-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

又五郎とは

2017-08-13 16:37:21 | 自然

 畑沢には、人名に因ると思われる地名が残されています。これまで地名「小三郎」「平三朗」を取り上げたことがあります。これらは、何れも「背中炙り峠の楯」に接した場所にありますので、楯の守りに関わった野辺沢家の家臣の名前と思われます。今回、取り上げる「又五郎」は、楯とは接していませんが、かなり近接した位置にあります。

 千鳥川を遡って人家がなくなってから300mほど上流で二つの流れに分かれます。西の流れは楯の直下を流れており、大平山の真木山とカツラパから集水しています。もう一方の流れは、大平山の宝沢山から流れて来ます。この宝沢山の方に今回の「又五郎」なる場所があります。

 ところで又五郎については、畑沢に全く伝説が残されていません。畑沢のどなたに聞いても御存じになくて、ただ「なしてだべねえ」の言葉が返ってきます。それでも、楯があった時代のことを考えて、文化的素養のない頭脳を使ってみました。背中炙り峠の楯は、戦国時代に最も使用されたという前提での推察です。この時代には、今の延沢に野辺沢城がありまして、初代城主が野辺沢薩摩守、次の城主は野辺沢能登守でした。三代目の城主は野辺沢遠江守ですが、まだ若かったころは「又五郎」と呼ばれていました。ここで単純な頭脳は停止します。畑沢の「又五郎」は野辺沢遠江守の若い時の名前に因んだものかもしれません。いつものように裏付けは全くありません。しかし、野辺沢又五郎と言われていた時代、野辺沢家は背中炙り峠を越えて何度も南へ出陣していました。最初は「最上八楯」の一員として最上義光と戦い、次に最上義光の配下になった時は天童城を攻略しました。慶長出羽合戦では上杉勢を迎え撃つために、山形方面で奮闘しましました。そのたびに背中炙り峠を越えていたはずです。峠の楯は重要な最前線基地でした。野辺沢家の筆頭家老の息子と思われる小三郎も、楯の入り口にその名を地名として残されています。又五郎も戦闘の前面には立たなかったでしょうが、大将格として後ろに控えていたと考えてみました。又五郎という場所は楯の後方にありますので、そうすると実に私の素人推察にぴったりではないですか。これだから、素人には歴史を語らせたくないと思った方がおられると思いますが、面白いとお思いでしょう。

 さて、いよいよ現場を案内します。実際に現場へ行ったのはもう三か月も前の五月上旬です。又五郎は宝沢にあり、畑沢の簡易水道の管理小屋があります。この辺りからが又五郎だと教えられています。周囲は極めて緩やかな斜面だけで、周囲は適度に成長した杉の共有林です。


 管理小屋の裏側です。雪や風などで倒れた杉を片付けた切り株が見えます。

 


 杉林の中を清流が流れています。なだらかな斜面に一条の深い谷が掘りこまれた中の流れです。その狭い谷の外側は急流を取り囲む場所とは思えないなだらかさがあります。不思議な地形です。


 川の近くに作業道路を作るために、削られた土手が見えました。土手の中に見える石は、どれも角ばっています。川の流れで運ばれた石ではありません。普通、これほどのなだらかな地形ならば、水の働きで堆積した土砂で形作られたものと考えられますが、そうではないようです。石を調べますと、「立石石(たてす石)」と言われている硬い流紋岩です。大平山と立石山の上層部を覆っているものです。宝沢という沢が形作らた後の時代に、大平山と立石山の上層部が大規模に崩れ落ちて沢を埋め尽くして緩やかな斜面を形成したことになります。これほど大規模な土砂崩れとは、どんな天変地異があったのでしょう。


 ずっと奥にも作業道が続いていました。奥にも杉林がひろがっています。さらに奥の宝沢山の山腹には、他の樹々よりも早くブナの新緑が見えます。ブナ林はかなり広大です。

 ん、自然観察ではなくて、歴史的な調査だったはずです。結局、歴史的な証拠は全く見つかりませんでした。もしも、楯などの遺跡であれば、曲輪、堀切、、土塁、切岸などがあるのでしょうが、ここにはそれらしきものが見つかりませんでした。とすると、「又五郎」とはなんでしょう。謎は深まりました。

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