-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠越えの県道(現道)の造成工事について

2013-08-15 12:50:53 | 歴史

 背炙り峠を越える現在の道路は、古代から続いた古道とは全く別なルートで造られています。古道は、最も緩やかな傾斜の尾根伝いに造られていました。これは他の古道と共通するところです。そのため、峠は標高が高い位置になっています。それに対して、新しく作られた現在の道路は、最も標高が低い所を峠となるようなルートが選ばれています。当然、新道と古道の峠は離れてしまいました。

 新しい道路については、三宅太一郎氏の「村落の歴史 延沢そして三日町」と荒町のはずれにある石碑に記録がありました。まず、前者の三宅氏の著書には次のように書かれています。

明治十八年(1885) 背炙り峠に新道を開削

明治三十年(1902) 凶作、六月より十月までウンカ大発生、背炙り峠改修

大正 二年(1913) 凶作……

昭和 五年(1930) 背炙り峠新道を車通行可能に改修

昭和 九年(1934) 凶作……

昭和十一年(1936) 大雪……

 この著書とは別に畑沢で古瀬T氏に新道のことをお聞きしたことがあります。その話は次のとおりです。

○ 大正時代に自動車が通れるように改修された。

○ 昭和8、9年は凶作だったので、救済事業として背炙り新道の拡幅工事が行われた。その結果荷車が通れるようになった。

 三宅氏の著書と古瀬氏の話からは、「背炙り新道は、凶作のたびに何回も改修工事が行われていた」ことが想像できます。

 

 上の記念碑には、明治30年に改修工事が行われたことと、その工事においての功績について、それを記念するために明治35年になってから建てられたと書かれています。

 ここで、私のいつもの癖であります脇道に反らせていただきます。この碑文を読んでいる途中で、違和感というかいやな気分になりました。これまで取り上げてきた畑沢の石仏を見ている時は、村人の「素朴さ」と「生活へのひたむきさ」が感じられました。ところが、この石碑からはそれが全く感じられません。確かに石仏とは異なり記念碑なので目的は違います。また、大きな改修工事だったのかもしれません。しかし、官位をこれ見よがしに出して中央集権国家の威厳をちらつかせ、お金を出した富者の功績を美辞麗句を並べ立てた奢り高ぶった姿が見えてしまいます。単に修復だったのにもかかわらず、まるで初めて道路を造ったかのような表現でもあります。そんな内容とはつゆ知らず、私の小学校一年生時代は、ここで仲良し4人組が昼飯を食べた懐かしい思い出があります。小学校へ入ってもしばらくの間は、昼前に授業が終わりました。しかし、畑沢は学校から遠いので、弁当を持って行かなければなりません。私たちの弁当は、焼き味噌おにぎりだったと思います。おにぎり二個を風呂敷で巻いて、腰にベルト状に結わえるか、肩にハスに結わえました。持ち物はそれだけです。海苔が付いたおにぎりは修学旅行だけです。学校からの帰り道、この記念碑の場所でお腹が空いてきます。この記念碑の裏側だと道から見えませんし、座るに丁度良い台にもなっています。おにぎりは大変美味しいものでした。水を持って行きませんでしたが、喉が渇けば途中の湧き水かどこかのお宅にお邪魔して水を飲みました。あの時の仲良し4人組のうち1人は既に亡くなり、他の二人も遠くに住んでいます。そんな大事な思い出を秘めている記念碑ですが、権威主義的なものが嫌いなスビタレはとてもこの記念碑を好きになれません。

 さて、脇道から本道に戻ります。昭和55年に発行した袖崎郷土史研究会が発行した「袖崎の郷土誌」には、

「…昭和九年ごろ楯岡町からこの峠を通り畑沢、延沢に定期バスが運行したときもあった。然し悪路と乗客が少なかったため、間もなく運行中止になってしまった。それから長い間この峠でバスを見ることもなく…」

と記述されています。本当に昔、バスが通っていたかどうかについては、畑沢でも確認できませんでした。


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