知熱が眠気を吹っ飛ばすので、思い切ってこれから
「人間の未熟(ねつ造された完成図)」
っていう。みょうなタイトルですが、これにトライしてみます。
まあ、私が最近考えていることを書いてみようという、ただそれだけなんですけど。
タイトルの意味なのですが
日本においての「社会人としての完成モデル」ってあるじゃないですか。
よく社会人なんだから
とか
社会人としてのモラルを
とか言いますよね。その「社会人」の定義って何?っていう疑問があり。
これから書く事は社会批判でも社会人擁護でもありません。
<「社会人」と「会社人」>の区別がつかなくなってしまって「人間の未熟さをあまり許してはくれそうにない、人間の理想像」
に日本人は苦しめられてんじゃないかなと思うので、そのことについて書いてみようと思います。
ということでテレビ番組なみの
「人間の未熟(ねつ造された完成図)」
というタイトルなのでした。
ではではさっそくですが先日、私がある方に送ったメールの文面を
固有名詞にモザイクして転載してみます。
この転載の意図は、私がこのメールの中で触れている教育問題がこれから挑むテーマに
繋がると考えたからです。
「A様
本日はお休みのところわざわざご足労願いまして
こちらこそどうも有難う御座いました。
それから、貴重な展覧会のチケットを有難う御座います。
佐伯祐三も久しぶりに観ることができるので楽しみにしていますし、
金山平三という作家は名前しか存じませんでしたが、兵庫県立美術館で催される展示ですし
楽しみです。
それだけではなく、あの美術館は若かりし私の思い出の場所でもあります。
自分の感覚に忠実になることで繋がっていく点と点が、安藤忠雄建築に重なったことにおきましても
今回のA様ならびにBさん、そしてCとの出会いが
関西での私の生活のひとつの起点になるのではないかと思えてなりません。
3.11以降、無学だった自分に猛省し、日本社会について考える中で
教育問題が最重要課題であると考えます。
教鞭をとられているA様には教育に関して一度お話をお伺いできたらと思いました。
我々の近代は優秀な人間を輩出すると同時にまったく何を考えているのかが推測できない
ある種の「変人」を切り捨ててきたようです。
ある確立にしたがってロジカルに正しい選択をする人間を優秀な存在として優遇する教育は
その優秀モデルに従い学生を育てているのかもしれません。
だとすれば、もし今回の震災のように確立を逸脱した事象が起こった場合、我々の社会が生み出して来た
優秀な人々では太刀打ちできなかった。
それが今回の人災と呼ばれる原発事故の対応だったと思います。
さて、前フリが長かったのですがようやくここでBさんの登場です。
本日お聞きしたB像は上記の点においての「変人」であったと感覚しました。
”なぜこのような人物からあのような作品が生まれるのかわからない”
そのことは私には大変腑に落ちるものでありました。
芸術家として持ち合わせていなければならないインテリジェンスというものは
もしかすると優秀を求める近代の我々の固定観念なのかもしれないと思いました。
私が芸術家の必要性を強く意識したのは自分の趣味だけではなく、
この国家における「変人」の重要性の認識によるものでした。
人には想定できない行動や人間性のギャップを持つ人は、偶像としての優秀に導かれ”想定外”の事象により
破滅を迎える日本を救ってくれるかもしれないと考えます。
本日のA様のお話は、作品のみでも充分完結していたBさんへの興味が彼の人間そのものにも広がるものでした。大変面白く拝聴しました。どうも有難う御座いました。
今後ともお付き合い、よろしくお願い申し上げます。」
というものです。
想定外の人に対する「違和感」を芸術に精通し教育者として学生に教える立場でもあるA先生にとっても
払拭できていないことに、日本に存在する固定観念は根深いなと感じました。
それがどうも「社会人」と「会社人」の混同から来ているんじゃないのかなと。
ふっと繋がった。
と言っても、それを書くにはまったく勉強が足りていないので思考の視点を鍛えるためにマルクスにトライしているんですが
そのマルクスの言葉の中に興味のある言葉があったんです。
「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である」
「民衆の幻想的幸福としての宗教を破棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。
宗教の批判は、したがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる」
石川康宏さんの解説では、この言葉はフォイエルバッハっていう人の
「宗教が人間を作ったのではない、人間が宗教を作ったのだ」に起因するらしいのですが
私は上のマルクスの言葉を現在の日本に置き換えて次のように解釈してみました。
「社会人の優秀なモデルとは、宗教が人間の規範として定着しなくなった日本においての<宗教>である。
しかし、道徳とか儒教とかそういうのんは何かわかりにくくて説明しにくいからさ。実際的には会社で成功している人を
モデルにしようよ。それは会社人倫理においてのことだと思うんだけど、まあこのさいこれは社会人に適用しちゃってさ。
それを宗教的な人間存在の空想的な実現モデルにしようぜ」
みたいになったと。ほいでそれは違うんではないかと思った私は
「民衆の幻想的幸福としての<優秀モデル>を破棄しなくちゃ、僕たちの現実的幸福は実現せえへんやないですか。
社会の規範とするべきは会社の利益になるためにはウソをつくことも致し方無しをまるで主君に忠誠をつくす武士道の美談に
すりかえて肯定するような<雰囲気>じゃあ駄目でしょう?これがまかり通る社会って社会人っておかしいよね?
それ、むしろアンチ社会でしょ。だから、本来規範とすべきものは何なのかを探求しなくちゃいけないなって僕は思うのです。
それこそが<社会人>を後光とする<ビジネスマインド・ネオジャポン>への批判であって、けっして会社で一所懸命働く人を
批判しているわけではないんです。<何を規範とするのかを考えよう>ということですよー!!」
と。
そう解釈しました。
マルクスも書いていますが、人間は非現実的なものによって存在を実現させる自己統治を必要とするほどに
<未熟>なんだと思います。
けれど現在日本では、人生の早い段階でビジネスマインドに従った人間モデルによって<未熟>を蹂躙させようとする。
未熟を根こそぎ取り払って更地にしてアスファルトでカチンカチンに固めて
「よし、これで君も一人前に社会に出て、会社の為の人間になれること間違いなし!」
で背中を押されるもんだから、あ、俺(私)ってこれで良かったのかな。頑張ろう!
とかになってまい。
なのかなあ。
私は家庭の事情で幸か不幸かしょっぱなにレールから外れた人生を送ったので、こんな分析に時間を浪費することを良しとするんですが
普通のサラリーマンだとこんなこと考える余裕がない。余裕を与えられない。のかな。
休日は休日で<社会人の規範>としてバーベキューをしたりゴルフをしたりしなくちゃいけないような気がします。
眠たくなってきた。
もうちょい頑張ります。
で
会社人って私はよくわからないんですが、とりあえず失敗は基本だめなんでしょうか?
私のまわりでも多いんですが、失敗を認めなかったり、認めても謝らないのはビジネスマインドなのかなと感じます。
問題が起こったときに、その問題の原因を追求せずにまったく別の視点でもって精神論で解決しようとする人もいました。
「私は私の欲求に従って必要と思ったので行動をした。その行動が間違っていたとしてもそれは仕方がない」
ということで、それを認めて欲しいということのようなのですが
ただ一言、「ごめんなさい」でいいじゃないのかなあ。
確かにビジネスでは「ごめんなさい」ではどうしようもないのかもしれませんが、
何の取引き関係にもない間柄なら謝ってもいいじゃないですか。
<規範>とするものがズレているんです。
なんとかまとまりたいので私の言いたいことをここで書きます。
それは、「こうでなければいけない」から自分を解放したいなと。
でも、ここでの「こうでなければいけない」というのは解釈が難しいんですが
私の懐中における解放とは「幸福の固定観念」からの解放です。
先の転載メールにも書きましたが、
「優れた美術作品を生み出す作家は作家としてのある種のインテリジェンスを持たなければいけない」
を解放する。
八百屋の主人が教育とは何かを熱心に考え、通信制の大学に通うということも有りなはずで。
「退職したら海の見える場所に家を建てて家庭菜園して暮らそうよ」みたいなのってパンフレットに乗ってるよ〜
それってご自身で本当に幸福だと思っておられるんですか?
って。ぜんぜん解放されてないなあと。
社会人として華々しく活躍されていて、お酒や時計のブランドに精通し連休には旅行する。
みたいなことも。はたしてご自分で希望されていることなんでしょうか。
自分には求める世界がある。それはお金とは無縁の世界だから清貧でも構わない。自分の道を追求するのさ。っていうのも
「そのような作家的生き方」の模倣でしかないんではないでしょうか。
つまり、人は常に、なにか模範とする対象が必要なのだと。
あ
そうこれ、これが言いたかったのか!つまり「アイデンティティーを他者に委ねている」こと。
それを理解し、受け止める、だからこそ<規範とは何かを追求する姿勢>が求められる。
のか。
わかりはじめました。どう書こうか。
これはどうでしょう
「自分に自分があって当然」
という思考が前提にあった上で壁にぶつかってしまった時、自分を許すことがなかなかできない。
でも人間は自分の存在それ自体を自分のみによって形成しているわけはないから
「自分には自分がなくても自分は成り立つ」
ことは明白である。(たぶん)ただ、現在の日本は自分における「自分率」「完成度率」を高く設定している。
それは宗教的規範の日本版として採用している<ビジネスマインド>において規範となるモデルが
<会社で活躍できる人>に設定しているためである。
(言い切ってしまって申し訳ありません。勉強不足のくせにと思われる方、当然です。が、どうぞ許して下さい。なんとかしないと寝れないので割愛かつ、愛で。ご容赦願います。)
それがために「自分はこうでなければならない的雰囲気」の中で、固定観念のもと価値観を決定させられる。
その枠内に本来おさめることができないはずなのに。
それが日本での「生き辛さ」なんじゃないか。
そう、これ。
こういうことが書きたかったのか。と
書いてみて発見。
こんな文章、私には楽しかったですが読む人いないんじゃないかしら。
最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。
そして、「知りたい」という気持ちに応えてやる行為は、本当に素晴らしい人間に与えられた能力だなあ。
なんて思います。
ミュージシャンの方にもおすすめします。私の音楽、すごく面白いことになっているのは
音楽とはまったく無縁のことだけれど知りたい欲求に従って思考する時間がとても影響しています。
それが音楽的にいいのかわるいのかは、後日実際に聴いていただけると思うのでそのときの判断となるのですが。
ミュージシャンがミュージックに精通していなくてはいけない
からも解放してさ。
ミュージシャンが経済に詳しくても、野菜を作っても、草野球に没入しても
いいんですよね。
最後になりましたが、写真は兵庫県立美術館の内部です。たぶん写真OKだったと思うんです。
この写真とBGMのバッハとマルクスとのコンビネイションは、そうとう現実離れしておりました。
ではまた。おやすみなさい。

















