とは違う緊張感の漂う。開演に先立ち、まずゲルブ総裁の挨拶がある。原発事故後のトラブル続きの中、兎にも角にも公演初日に漕ぎ着けたのは、この人の辣腕あってこそだろう。オペラハウスの経営者なんて、お人好しに務まる仕事ではないと、今回の一観客としてつくづく思い知らされる。でも、取り合えず現在のフクシマ・ダイイチの状況では、来て頂ける方は何方でも有難い。

 客電の落ちて場内の暗くなり、指揮者のピットに現れると拍手の起こる。開演前、何時もながらのセレモニーだが、ここ愛知県芸の四階席天辺では、オケピットの中は全く見えず、座ったままでは指揮者の姿をチラリとも拝めない。新国立劇場のように前の人の頭の邪魔になる事は無いが、矢張り指揮者とオケを見ながら音楽を聴くのも、オペラの楽しみの重要な部分と思う。安けりゃ何でもアリとは云うものの、もう少し何とかならんもんか。

 メトのオケは美しく、しかも大きな音を出して余裕を感じさせ、もう「ラ・ボエーム」は何十回も演奏して、全てを心得た風情がある。カチャカチャとリズムを跳ねる一幕導入部から、ミミの登場して嫋々と歌い上げる場面へと、切り替える巧さも手馴れたもの。指揮者も曲を手の内にして、自由自在なテンポ感でオケを操る。こんな時、オケピットの中の見えないのを、本当に残念に思う。流石にオペラハウスのオケの弾くプッチーニと感じ入るが、僕は直近に聴いた大響と関フィルの音が耳に残っていて、その辺は少し割引きして考えるべきかも知れない。

 二幕のカフェ・モミュスの場面で幕の上がり、上下二層のセットが姿を現すと、客席から拍手の起こるのはお約束通り。でも、新国立「アイーダ」四幕のド派手なセットを経験している身からすると、ゼッフィレッリお得意の物量攻勢として驚く程ではない。それに今回のセットは、東京文化会館の舞台間口に合わせたバージョン・ダウン版とも仄聞する。児童コーラスがFM少年合唱団で、ボーイ・ソプラノの音色を聴けたのは嬉しいが、男の子ばかりで女の子の居ないのは、やや違和感がある。それでも驢馬さんやお馬さんに、軍楽隊を一揃えキッチリと出した辺り、さすがにゼッフィレッリ演出と思う。

 皆様お目当てで、肝心要のフリットリのミミだが、結論から云えば初日の歌は、聊か精彩を欠いていた。勿論、この方は天与の美声を持つ本物の歌姫で、何を唱っても声そのもので聴かせてくれる。一幕のアリアでのソット・ヴォーチェと、柔らかいピアニシモの美しさには惚れ惚れさせられるし、三幕最後のピアニシモも味わい深く聴かせてくれる。しかし、フォルテの音量ではヴィブラートの大きいのが気になり、長く伸ばすフレーズにパセティックな訴えかけのなく、サラリとした歌になって終う。矢張り今日のフリットリには、集中力不足の否めないように感じる。

 ロドルフォのベチャワ(この前は“ベチャーラ”と表記していたが)を、僕は四年前のチューリッヒ・オペラ「椿姫」公演でのアルフレードを聴いているが、今回の彼の歌はややイメージの異なった。やや詰ったような鼻に掛ける甘い声で、頭の天辺にスコーンと抜ける明るい声とは違う、個性的な発声と音色のテノール歌手で、超一級とは云い難いB級スターの趣がある。そのような声の音色の制約もあり、音楽の持って行き方が一面的で、場面に即応する変化に乏しい印象を受けた。

 ムゼッタのフィリップスは、柔らかい音色の声質がフリットリと被って終う。綺麗でサラリとした歌を唱うが、ハジケた演技も声の自己主張も無い、存在感の希薄なムゼッタだった。マルチェッロのクヴィエチェン(この人も“キーチェン”の表記だった)も、地味なムゼッタに付き合い良く、影の薄い演技と歌に終始する。もっと自己主張、つまりデカイ声を出して、ミミやロドルフォと張り合って欲しいが、一体何に遠慮したのだろうか。これが彼の本来の実力とも思えず、不可解と云うしかない。

 それと立役者のロドルフォは兎も角として、後のマルチェッロ、ショナール、コッリーネの三人組は、声を姿も見分けの付き難く、誰も前へ出ようとしないイタ・オペとしては有り得ない展開。脇役の中では超ベテランのプリシュカが、一人クサイ歌い回しで声の演技派振りを発揮し、特にべノワで良い味を出していた。何故この人だけ自己主張出来たのか、その理由は不明だけれども。僕も今日は最初の内、オケの綺麗な音に感心していたがオペラの進むに連れ、指揮者の安全運転に疑問の募る。ルイジも何に遠慮したのか、こんなにアッサリしたボエームを聴かされるとは、これも全く予想外だった。

 万難を排して日本に来てくれたメトだが、幕切れでサッパリ泣けない、こんな不完全燃焼のボエームでは、来て頂ける演奏家は何方でも有難い等と、聖人君子ぶっては居られない。終演後は一杯呑んで早寝して、「ドン・カルロ」に備えるしかないが、今日のミミを歌ったフリットリは、明日のエリザベッタは歌えない。フリットリは単なる体調不良だったのか、それとも心身共に突然の配役変更へ対応出来なかったのか。何れにせよ釈然とせず、後味の悪いドタバタ劇だった。
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