オペラの夜

出かけたオペラやコンサートを聴きっ放しにせず、自分の中で理解を深めるためのブログです。

ワーグナー「タンホイザー」

2012-05-27 | ヴァーグナー
<びわ湖ホール・プロデュースオペラ/サンディエゴ・オペラ制作>
2012年3月11日(日)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術/ギュンター・シュナイダー・ジームセン
照明/マリー・バレット
衣装/ウォルター・マホーニー
振付/ケトゥーラ・スティッキャン

タンホイザー/水口聡
エリーザベト/佐々木典子
ヴェーヌス/並河寿美
ヴォルフラム/大島幾雄
領主ヘルマン/大澤建
ヴァルター/岡田尚之
ハインリヒ/大野光彦
ビテロルフ/加賀清孝
ラインマル/鹿野由之
牧童/福永修子
小姓/岩川亮子/栗原未和/田中千佳子/本田華奈子


 3月11日、あの日から今日で一年が経つ。沼尻芸術監督がマイクを持ち、幕開け前の舞台に現われる。14時46分は一幕二場の牧童の歌辺りになるが、タンホイザーの祈りの心は、必ず被災地に届く筈と挨拶した。チューリンゲンに春の訪れる場面が、その時刻なのも廻り合わせで、僕も被災地の復興を願って祈りたいと思う。

 まず、タイトル・ロールの歌から。プレミエの福井敬は、さすがの豊かな声量が見事で、長いフレーズも楽々と歌い切る声の力が凄い。でも、一幕のヴェーヌスベルクのアリアでは、何時ものように短く切り分けたフレーズへ、スフォルツァンドと云うかクレシェンドと云うべきか、先太りのアーティキュレーションを挟むのを煩わしく感じる。立派な声の持ち主なのだから、もう少し素直に聴かせて欲しい。でも、これも二幕になると、こちらの耳の慣れたのか、或いは音楽自体と噛み合ったのか、結構楽しく聴けるようになる。特にローマ語りはノッペラボーに歌う輩の多く、しばしば退屈させられるが、ここでは福井の小細工が上手くハマり、僕は面白く聴かせて貰った。

 水口聡はイタリアっぽい明るい声と、福井とは違う素直なフレージングは良いが、スピントする高音部が綺麗にスッと伸びず、胴間声みたいになるのが気になる。この人にも声量はあるので、ローマ語りにダイナミズムの変化は付くが、音色の変わらないので面白くない。それと僕の座る天井桟敷席まで、プロンプターの声がウルサイ程に聞こえて、一体何事の起こったかと思う程だった。水口は初役だそうだが、それならもっとプロンプター・ボックスに近寄って歌えよ、とも思う。

 小手先の工夫の多い福井に対し、ヴェーヌスの小山由美には持ち声の良さで聴かせようとする、潔い姿勢がある。ヴァーグナーのツボを心得た歌に、さすがの深い美声と伸びやかな高音で、とても立派なヴェーヌスだった。並河寿美のヴェーヌスにも高音の伸びやかな美声があり、パセティックな情感を込めた歌心がある。本当はヴェルディの、それもメゾではなくソプラノ役で、聴きたい人ではあるけれども。

 エリーザベトは若手とベテランの取り合わせ。安藤赴美子は立派な声だが、フォルテで音色のキツくなる傾向がある。二幕の大詰めでタンホイザーを庇う場面等、そのキツイ声は効果を発揮するが、三幕の“祈りの歌”は音色の変化に乏しく、今ひとつ面白く聴けない。エリーザベトと云うよりトゥーランドット姫みたいで、優しく許すのではなく、先頭に立って厳しく追求されそうな感じもする。佐々木典子は明快なドイツ語のディクションで、自然なデュナーミクを付け、“歌の殿堂”のアリアは軽やかに爽やかに、“嘆願の場”では劇的な重い歌を唱い切り、力のある処も聴かせる。“祈りの歌”は荘重且つ清純な歌で、三曲を的確に分析して唱い分ける、誠に真っ当なヴァーグナー・ソプラノと評価したい。

 ヴォルフラムは黒田博の硬質なバリトンが役に嵌まる。剛毅な声は実直なお人柄を表しているようで、“夕星の歌”にやや甘さは欠けるが、これはこれで良かったと思う。大島幾雄は声に特色の無く、存在感が希薄。寄る年波かヴィブラートもキツ目で、声自体に華の無いのが辛い。

 ヘルマンの妻屋秀和は、何と云ってもガタイが良い。チビッ子騎士五人組から頭ひとつ抜け出し、一人だけ大人の混ざったようで、その立ち姿に風格がある。勿論、何時も通りの貫禄の声で、舞台を引き締めてもいる。大澤建は一応キチンと歌っているが、最低音のカスれて、領主らしい威厳に欠ける。去年、やはりびわ湖ホールで聴いたファルスタッフ役はソコソコ良かったので、恐らくブッファ向きの声なのだろうと思う。

 14時46分に歌われた“牧童の歌”は、訪れる五月を歓迎し、春と豊穣の女神ホルダ(別名ヴェーヌス)を讃える歌とされる。五月の到来を祝うメーデーは、11月のハロウィンと共に、寒暖の交替を告げる西欧の祝祭で、耶蘇のイースターにやや遅れて開催される、古代ゲルマンを起源とする異教の祭りである。メーデーの前夜祭“最初のヴァルプルギスの夜”は、メンデルスゾーンの同名カンタータと、ムソルグスキー「禿山の一夜」でお馴染みだが、これは魔女の酒宴で単なる乱痴気騒ぎ。対する「タンホイザー」の“牧童の歌”は、大地に恵みを与える春への頌歌である。

 春の訪れと共に、大地に祝福を与える女神ヴェーヌスは、枯れた教皇の杖を甦らせる生命力の象徴でもある。冬枯れした野山が春に甦える事自体、自然の力の起こす奇跡だろう。東日本大震災から一年となる日に、「タンホイザー」を上演する巡り合わせであれば、荒れ果てた大地に緑を芽吹かせ、被災地の復興を暗喩する、そんな演出の工夫があっても良かったと思う。今回の演出は何でもかでも絵解きして見せて、リアリズムの上に何かヘンなものの付くと、僕には感じられた。

 昨日の森季子も清澄な声で“牧童の歌”を聴かせてくれたが、今日の福永修子もレジェーロな声で、鎮魂の思いを込めたような柔らかい歌だった。牧童は本来ボーイ・ソプラノの役処だが、今回の女声二人にも良い歌心のあって、被災地の復興を素直に願える場面となったように思う。
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ワーグナー「タンホイザー」

2012-03-10 | ヴァーグナー
<びわ湖ホールプロデュースオペラ/サンディエゴ・オペラ制作>
2012年3月10日(土)14:00/びわ湖ホール

指揮/沼尻竜典
京都市交響楽団
二期会合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル

演出/ミヒャエル・ハンペ
美術/ギュンター・シュナイダー・ジームセン
照明/マリー・バレット
衣装/ウォルター・マホーニー
振付/ケトゥーラ・スティッキャン

タンホイザー/福井敬
エリーザベト/安藤赴美子
ヴェーヌス/小山由美
ヴォルフラム/黒田博
領主ヘルマン/妻屋秀和
ヴァルター/松浦健
ハインリヒ/二塚直紀
ビテロルフ/萩原潤
ラインマル/山下浩司
牧童/森季子
小姓/岩川亮子/栗原未和/田中千佳子/本田華奈子

 
 今日は一昨年の「トリスタンとイゾルデ」に続く、沼尻芸術監督のヴァーグナー・シリーズ第二弾(順番は逆のような気もするが…)、「タンホイザー」のプレミエ上演。オケピットから序曲冒頭のホルンの旋律が立ち昇ると、パウゼには僕の座る天井桟敷席まで、奏者の生々しいブレスの息遣いが届く。ああ、「タンホイザー」だなぁと、それだけで感激してしまう。「トリスタン」の際もそうだったが、沼尻は特に序曲へ気合を込める。テンポ自体は遅過ぎず中庸だが、何事も最初が肝心とばかりに、猛然とフォワード・ラッシュを仕掛ける。

 その後も指揮者は弛みの無い演奏を続ける。二幕の入場行進曲では最初の内、まあこんなものかと思っていると、リピートがエライ勢いで盛り上り驚かされる。タイトル・ロールが、自分はヴェーヌスベルクに居たと口を滑らせる場面で、沼尻は衝撃的な程に張り詰めた音を聴かせる。ヴァーグナーに“爽やか”と云う表現は、余り相応しくないかも知れないが、でも今日の演奏は本当に軽やかで爽やかだ。京響のオケピットに入ったヴァーグナーを聴くのは久し振りだが、やはり関西では最もヴァーグナーの演奏機会の多いオケで、彼等はキチンとツボを心得ている。今回の「タンホイザー」でも、その実力を如何なく発揮してくれた。

 スコアを当った事の無い僕には分からないが、今回はヴァーグナーのト書きに、徹底して忠実な演出だったのだろうか。「トリスタン」も読替えのない穏当な演出だったが、今回は更にその上を行く、今時珍しい程のオーソドックスと云うか、随分と古臭いスタイルと感じる。

 序曲に続く、ヴェーヌスベルクの場面。具象的な岩山のセットを、赤っぽい色合いの照明で染めた舞台上では、露出度の高い男女のバレエ・ダンサーが、モロにヤッてるトコを描写した振付けで踊る、と云うか睦み合っている。そこへ紗幕を掛けた上、更にモクモクとスモークを焚いて狙う効果は、やや安易と云うか陳腐に過ぎると思う。舞台美術からは絵に描いたような“ありきたり”、振付けからはアダルト・ヴィデオの真似事みたいで“お下品”、と云う印象を受ける。ヴェーヌスベルクから、チューリンゲンの緑深い山中への舞台転換は、照明を赤から青に切り替え一瞬の内に行ったが、これも少し手際の良過ぎて、これ見よがしな芝居臭い工夫と感じる。

 二幕のヴァルトブルク城のセットはお伽噺風の造りで、中世風の衣装も古式床しく、舞台美術には平凡の良さのあり、歌手には音楽と筋立てに寄り添う、手堅い演技がある。故郷に戻ったタンホイザーと、再会した騎士達との和解や、皆の吊るし上げを食うタンホイザーをエリーザベトの庇う場面等、次のストーリー展開を知る観客の期待通りに処理する手際は、良い意味で保守的な演出と感じる。但し、歌手には細かい演技を施しても、その他大勢のコーラスには行き届かず、手を広げ前へ差し伸べるだけの場面の多いのには、やや興醒めさせられる。

 一幕の岩山のセットの再び出て来る三幕は、相変わらずヴェーヌスの出し方など泥臭く、無粋な演出に逆戻りする。その極め付けは、実際に葉っぱの芽吹いた法皇の杖を絵にして見せた事。今時の信者さんでは、聖書の奇跡を歴史的事実と考えるヤツも居ないだろうし、あれは腐敗したローマ・カトリックへの、ヴァーグナーの揶揄と考えるのが普通だろう。芽吹いた杖は如何にも作り物めいて、僕には手品師が懐から取り出す、安物の造花にしか見えなかった。

 昔、ヘネシー・オペラの小澤征爾指揮「オランダ人」で、演出に蜷川幸雄の起用された際、オランダ人船長とゼンダの絵姿が宙を飛ぶ幕切れを見せられ、呆気に取られた記憶がある。今日はアレと並び称されるドン臭い幕切れとして、日本オペラ上演史上の語り草にしたく思う。

 手品の世界にしか有り得ない、歩行補助器具に緑の芽生える挿話は、既成宗教の堕落の比喩的な表現で、それを視覚化する発想は音楽のリアリティも損なう。物理的な奇跡を信じない現代人にも、我が身を投げ出す利他的な行為を信じたい、そんな気持ちはある筈だ。そうであればこそ、エリーザベトの自己犠牲によりタンホイザーの救われる幕切れに、我々聴衆は感動する。杖に葉っぱの生えたから救われるのでは、決して無いのだ。耶蘇教の奇跡を信じない、葬式仏教徒の僕であっても、他人を思い遣る心は信じたい。それこそ「タンホイザー」のテーマであり、ヴァーグナーの音楽の本質と思う。
 
 幕切れでの京響と沼尻の馬力も見事で、「タンホイザー」全幕を立派に締め括り、僕はまた少し涙ぐんでしまった。爽やかで尚且つ、威風堂々とした要素にも欠けない演奏だっただけに、演出に興を削がれたのを残念に思う。ダンサーへの猥褻な振付けは、女性演出補の仕事のようだが、昨年末の「ドン・ジョヴァンニ」の女性演出家からも、僕は同じような匂いを感じた。

 つまり、この二人には性行為を穢れたものと見做す、抑圧されたコンプレックスに共通点がある。それが耶蘇の原罪意識とやらと関係するのかは分からないが、何れにせよ性的な偏向は覆い難く露骨に表れている。性描写は隠微にやればエロだが、見ていてちっとも楽しくないのでは、如何ともし難い。オペラを観に来た積もりで、アダルト・ヴィデオを見せられても、嬉しくも何とも無い。もう少し陽気に明るく、性愛を肯定的に扱えないものかと、僕は実際ウンザリしているのだ。

 沼尻の爽やかなヴァーグナーを聴きながら、これは“ヴァヲタ”さんを怒らせるんじゃないかなぁと、僕はやや不安だった。でも、カーテン・コールでは幸いにもブラーヴォの声だけで、ブーイングは全く聞こえなかった。これが新国立劇場なら、大挙押し掛けたヴァヲタさんのブーイングに、鬱陶しい思いをさせられた事だろう。こんな時、自分のフランチャイズがびわ湖ホールにある事を、本当に嬉しく思えるのだ。
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ボロディン「イーゴリ公」

2012-01-28 | 各国オペラ
<オデッサ・ナショナル・アカデミーシアター初来日公演>
2012年1月28日(土)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/ユーリィ・ヤコヴェンコ
ウクライナ国立オデッサ歌劇場管弦楽団&合唱団

演出/スタニスラフ・ガウダシンスキー
美術/V.A.ボリスキー
振付/K.ゴレイゾフスキー
ウクライナ国立オデッサ歌劇場バレエ

イーゴリ公/アレクサンドル・ブラゴダールヌイ
ヤロスラーヴナ公妃/アーラ・ミシャコワ
ガリツキー公/セルゲイ・ザムィツキー
コンチャク汗/ウラジーミル・グラシェンコ
ウラディーミル公子/アレクセイ・スレブニツキー
コンチャコーヴナ姫/リリア・クチシェヴァ
スクーラ/コスチャンチン・ウルィビン
エローシュカ/イーゴリ・コルナトフスキー
韃靼人オヴルール/イェヴゲニー・ガヴリシ


 「プリンス・イーゴリ」は12世紀に成立した、中世写本「イーゴリ軍記」を元ネタに、作曲家自身の執筆した台本に基づくオペラだが、これをボロディンは作品として完成させる事なく、この世を去っている。作曲家の死後、全体のオーケストレーションをリムスキー・コルサコフが、断片として残された序曲と第三幕の仕立て直しをグラズノフが、それぞれ専ら担当した補筆改訂版が、このオペラの完成楽譜とされている。

 但し、二人とも補筆に当たり、自分の創作も相当部分に混ぜ込んだようで、この辺りの事情はモーツァルトのレクイエム等と同じく、それを分別するのは難しいようだ。従って、第三幕を偽作と認定して素っ飛ばすとか、あちこちをカットしての上演に口実は付く訳で、全曲上演の機会など絶無に近そうだし、まあ補筆版を全部聴いても仕方なかろう、と云う気のするオペラではある。僕が四年前に観た、マールイ・オペラの演出もガウダシンスキーだったし、今回も三幕はカットの二幕五場版による上演と云う事で、舞台自体は前回と同じのようだ。

 まず持って、遥々ウクライナからお越しのオペラ・ハウスに、イタオペをやらせるのも無粋な話だ。そもそも、イーゴリさんはウクライナの首都キエフの殿様だし、そのタイトル・ロールが軍勢を率いて戦いを挑む、韃靼人と訳されるトルコ系遊牧民ボロヴェッツ人の根城は、黒海北岸に位置するウクライナ第二の都市・オデッサなのだ。「イーゴリ公」はオデッサ・オペラに取って、正真正銘のご当地物なのである。それならば、初来日で力の入った処を聴かせて貰おうじゃないの、と考える次第である。

 前回と同じ演出と云っても、健忘症の僕の記憶には全く残っておらず、まあ初めてみたいなモンである。でも、予想通りセットは書き割りの立て看板だし、歌手とコーラスの演技も有って無きが如し。衣装のみ豪華なのだけには、薄っすらと前回の記憶の残っている。だが、今更そんな事に文句を付けても始まらない、これが毎度お馴染み旧ソ連圏オペラの、通例に沿った演出なのだ。

 そんな良く言えばメルヘンチックな舞台に、上手な歌さえ花を添えてくれれば、一観客として満足すべきなのだろう。その歌手の品定め。タイトル・ロールのバリトンが、スピントしない野太い声のままフォルテを伸ばす、平板なアーティキュレーションの歌い振りで、聴いていてちっとも面白くない。その嫁さんのソプラノも最初、唐突に高音を発する奇妙なフレージングで、先の思いやられたが、一幕後半のアリアは伸びやかに歌えて、まずはホッと胸を撫で下ろす。

 ガリツキー公のバスは声自体の魅力に乏しく、ノー天気な美味しい役処を生かせない。コンチャク汗はクセのあるキャラクター・バスだが、声に輝きのあって良く響くし、イーゴリとの対称性も付いて楽しく聴ける。アリアは一曲しか無いが、ウラディーミルは端正にフレージングを作る、折り目正しいテノール。声自体は重目でも、良い歌を唱ってくれた。コンチャコーヴナのソプラノはキツイ声に過ぎるし、もう少し音色の変化も欲しい処だ。

 総じて歌手陣の出来にはデコボコのあり、安心して聴けたとまでは云えない。でも、オーケストラの音には西洋的な洗練のあり、指揮者も端正に縦を揃えてアンサンブルは上手なので、ボロディンの音楽自体は充分に楽しめた。ただ、弦の人数が少なく、相対的に弱いので、管楽器がブカブカ吹き出すと聴こえず、バランスの悪いのが難ではある。でも、これを逆に云えば、フルートやホルンに実力者を揃えて、安心して聴けるとも云える。ロシアっぽい荒々しさに欠けて面白くない、とか言うのは無い物ネダリだろう。“韃靼人の踊り”や幕切れの盛り上がりでの、指揮者のカタルシスの作り方は見事だった。

 ただ、50名近くの頭数のいたコーラスは、バスの弱くてロシアっぽい重厚な響きは皆無。女声も非力で、合唱としてのクオリティは低い。でも、“韃靼人の踊り”での女声合唱はソコソコ綺麗で、バレエ・ダンサーには身体能力の高さがあり、キレのある踊りで楽しめる内容があった。このバレエのレヴェルの高さからも、初来日での力の入れようの分かる気がする。

 僕も二回、補筆改訂版の「プリンス・イーゴリ」を観て、これはボロディンのメロディー・メーカーとしての魅力の詰まった、美しい曲だとは思う。だが、良く言われるように、補筆改訂版は劇的な起伏に乏しい構成で、お芝居としての楽しみに欠けている。もう少し何とか、ボロディンの意図に近い上演は出来ないものか。そうでないと、何度観ても隔靴掻痒の想いの募る、そんなオペラだと感じるのだ。
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シュッツ「クリスマス物語」SWV.435

2011-12-16 | ピリオド
<H.シュッツとバッハ以前の17世紀ドイツ巨匠の音楽>
2011年12月16日(金)19:00/京都文化博物館別館ホール 

アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニ
ソプラノ/緋田芳江/鈴木芳
アルト/下村美穂
テノール/岡村雄一
コルネット&リュート&バリトン/笠原雅仁
バス/松下伸也

バロック・ヴァイオリン/大内山薫/中川敦史
ヴィオラ・ダ・ガンバ/頼田麗
コルネット/上野訓子
サクバット/松田洋介/日生貴之/織田貴浩
オルガン/野澤知子

J.エッカルド「Von himmel hoch 天上より現れ」
シャイン「Paduan 四声のパドゥアン」
ミヒャエル・プレトリウス「Puer natus ベツレヘムに産まれし幼子」
シュッツ「Sumite paslmum 賛美の歌/Fili mi Absalon わが子アブサロム SWV.269/
Exultavit cor meum in Domino 私の心は主によって喜び SWV.258
(シンフォニア・サクレ第1集)/O Jesu nomen dulce おおイエス、甘美な御名 SWV.308/
Veni sancte Spiritus 来たれ聖霊よ SWV.328(クライネ・ガイストリヒ・コンチェルト)/
Historia der freudenreichen Geburt Jesu Christi
イエス・キリストの喜ばしき降誕の物語 SWV.435」


 京都を本拠とする古楽団体、アンサンブル・プリンチピ・ヴェネツィアーニが昨年の“ヴェスプロ”に続き、今年はシュッツを取り上げる。何れも演奏頻度の少ない初期バロックの大曲だが、取り分けシュッツの季節物は滅多に聴けない珍品で、誠に有難い話である。個人的にクリスマスのBGM定番曲は、ブリテンの「キャロルの祭典」と、オネゲルの「クリスマス・カンタータ」、そして今日演奏される「クリスマス・ヒストーリエ」で、僕はライヴでは初めて聴く。

 関西ローカルでもヴェネツィアを名乗るアンサンブルなので、普段はイタリア物を中心に演奏しており、ドイツ物を取り上げるのは珍しいらしい。それがバッハでも、テレマンでもないシュッツと、これはまた渋い処を突いて来る。尺的に30分程度の曲なので、コンサートの前半はシュッツの宗教曲を中心に、四人の作曲家の小品を八曲演奏し、後半のメインに「クリスマス・ヒストーリエ」を置く一夜の構成。

 三条姉小路にある京都文化博物館別館の建物は、重要文化財に指定されている旧日銀京都支店で、東京駅丸の内口や大阪市中央公会堂でお馴染み、辰野金吾設計によるレンガ造り二階建て。元の銀行の営業部屋は天井吹き抜けの広いホールで、そこを演奏会場としてリサイクルした、なかなかお洒落な空間。平土間の入口は銀行受付になっており、そこを回り込んだ奥の方に客用の椅子を並べ、反対側に演奏者が陣取る。二階部分には廻廊が四周に張り出して、あそこで聴けば音が良いだろうなぁ、と思わせる。

 開演時間になると器楽のメンバーが定位置に着き、声楽陣の入場を待つ。歌手達が部屋の外でアカペラで唱い出し、そこへオルガン伴奏の入ると、そのまま唱いながらゾロゾロとホールに入場する、「キャロルの祭典」みたいな趣向でコンサートは始まる。最初のシュッツのモテットは、トゥッティでサクバットも華やかに、次はベース・ソロを器楽隊で支える曲。管と弦の息の合わず、危なっかしい場面もあったが、そこは生演奏に付き物の、ご愛嬌と云う事で。

 三曲目ではコルネットを吹いていた人が、オルガン伴奏でバリトン・ソロを歌う。この方は歌を唱い、コルネットを吹く他に、リュートまで爪弾くなど矢鱈に多芸で、声質は高音部の綺麗なハイ・バリトン。まず持ち声自体が良く、メリスマの技術もあって、今日の男声歌手三人の中では一番巧いのが、何だか可笑しくも感じられる人。四曲目はオルガン伴奏を入れた五声で歌う、ノン・ヴィブラートのソプラノ二人の魅力を引き出す曲と感じる。一人は透明な声、もう一人は少し色のある声で、二人の声の対比が美しい。ただ、二人とも声量に乏しく、もっと声を張り上げ、鮮烈なフーガを作って欲しかった。大声を出さなければボロも出ないが、それでは盛り上がりにも欠けてしまう。

 五曲目はソプラノ・ソロを、二本のコルネットとオルガンで支える。尺八みたいなコルネットを操る、二人には抜群のテクニックがあり、このメンバーの中では図抜けているように思う。ソプラノもソロで聴かされると、この方はアンサンブル歌手ではあっても、ソリストでは無いと分かってしまう。前半の最後にはミヒャエル・プトリウスのモテット「Puer natus」が演奏された。

 シュッツやシャインに先立ち、イタリアに留学したプレトリウスは、三巻から成る浩瀚な音楽辞典「シンタグマ・ムジクム」の著者で、プロテスタント・カントライの伝統の世界に生き、初めてヴェネツィア楽派の書法を伝えた、ドイツ音楽史の上で重要な作曲家。その嬰児イエス・キリストの誕生を祝福するモテットは、14名全員のトゥッティで演奏される。教会ぽい雰囲気のある天井の高いホールに、柔らかい音の立ち昇り、シミジミとしたクリスマス・ムードを盛り上げる。

 休憩後はお目当ての「クリスマス・ヒストーリエ」で、コルネットの人の指揮と合図の、中間位の身振りに従っての演奏だった。でも、このアンサンブルの14名の頭数は、指揮無しで演奏するには多過ぎるし、指揮者を置くのなら少な過ぎる。中途半端な指揮では、レツィタティーヴォとトゥッティの対比は際立たず、更に強烈な明暗の対比の欲しい処だ。ただ、このホールは演奏者と聴衆との間の距離が近いので、音量の小さいのはインチメイトな雰囲気も醸して、雰囲気自体は悪くない。

 この曲は詰まる処、エヴァンゲリストのテノールと、天使のソプラノの二人の歌手の力量次第で、全体の出来も左右される。テノールの人は高音のスピントせず、頭声の伸びないのが難で、劇的なアリアは歌えそうもないが、エヴァンゲリストとしてレツィタティーヴォだけを歌っていれば、そのリリックな声は生かされる。ソプラノの人も三曲あるアリアを良く歌えて、まずは満足すべき出来栄え。単に透明なだけではなく、ほんのりとシュッツの深い色合いも付いて、クリスマス・ムードを盛り上げてくれた。

 でも、アルトとバスの二人に、声量の無いのは困り物。取り分けバスの人には単独のアリアがあり、これが声の小さい上に低音も響かず、殆んど聴き取れない程。東方博士のトリオの歌は、男声がコルネットの人とバスの人しか居らず、サックバットを吹いていた内の一人が楽器を置いて歌い出す、実に手作り感に溢れる展開。大学グリークラブには吹奏楽からの転向組も多いが、管楽器の経験者は息の使い方を知っているので、歌の上達も早い傾向はある。サックバットの人もソコソコ歌えていたが、これも相対的な問題なので、今日の非力な専門歌手陣となら互角だったとも云えそうだ。

 とにかく全体的に音量の小さく、フォルテとピアニシモの明確な対比の無いのは辛い。でも、コルネットの人は吹いている時以外は指揮して、曲の最後では少し盛り上げて見せてくれたし、奏者全員がシュッツの音楽を把握している様子のあり、クリスマス・ムードは盛り上がった事で、僕としては了解したい。ただ、声楽陣は余りにも非力で、関西にも他に人材は居る筈だし、今後のテコ入れを要望して置く。

 昔、まだ僕の若い頃、所属していた合唱団の副指揮者が、シュッツをやりたいと頻りに騒ぐので、一体シュッツて何者やねん?と尋ねてみると、一度クリスマス・オラトリオを聴いてみろと勧められた。おまえにエヴァンゲリスト歌わせてやるから、と彼は僕を唆すのだ。その話を演奏会の打ち上げ二次会で同席した、関西在住の某有名エヴァンゲリスト歌手にすると、だから素人は困るんや、と言われてしまった。今日は酔いの回りが早いぞ、とかも言われた。僕の若気の至りのお粗末でした。
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J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」BWV.232

2011-12-10 | ピリオド
2011年12月10日(土)15:00/兵庫県立芸術文化センター

指揮/ヨス・ファン・フェルトホーヴェン
ソプラノ/ドロテー・ミールズ/ヨハネッティ・ゾマー
アルト/マルゴット・オイツィンガー
テノール/チャールズ・ダニエルズ
バス/ピーター・ハーヴェイ
オランダ・バッハ協会合唱団&管弦楽団


 僕は名前も知らなかったネーデルランド・バッハ・ソサイェティーだが、初来日の際の「ヨハネ受難曲」も好評を博した、日本でも人気の古楽アンサンブルらしい。創設は前世紀の21年、フェルトホーヴェン音楽監督の就任も30年前で、片田舎の教会を本拠地に地道な活動を続ける、結構な老舗である。それが何故、今世紀になって突然ブレイクしたのかと云えば、それは矢張りCDのリリースが理由だ。国内でのみ知られていた団体が、録音発売により国外でも名前を知られ、世界ツアーを行うに至る。何だか今時は、そんな話ばかりのような気もする。

 予備知識を仕入れず出向いたので、開演前の舞台に置かれた椅子を数え、これは小じんまりしたアンサンブルと初めて知った次第。声楽陣はソリストが五名にコーラスは十名、オケは弦と管の11名づつにティンパニー、鍵盤はチェンバロとポジティーフ・オルガンの編成。二千人収容の大ホールに総勢40名では、広い舞台が余計に広く感じられ、如何にも小編成の趣となる。小編成のロ短調ミサと云えば、自ずと思い出されるのはリフキン大先生のOVPP(One Voice Per Part 各声部一人)理論だが、オランダ・バッハ協会の指揮者も独特な見解をお持ちのようで、今日は自分の聴き慣れたモノとは、随分と異なるスタイルの演奏だった。

 ソリストも加わって実質15名による合唱。冒頭のキリエ・エレイソンから、指揮者は流麗なレガートによる、圭角の取れたスタイルを志向していると感じる。それは曲のポリフォニックな構造を明らかにする、あくまで透明な音色による演奏で、とにかくコーラスの各声部を良く聴き取れる。中間部のクリステ・エレイソンのソプラノ・デュエット。透明な声質のミールズと深い声のゾマーのコンビは、二人共に徹底したメッサ・ディ・ヴォーチェで、やはり曲のテクスチャーを明らかにしようとする。

 続くグローリア冒頭のコーラスは、15名のトゥッティと五名のソリが交互に歌い出し、僕はあれれ?と驚かされるが、これは音楽に変化を付け、徐々に盛り上げる為の手段と感じる。今日の指揮者の言によると、声楽と楽器は共にソロ奏者を基本とし、これを随時にリピエニスト(総奏要員)が補強するスタイルには、ドイツの長い伝統の裏付けのあるそうな。バッハと同時代の演奏習慣では、ソロとトゥッティの交代は自明の事柄で、それはカペルマイスター辺りの指示により、適宜に行われるものなそうな。ははぁ…これってOVPPの進化形理論なんすかね?

 まず、ソリストによるアリアの演奏形態に付いて、第6曲のラウダムス・テでコンマスは椅子から立ち上がり、ミールズと二人並んで演奏する事で、この曲は謂わばソプラノとヴァイオリンのデュエットと、見た目からも認識させられる。ミールズのメリスマの技術も、超絶的なレヴェルにあった。この調子で第10曲のクイ・セーデス・アド・デクセラムでは、ソプラノのゾマーとオーボエが、第11曲のオーニアム・トゥ・ソールスでは、バスのハーヴェイとホルンが、それぞれデュエットとして聴かせてくれる。ゾマーは深いけれども軽い声質で、均質な音色のあるメゾ・ソプラノ。ハーヴェイは几帳面にメリスマを歌う、生真面目なバスだが、Sの無声音の強調は遣り過ぎとも感じられる。

 でも、第19曲のアリア、エト・イン・スピリトゥムは、謂わば二本のオーボエとのトリオで、ハーヴェイは美声を聴かせてくれる。第8曲のソプラノとテノールのデュエットも、二本のフルートとのカルテットで、歌手の声との掛け合いに、木製楽器の柔らかい音色が生かされる。ただ、第24曲のベネディクトゥスで、フルートとデュエットを組む、テノールのダニエルズが一本調子で、高音部をファルセットに逃げるのも聴き辛い。

 次は合唱曲の扱いに付いて、第7曲のグラツィアス・アジムスはトッティによる演奏で、全く力まない透明なフォルテが美しい。第9曲のクイ・トーリス・ペッカータ・ムンディは、ミールズを除いた四人のアンサンブル。グローリアの掉尾を飾る、第12曲のクム・サンクト・スピリトゥスは、速目のテンポで軽やかに盛り上げ締め括る、とても祝祭的な演奏。この曲の冒頭のテノール・パートは、余りにもお馴染みの旋律だが、これをソロで歌い出したのには、やはり驚かされる。クレド冒頭の第13曲もダニエルズのテノール・ソロで始まるが、そのノン・ヴィブラートで突っ張り、フォルテで硬くなる声が気になる。やはりソリスト五人によるアンサンブルだが、次の第14曲のパートレム・オムニポテンテムをトゥッティで畳み掛け、二曲に対照を付けていた。

 第16曲のエト・イン・カルナートゥスが最初からトゥッティなのは、瞑想的な曲想のピアニシモを、分厚く聴かせる作戦と見た。続く第17曲、クルチフィークスのポリフォニックな構造を、ソリスト達が低音域のピアニシモで聴かせると、そこから第18曲のエト・レズレーシットへと、トゥッティで華やかに雪崩れ込む。この三曲の対比の効果を、指揮者はキチンと計算して外さない。

 第20曲のコンフィテールもトゥッティで始め、その後にソリストの五人に移り、また15人のトゥッティに戻る等、アンサンブルとコーラスはクルクルと目まぐるしく交替する。こうしてクレド全曲を、軽く明るくリズミカルに締め括ると、第22曲のサンクトゥスでも、カウンター・テノールを含む六人のアンサンブルを挟み、とにかく明るく盛り上げる。第23曲のオザンナ・イン・エクセルシスに至っても、やはりソリとコーラスが交代しながら、ひたすらに軽く明るい演奏は続く。ここまで聴いて来て、どうやらメリスマでフレーズを伸ばす部分はソリ、短い音節で言い切る部分はコーラス、と云う傾向はあるように感じる。

 山あり谷ありの末、いよいよロ短調ミサも大詰め、第26曲のアニュス・デイを迎える。だが、一応それなりに盛り上がってはいても、ここまで漸く辿り着いたのだなぁ、と云う感慨は今ひとつ湧いて来ない。そもそもアニュス・デイは暗い曲の筈だが、妙にネアカで表面的な演奏に聴こえる。つまりはデュナーミクの彫りの浅いのと、リズムに軽重の使い分けの無いので、音楽は常に明るく感じられる。全体的に速目のテンポで、歌手は絶叫など一切せず、表情の一定で音色も変わらない。軽いリズムで明朗快活一辺倒、終始一貫して透明でレガートな演奏では、やはり飽きの来てしまう。暗い音色や重いリズムも無いと、ロ短調の峻険は表現出来ないと思う。

 何事にも薄味の流行る世相を背景に、こんなヒーリング・ミュージックみたいなバッハ演奏も持て囃されるのだろう。だが、リヒターは古臭いとか、古楽のトレンドはとか云う以前に、指揮者には楽譜の意図を読み取り、表現する責務があると考える。それはスタイルの新旧の問題ではなく、ひとつ一つの音に含まれる軽重と明暗を、指揮者が測れているか否かだ。その意味で今日の演奏を、僕は一度聴けば充分と感じる。少なくとも、この指揮者の演奏を聴く機会を、今後も積極的に作りたいとは思っていない。
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