(*〜*)

バッハのフーガを聴きながら

2012-05-27 | i

知熱が眠気を吹っ飛ばすので、思い切ってこれから
「人間の未熟(ねつ造された完成図)」
っていう。みょうなタイトルですが、これにトライしてみます。

まあ、私が最近考えていることを書いてみようという、ただそれだけなんですけど。
タイトルの意味なのですが
日本においての「社会人としての完成モデル」ってあるじゃないですか。
よく社会人なんだから
とか
社会人としてのモラルを
とか言いますよね。その「社会人」の定義って何?っていう疑問があり。
これから書く事は社会批判でも社会人擁護でもありません。
<「社会人」と「会社人」>の区別がつかなくなってしまって「人間の未熟さをあまり許してはくれそうにない、人間の理想像」
に日本人は苦しめられてんじゃないかなと思うので、そのことについて書いてみようと思います。
ということでテレビ番組なみの

「人間の未熟(ねつ造された完成図)」

というタイトルなのでした。
ではではさっそくですが先日、私がある方に送ったメールの文面を
固有名詞にモザイクして転載してみます。
この転載の意図は、私がこのメールの中で触れている教育問題がこれから挑むテーマに
繋がると考えたからです。


「A様

本日はお休みのところわざわざご足労願いまして
こちらこそどうも有難う御座いました。
それから、貴重な展覧会のチケットを有難う御座います。
佐伯祐三も久しぶりに観ることができるので楽しみにしていますし、
金山平三という作家は名前しか存じませんでしたが、兵庫県立美術館で催される展示ですし
楽しみです。
それだけではなく、あの美術館は若かりし私の思い出の場所でもあります。
自分の感覚に忠実になることで繋がっていく点と点が、安藤忠雄建築に重なったことにおきましても
今回のA様ならびにBさん、そしてCとの出会いが
関西での私の生活のひとつの起点になるのではないかと思えてなりません。

3.11以降、無学だった自分に猛省し、日本社会について考える中で
教育問題が最重要課題であると考えます。
教鞭をとられているA様には教育に関して一度お話をお伺いできたらと思いました。
我々の近代は優秀な人間を輩出すると同時にまったく何を考えているのかが推測できない
ある種の「変人」を切り捨ててきたようです。
ある確立にしたがってロジカルに正しい選択をする人間を優秀な存在として優遇する教育は
その優秀モデルに従い学生を育てているのかもしれません。
だとすれば、もし今回の震災のように確立を逸脱した事象が起こった場合、我々の社会が生み出して来た
優秀な人々では太刀打ちできなかった。
それが今回の人災と呼ばれる原発事故の対応だったと思います。

さて、前フリが長かったのですがようやくここでBさんの登場です。
本日お聞きしたB像は上記の点においての「変人」であったと感覚しました。
”なぜこのような人物からあのような作品が生まれるのかわからない”
そのことは私には大変腑に落ちるものでありました。
芸術家として持ち合わせていなければならないインテリジェンスというものは
もしかすると優秀を求める近代の我々の固定観念なのかもしれないと思いました。
私が芸術家の必要性を強く意識したのは自分の趣味だけではなく、
この国家における「変人」の重要性の認識によるものでした。

人には想定できない行動や人間性のギャップを持つ人は、偶像としての優秀に導かれ”想定外”の事象により
破滅を迎える日本を救ってくれるかもしれないと考えます。

本日のA様のお話は、作品のみでも充分完結していたBさんへの興味が彼の人間そのものにも広がるものでした。大変面白く拝聴しました。どうも有難う御座いました。
今後ともお付き合い、よろしくお願い申し上げます。」



というものです。
想定外の人に対する「違和感」を芸術に精通し教育者として学生に教える立場でもあるA先生にとっても
払拭できていないことに、日本に存在する固定観念は根深いなと感じました。
それがどうも「社会人」と「会社人」の混同から来ているんじゃないのかなと。
ふっと繋がった。
と言っても、それを書くにはまったく勉強が足りていないので思考の視点を鍛えるためにマルクスにトライしているんですが
そのマルクスの言葉の中に興味のある言葉があったんです。

「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である」
「民衆の幻想的幸福としての宗教を破棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。
宗教の批判は、したがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる」

石川康宏さんの解説では、この言葉はフォイエルバッハっていう人の
「宗教が人間を作ったのではない、人間が宗教を作ったのだ」に起因するらしいのですが
私は上のマルクスの言葉を現在の日本に置き換えて次のように解釈してみました。

「社会人の優秀なモデルとは、宗教が人間の規範として定着しなくなった日本においての<宗教>である。
しかし、道徳とか儒教とかそういうのんは何かわかりにくくて説明しにくいからさ。実際的には会社で成功している人を
モデルにしようよ。それは会社人倫理においてのことだと思うんだけど、まあこのさいこれは社会人に適用しちゃってさ。
それを宗教的な人間存在の空想的な実現モデルにしようぜ」
みたいになったと。ほいでそれは違うんではないかと思った私は
「民衆の幻想的幸福としての<優秀モデル>を破棄しなくちゃ、僕たちの現実的幸福は実現せえへんやないですか。
社会の規範とするべきは会社の利益になるためにはウソをつくことも致し方無しをまるで主君に忠誠をつくす武士道の美談に
すりかえて肯定するような<雰囲気>じゃあ駄目でしょう?これがまかり通る社会って社会人っておかしいよね?
それ、むしろアンチ社会でしょ。だから、本来規範とすべきものは何なのかを探求しなくちゃいけないなって僕は思うのです。
それこそが<社会人>を後光とする<ビジネスマインド・ネオジャポン>への批判であって、けっして会社で一所懸命働く人を
批判しているわけではないんです。<何を規範とするのかを考えよう>ということですよー!!」
と。
そう解釈しました。
マルクスも書いていますが、人間は非現実的なものによって存在を実現させる自己統治を必要とするほどに
<未熟>なんだと思います。
けれど現在日本では、人生の早い段階でビジネスマインドに従った人間モデルによって<未熟>を蹂躙させようとする。
未熟を根こそぎ取り払って更地にしてアスファルトでカチンカチンに固めて
「よし、これで君も一人前に社会に出て、会社の為の人間になれること間違いなし!」
で背中を押されるもんだから、あ、俺(私)ってこれで良かったのかな。頑張ろう!
とかになってまい。
なのかなあ。
私は家庭の事情で幸か不幸かしょっぱなにレールから外れた人生を送ったので、こんな分析に時間を浪費することを良しとするんですが
普通のサラリーマンだとこんなこと考える余裕がない。余裕を与えられない。のかな。
休日は休日で<社会人の規範>としてバーベキューをしたりゴルフをしたりしなくちゃいけないような気がします。

眠たくなってきた。
もうちょい頑張ります。

会社人って私はよくわからないんですが、とりあえず失敗は基本だめなんでしょうか?
私のまわりでも多いんですが、失敗を認めなかったり、認めても謝らないのはビジネスマインドなのかなと感じます。
問題が起こったときに、その問題の原因を追求せずにまったく別の視点でもって精神論で解決しようとする人もいました。
「私は私の欲求に従って必要と思ったので行動をした。その行動が間違っていたとしてもそれは仕方がない」
ということで、それを認めて欲しいということのようなのですが
ただ一言、「ごめんなさい」でいいじゃないのかなあ。
確かにビジネスでは「ごめんなさい」ではどうしようもないのかもしれませんが、
何の取引き関係にもない間柄なら謝ってもいいじゃないですか。
<規範>とするものがズレているんです。


なんとかまとまりたいので私の言いたいことをここで書きます。
それは、「こうでなければいけない」から自分を解放したいなと。
でも、ここでの「こうでなければいけない」というのは解釈が難しいんですが
私の懐中における解放とは「幸福の固定観念」からの解放です。
先の転載メールにも書きましたが、
「優れた美術作品を生み出す作家は作家としてのある種のインテリジェンスを持たなければいけない」
を解放する。
八百屋の主人が教育とは何かを熱心に考え、通信制の大学に通うということも有りなはずで。
「退職したら海の見える場所に家を建てて家庭菜園して暮らそうよ」みたいなのってパンフレットに乗ってるよ〜
それってご自身で本当に幸福だと思っておられるんですか?
って。ぜんぜん解放されてないなあと。
社会人として華々しく活躍されていて、お酒や時計のブランドに精通し連休には旅行する。
みたいなことも。はたしてご自分で希望されていることなんでしょうか。
自分には求める世界がある。それはお金とは無縁の世界だから清貧でも構わない。自分の道を追求するのさ。っていうのも
「そのような作家的生き方」の模倣でしかないんではないでしょうか。
つまり、人は常に、なにか模範とする対象が必要なのだと。

そうこれ、これが言いたかったのか!つまり「アイデンティティーを他者に委ねている」こと。
それを理解し、受け止める、だからこそ<規範とは何かを追求する姿勢>が求められる。
のか。
わかりはじめました。どう書こうか。
これはどうでしょう

「自分に自分があって当然」
という思考が前提にあった上で壁にぶつかってしまった時、自分を許すことがなかなかできない。
でも人間は自分の存在それ自体を自分のみによって形成しているわけはないから
「自分には自分がなくても自分は成り立つ」
ことは明白である。(たぶん)ただ、現在の日本は自分における「自分率」「完成度率」を高く設定している。
それは宗教的規範の日本版として採用している<ビジネスマインド>において規範となるモデルが
<会社で活躍できる人>に設定しているためである。
(言い切ってしまって申し訳ありません。勉強不足のくせにと思われる方、当然です。が、どうぞ許して下さい。なんとかしないと寝れないので割愛かつ、愛で。ご容赦願います。)
それがために「自分はこうでなければならない的雰囲気」の中で、固定観念のもと価値観を決定させられる。
その枠内に本来おさめることができないはずなのに。
それが日本での「生き辛さ」なんじゃないか。



そう、これ。
こういうことが書きたかったのか。と
書いてみて発見。
こんな文章、私には楽しかったですが読む人いないんじゃないかしら。
最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。
そして、「知りたい」という気持ちに応えてやる行為は、本当に素晴らしい人間に与えられた能力だなあ。
なんて思います。
ミュージシャンの方にもおすすめします。私の音楽、すごく面白いことになっているのは
音楽とはまったく無縁のことだけれど知りたい欲求に従って思考する時間がとても影響しています。
それが音楽的にいいのかわるいのかは、後日実際に聴いていただけると思うのでそのときの判断となるのですが。

ミュージシャンがミュージックに精通していなくてはいけない

からも解放してさ。
ミュージシャンが経済に詳しくても、野菜を作っても、草野球に没入しても
いいんですよね。


最後になりましたが、写真は兵庫県立美術館の内部です。たぶん写真OKだったと思うんです。
この写真とBGMのバッハとマルクスとのコンビネイションは、そうとう現実離れしておりました。
ではまた。おやすみなさい。











火事の時、何を持って逃げますか?ー「火を。」

2012-05-24 | i

基山みゆきさんの展示にようやくたどり着きました。
2010年に制作された一連の絵は、もうこれ以上はないんじゃないか
と思うほど、尊く、圧倒されました。

絵を感覚しに行くことは
「整理整頓して混乱する」
みたいなもんだなあと思いました。

基山さんに刺激を受けて、「第0話」という曲を制作しています。
「理路整然と混乱を嗜む」ような曲にしたいと思っています。

おとといは「地球最後の夜行列車」という曲を書きました。
簡単な事は書きたくありませんが
歌が求められているものは、簡単なことかもしれないとも思っています。
過度の感情表現に繋がる言葉を選択せずに
「静かに、安らかに唐突である風景」
を書きたいと思いました。

新しい作品集が出来上がりつつあります。
私は人間として未熟だったので、常に「以前」を否定してきたようですが
「以前」を理解し、受け止める心の受け皿がなかったことが
未熟だったことに気がつきました。
なので今回は、受け止めた結果の未熟さも選曲しようと思っています。

なんでしょうかこのブログは。
まるで眠気におそわれながら書かずにはおれないのに
そんなにたいしたことは書いていない白昼の夜
って
何書いてんの?のりつっこみ。あわわ〜




写真はジャンコクトーの言葉です。
おやすみなさい。











こんばんは

2012-05-19 | i

おばんです。
いまお酒しながら読書をしていて、なぜか閃きました。
内田樹さんの「日本は本質的に儒教国だと思う」と書いておられて
お酒がはいっているのが良かったのか、ふっとなにかが腑に落ちました。

過去に還る

というのは、創始者の言葉を受け継ぐという点で「フィクション」なんだなあ。
キリストでもブッタでも、もういない。存在しない。
だからこそ絶大な力を生む。
そこまでのスーパーパワーを持たなくても
内田さんや稲盛さんは私の中で「腑に落ちる」言葉を放つ人で
キリストやブッタのように「過去」ではないために賛同できないところもあります。
例えば稲盛さんは世界の全ての国の通貨を統一することを理想として述べておられますが
これは私にはわからないことです。
けれども全体として、稲盛さんは「腑に落ちる」んです。

私は自分自身を信頼しているのだけど
なぜ自分を信じているのかがわからない。
そのロジックが「日本は本質的に儒教国だと思う」の中にありそうな閃きました。
BGMがトルコ行進曲なのが爆笑ですが
(そうか、閃き共振曲か!)
ってそんなんはええんですが、マルチェロのアダージョいいですね。
ってこれもどうでもいいんです。

私は結局のところ自分を信じているのではなく
自分が「腑に落ちる」人の言葉を信じている自分を信頼している
のだと思いました。
そしてこのロジックがつまり儒教国なのかなと。

興那覇さんが昭和時代への最近の憧憬的なメディアの流れを批判的に捉えておられたように思うのですが
アンチグローバルなこの傾向はイメージの良いとこ取りをしているので完全にフィクションなので
「あの頃は良かったね」というのは「あり得なかったねつ造の過去に未来を観る」ことで
キリストやブッタのレベルになっちゃうのかなあ。
私が私を信頼するために自分の中に内田さんや稲盛さんを造形しているのも同じことで。
それって
俺は俺なんだよ!
っていうグローバル主義とは根本的に違う。
私は私を主張する根拠をすでに他者の存在に委ねている。
信仰がないがゆえの自己を生み出すための方法。

こんなことを書くと、まるで自己否定のように思われるかもしれませんが
この思考を良しとする、内包する風土が日本にはあり
俺は俺なんだ!になったとき、日本は軍国主義に傾いた
のか
でしょうか

読書にもどりますね。おやすみなさい。大好きです。






「不寛容について」の続き

2012-05-14 | i

お昼の記事の尻切れ具合にはこの写真をもってお詫びとさせていただきます。
ちなみに本日の目的の展示は来週スタートでした。
ここ最近の緊張状態の連続が私の数字の認識を狂わせておりました。
いつになったらこの緊張から解放されるのでしょうか。
人生のターニングポイントを良い方向に持ってくることができてからの現在第一関門に奮闘中なのです。
私事はさておき。

本日お昼に書きましたブログに類似することで
オルバーマンという方がカリフォルニアでの同性愛結婚禁止の条例可決に対して
おこなったコメントを日本語に翻訳しておられる方のページを発見しましたので
リンクさせていただきます。↓
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.html

それから私の過去のブログでルイ・マル監督の「さよなら子供たち」という映画に関して書いたブログがあります。
その中にも不寛容に関して”ドイツ兵にユダヤ人の居場所を密告する老看護婦”のことを書きました。

私の書いた事とオルバーマンさんのおっしゃられている事の中に類似がある。
なんてのはおこがましいことですが、そこは百歩譲ってもらって私が勝手に思っている類似点について
書かせていただきます。
オルバーマンさんは同性愛結婚の禁止に賛成を投票した人の心理が理解できないとおっしゃります。
それは、他者がそれぞれのオリジナルの方法で幸福を求めることを、誰にとがめる権利があるのか
ということだと解釈します。
つまり
オルバーマンさんにとっては男と女が結婚して幸福を見つけることも一つの幸福の選択であるし
同性同士が結婚して幸福を希求することも一つの選択であるはずなのに
どうしてそのオリジナルの幸福論を否定することができるんですか?と。
あなた(同性結婚に反対票を投じた方たち)には彼らの結婚の可否については関与の余地がないでしょう?
つまり、無関係じゃないですか。
そのようなことをおっしゃっている。

私はルイ・マルの映画について書いたブログの中で
「(ユダヤ人を密告した)老看護婦は過度の感情の起伏もなくただ迷惑という理由で人間を殺す選択をした」
と書きました。
密告しようがしまいが、ユダヤ人の迫害は老看護婦にとって無関係じゃなかったかと。

オルバーマンさんはさらにおっしゃるには
幸福のパターンを減らしてどうするのか。幸福の解釈は幾通りあってもいいではないか。
むしろそのオリジナルの幸福パターンを多様化させる為に、異なる幸福論への寛容さが求められるし
人の幸せを疎んだり投石したりして、形骸化した自らの幸福を正当化することなんかやめて
幸福の多様性を認めて幸せな人々を増やすことに努力することのほうがよっぽどええやんか。
そしてその芽生えた幸福と手を取り合って一緒に楽しく過ごしたらええやんか
と。
途中かなり私の個人的な意見が混ざりまくって書いてしまいましたが、そのようなことをおっしゃっていると私は解釈します。
(念のため、上記のソースを確認して下さい)

そしてようやく、そして多少強引にこの一つ前のブログで書きました
「原発再稼働問題に揺れる大飯原発」の立地である、おおい町の住民に対してなされた
”不寛容なコメントに関して”に戻ります。
オルバーマンさんの指摘した同性愛結婚に反対する人たちと
私が取り上げたコメントの投稿者ならびに高評価をした方たちを結びつけるのには無理があるかもしれませんが
ただ一点

「どうしてその人間(同性愛結婚を求める人/原発が稼働しなければ生活ができない人)の立場になって考えてみようとしないのか」

”俺は正いがあいつは間違いだと”という根拠が
前者においては「だって私の宗教では認められないんだもん」であり
一方においては「原発反対やねんもん!」であることが
論理的な正当性をもたないじゃないですか。
私も原発は反対ですよ。けれど、
例えば突然野菜が人類にとって猛毒なことが判明したから八百屋の主人が営業を停止せよと言われると。
しかも再販売してもよいかどうかを現在検討中で、安全性の確認がとれたら営業再開してもいいという
どっちつかずのことを政府から言われて八百屋の主人は政府に対して、
どういうことなのかはっきり説明してくれ、そして早急に解決策を出してくれないと生活ができないじゃないか

訴えた時にその主人に対して
「自分の利益のことしか頭にない強欲な人間だ」
なんてコメントできますか?誰にそんなコメントをする権利があるんです?
ありえませんよね。
この論理的に間違った、そして心の問題としての不寛容が(あるいは無関心)日本に蔓延している気が私はします。
実のところ、私も不寛容で無関心で無勉強でした。それを本当に心から悔いている。
悔いているから、私はこの場を借りて、なにかしらの罪の償いとして言葉を紡いでいます。
オルバーマンさんのおっしゃるように、懸命に芽を出そうとする幸福を蹴散らすことはしてはいけないし
私が気になったコメントのように、本来の趣旨(反原発)とは筋違いなことに正義の鉄槌でも食らわしたかのような
間違った言葉を振りかざしてはいけない。

ハブアブレイク


あまり上手く書く事ができていませんが、このまま書きたいところまで進みます。
オルバーマンさんのこととルイ・マルのことと議題のコメントとの関連付けがかなりイマイチでしたが
どうぞ許して下さい。
最後に

「他者の立場になって考えることができない」ことが「原発の事故を招いた」

という私が私に提起したことについて話を進めます。
この考えは興那覇潤さんの「中国化する日本」から着想を得ています。
著書の中で興那覇さんは現代の日本をシステム的には「世界で最も共産主義国家」と書いておられました。
話を進める前に、私は興那覇さんの著作を引用していますが、なにせ私の理解力で正当に解釈できているかは
疑問ですから、あくまで私の個人の解釈として読んで下さい。最もよいのはオリジナルの本を読んでもらうことです。

なぜに日本はシステム的に「共産主義」かというと「会社というパーティー(政党)」に「入社(参加、同意)」しさえすれば
例えたいした能力がなくても、その他の有能な社員が稼いでくれた会社の利益により
毎月給料として決まった金額を死ぬ迄支払ってくれるからです。
ですから、社員(党員)は社会の正当性ある規範(道徳等)よりも会社の規範(党の規約)に従うのです。
それが顕著に顕われているのが天下り先などの利権を維持したいが為に原発推進を進めてきた経済産業省のような
システム的に超共産主義な役所と言えるかもしれません。(こんなことは興那覇さんは書いておられませんので注意してください)
皆さんもニュースで知っておられることですが、自国の利益よりも省の利益を重視することは
日本では珍しいことではないようです。
例え社会的に、道徳的に間違っていても会社のために月何百時間残業せよ!なんてよくある話ですよね。
そして、ある会社が下請けの会社に対して自社のライバル会社と仕事をしないように働きかけたとしてニュースになったことは
記憶に新しいことです。
けれど、自分以外の選択肢を外した上でビジネスの勝負をするという発想はおかしいですよね。
他者より優れたものを生み出すことによってビジネスでの優位を確保するというのがそもそもの正論でしょう?
原発を推進することで得られる利益のために安全性を無視してハイリスクなモンスターを稼働させるのではなく
本来なら国民に真に喜ばれるサービスをもってして利益を確保することが筋だと思います。
では、なぜ屈折した方法が咎められることなく組織の中で正当性を持つのかなんですが
つまり国家の規範よりも会社の規範に従うほうが自分にとって利益であることがまかり通っているからなんです。
だから、「他者の立場になって考える」なんてできるわけがない。
んじゃないかなあ。
あくまで全て私の憶測でしかありませんし、終身雇用なんてもはや神話になろうとしている昨今ですからこの共産主義態勢も
終焉を迎えるのかなとは思うんですが。
そしてもちろん、正々堂々とビジネスをしておられる会社がほとんどだと思いますから。(希望)
けれども、もし上記の憶測の企業が実在し、かつ原発関連の業者であったならば
「他者の立場になって考えることができない」という行動指針でなされたシステムがエラーをおこし
事故を誘発することは、想像できないことではないと私は思います。

もっと上手く書けたらいいんですが、今日のところはここまでが私の限界です。
不寛容が日本の問題におけるキーワードだとは確信しているんですが、言葉におこすのが難しいです。
今晩はこれにて失礼致します。
このような素人の無学な文章を最後まで読んで下さった方がおられましたら、内容の空虚さに対するお詫びとともに
お礼申し上げます。
ではまた。










不寛容について

2012-05-13 | i

「おおい町住民説明会」の音声動画を聞きました。
ソースは以下のURLです。

1→http://youtu.be/6oMF0RGREoM
2→http://youtu.be/61_xiYUIxdo

再稼働をめぐる福井県の大飯原発問題に関してのブログではなく
上の動画に対してなされていたコメントに関して思ったことを書きます。

住民説明会は政府が、おおい町の住民に原発再稼働に向けての安全性の説明後
住民からの質問・要望に答えるというものでした。
原発は住民の生活をささえる重要な糧であり、稼働しなけれは生活ができない方が
割合はわかりませんが大勢おられます。
ですから、政府への住民からの意見の多くは
「稼働してくれなければ生活ができないからなんとかしろ」
というものだと私は解釈しました。
私はその点に関して今回、何かを書きたいわけではありません。
上記したおおい町住民の反応に対して投稿されたユーチューブのコメントに対して書きたいのです。
そのコメントがどういうものであったかというと上のURLを見ていただくのが一番よいのですが

「おおい町の住民は原発マネーで正確な判断ができない人達である。自分さえよければ
自分の生活さえ守れればいいと思っている。福島の事故やそれに伴う国民の原発に対する反感への配慮が
欠けている。まったくけしからん!」

みたいなものです。わりとやわらかい言葉使いに直しました。
このコメントに対して高評価をしておれる方も数人おられました。
私は、このコメントとそのコメントを評価されている方がいることこそが、
現在日本がかかえている問題の縮図だと考えます。
このコメントが何を言いたいかというとつまりは

「俺はこう思うけど、おまえは違うことを思っている。それが理解できない」

ということなのではないでしょうか。
政府を批判するのならまだ理解ができます。それは歴史的な背景からそう思うのですが
日本の近代は東京一極集中型の経済発展をし、地方を切り捨ててきました。
過疎がすすみインフラも整備されずに取り残された地域を狙って、政府は原発を立地してきました。
戦後日本が経済成長の中、危機管理能力を欠損させていった過程同様に
戦略的に流入されつづけた交付金によってもはや原発に依存せざるおえなくさせられた
それが現在の原発立地地域であると思います。
根本のところの原因は政治にあります。
しかしながら、そのような歴史的事実を置いて考えたとしても
このコメントには大きな問題が内包されています。
それは(もったいぶるなよと思われた方、ちょっとひっぱりすぎました!)

「その人(他者)の立場になって考える」ことの欠落
そして
「自分の考えだけが正しい(自分とは違う考えは認められない)」という不寛容の姿勢

にあります。
もし自分の仕事が社会に悪影響を及ぼすことが指摘された時、どれだけの人がその仕事を辞する決断をするでしょうか?
私はおおい町の稼働に賛成である住民を擁護したいわけではありません。
原発稼働なんてしてほしくありませんから。
私が今、最も考えなければならないと思う事は、どうして日本国家は原発の事故を起こしたのか
事故の対応が後手に周り、たくさんの住民を被ばくさせるにいたったのか
その根本の社会システムなんです。
そのシステムというのはトップダウンであるとかボトムアップであるとかそういうことではなく

「市民として成熟することを経済の発展においてないがしろにしてきたシステム」が



ってちょっとまってくれ,私のCPUが悲鳴をあげておられる。
いや、システムとかでいくと私の技量では説明できない気がしてきました。
すこし前からやり直します。

<リトライ>
このコメントには大きな問題が内包されています。
それは(もったいぶるなよと思われた方、ちょっとひっぱりすぎました!)

「その人(他者)の立場になって考える」ことの欠落
そして
「自分の考えだけが正しい(自分とは違う考えは認められない)」という不寛容の姿勢

だと思います。
このことが日本の問題の多くの場面で根本の原因をなしている気がします。

*そしてここからもっと深く掘り下げたいのですが
まだ私の手にあまりますのでさらに勉強してから再挑戦しますので、しばらくお待ち下さい。
このトピックと並列に次の話を進めます。*

私の主観でしかありませんが、戦中の生まれの方はもちろんですが戦後の混乱期を過ごされた現在70前後の方というのは
自分の貧乏であった経験から、例え経済的に豊かになっても、貧しい方への共感を持っておられたように思います。
しかし、経済成長の中、貧しいということを経験しなかった世代が日本の舵をにぎるようになり
「人の身になって考える」ことができなくなった。
自分が辛いことを経験した人は、人にやさしくできる
的なあれです。あれがなくなった。
ちなみにイスラム教のラマダンはよくできている「共感」システムだなと感心するのは
誰もが辛く、また誰もが参加可能である「空腹」によって貧者への共感を得られるからです。
さて。
実は今、お昼ご飯を食べてきました。
そしてこれより、基山みゆきさんの展示に伺うので、このブログ、どないしようかと
自分で自分に対しての問題提起だけは書いておきます。
それは
なぜ「原発事故の原因」が「他者の立場への不理解」だったのかについて
なぜそう私が考えるのかについて
いつの日か書いてみようと思っております。


大変申し訳ございませんが、本日はこれにて失礼いたします。
ちなみに写真の絵は、某人気ゲームのキャラクターに挑戦してみました。
この中途半端さも、皆様の寛容なお心でお許し願えましたら幸いです。










しかるべく対価を支払うこと

2012-04-29 | i

動機

「欲しいから買いました」=「『作家を応援する』とかそういうのんどうでもよい」=「作家を応援する」がベストアンサー。
だったので再度ギャラリーに足を運ぶ。もう一度、別の心理状況で観て最終的に判断したい。
と書きつつ、足を運ぼうという気持ちになっている時点で成立していた。というのが事実。

ギャラリーの方になぜギャラリーをされるに至ったかの経緯や、私が購入した作品の作家についての会話。
アート京都のチケットを頂戴し、さらにご近所にあるという”九龍城”を教えていただきさっそく足を運ぶ。

「此花メヂア」という共同アトリエにはギャラリーが”ぶち込んで在る”ように設置されてありました。
店番をされていた住人の方に施設(?)を案内していただいている間、ずっと笑いが止みません。
”九龍城”であり、壁をぶち抜いて新しい空間を出現させる発想を許容している点でコルビュジエの”ユニテダビタシオン”でした。
現在2階に展示中の作品がとても私にはしっくりくる作品でした。(案内の方に概要を訊いてからでないとピンとこないと思います)
吉田寮に通っていた頃の懐かしい気持ちになりました。
また遊びにいこっと。

作家の感性、人間性がさまよい出て来る作品に対して働く心の振動が私にとって感動であるので
その点においては人間性を予め知っている人の作品を真実判断するのが難しいのだなと
今更に感覚というか確認しました。
だからこそ「新しい価値を求める」=「新しい人と出会う」ことが必然なんだな。
それというのはこれまでお付き合いしていた方々をないがしろにするのではなく
常に新鮮であるために距離を保つことも必然であり。
家族や恋人というしがらみがない関係においては(家族や恋人は絶対に大切にしなくちゃ駄目!)
”「イエ」文化の「なあなあ」な友人グループ”には背を向けた方がいいこともあるのではないでしょうか。
(でも、家族を大切にするために距離をおくことも”生活費を自分で稼ぐなどの自己責任”においてありえると思います。私がそうだった)
チナミに
目的地のことや目的の人に対して徹底的にインターネット(SNSなど)で下調べをしてから出会うことは
(そもそもネットの情報で判断するのは字面を追うことでしかないんだと思うんですが)
自分の心の振動を発動させる妨げになるので止めたほうがいいと思います。

けっこう嫌なこと書きました。ご気分を損なわれた方、心からお詫びしませんが申し訳ありませんでした。
はて。
翌日の今日は先のギャラリーの方から頂いたチケットでアート京都に足を運びました。
国際会館の展示会場で藤浩志さの作品を発見。
ちょうど昨日の”九龍城”で藤さんのプチアトリエ通称”テント部屋”を拝見させていただいたばかりでした。
”興味の流れ”に乗車し続けると(乗車賃は”体力”と”自己解放”)点と点が次々に連なって行きます。
その連なりの先にうっすらと”楽しい予感”が見えていると、たいてい自分にウソをついていない状態です(個人差あり)。
話戻りまして。
髪の毛がピンピンしていた方が会場を歩いておられたので、写真を撮らせていただきました。
なににつけても、ピンピンしているのは素敵ですね。背筋をのばして親指を意識して歩くのですね。

烏丸会場を観賞後、本屋さんで内田樹さんの「街場の中国論」を買いました。
興那覇潤さんの「中国化する日本」から個人的なルートでネクストポイントになりました。
前者のいう「中国」と後者のいう「中国」は別物なのですが
”中国の揚げ足をとって溜飲を下げる自慰行為はいいかげん止めにしませんか?”
という点では共通のことをおっしゃられていると思っています。
中国を通してお二人の著作から何を見るかというと、日本が事実どういう状況であるかなんです。
原発反対もTPP問題もまた抽象的なことでは”幸福って何?”的なことも
日本ていうのは何なのかがわからなければ、本来語ることができないんじゃないかと思ったんです。
自分を知らなければ(自己分析)自分の行動の道筋がわからない。
逆にいえば自己分析、自分のルーツ解析(例えれば河瀬直美監督の「につつまれて」)があれば、自分の進むべき道が見えてくる。
んかなと思っていたのですが、それだけでは不十分で、「自国解析」が必要だと思いました。
ですが、高校レベルの教科書の認識が実はかなり”違うみたいだなあ”と興那覇さんの本を読んでいて思いました。
そして、なぜ”違うみたい”なことになったかの背景も書いておられました。

無料で手に入る情報は、やはりその程度のものである場合が多い(ほとんど)です。
本当に重要なことは、しかるべく対価を支払ったものでしか手に入りません。
「タダより高いものはない」
という言葉がありますが、
無料で手に入れたものに対して何も支払っていないというわけはなく
知らず知らずのうちに「価値判断の基準を下げる」という対価を払っているように私は感じます。
(「カンタン!これで億万長者」的なのや「これでわかる!○○の真実」系のものはお金を払って価値判断の基準を下げてしまう気がするんですが)
インターネットには情報の銀河が広がっているわけですが、だからどんな情報も手に入るというのは間違いで
広大であるがゆえに、自分の枠外の新知識に手をのばすほどには人間のハードディスクは容量がありません。
なんかわかりにくいこと書きましたが、ようするに埋まっちゃう。時間的にも。
だから情報を選択する、選択肢を絞り込む能力が重要になる。
その能力を養うには感覚的にも、それに増して論理的に自国に関する客観的な視野を鍛えなければならない。
ちょっと脱線しますが、文科系の(アートや音楽や文学をやっている)人たちもお金の勉強したほうがいいように思います。
私の個人的な見解ですが、文科系の人はたいてい読書が偏っていて、小説や漫画には精通しているのですが、
その限られたツールから現在を把握しようと努めている気がします。
(そもそも現代の文学作品に対して現在がどういった世界であるのかの認識を求めておられなければこの話は蛇足なんですが)
それは現在への認識をどんどん抽象化するだけだと思います。
一生を抽象世界で暮らしていくことができるのは一部のお金持ちだけです。
「現実との折り合いを付ける」的な”大人の意見”を言いたいわけではなく(だいたい私自身がそんなこと言える立場にはない)
お金がどういうものかを知ることは、スポーツのルールを知るみたいなことで
ルールを知らなければゲームに参加できないですよね。
ルールに則して限定された世界を知るからこそ、それを突き抜けている知識や行動に尺度をもって感知できる。
肉体を持って感覚するというか。(脱線終了)

多くの人が震災後、何かを変化させなければ日本の終了が近いことを察して様々な行動をした。
復興の手伝いをした人、ツイッターやブログで意志を表明した人。
私は人々がそのオリジナルの方法で変化に対して行動すればいいと思っています。
私の場合はだから被災した方にメールをしたり、現地に行って励ますことよりも、この国がどういうものでどういう状況で
だからどのように行動、判断するのが最も適当であるのかを考えることにしました。
私にとってはそれが復興の手助け、変化の手助けになると考えたからです。
あまり理解されなかったと思いますが。
ってまあ私のことはどうでもいいんですが、とにかく、情報を判断する基準は自分自身であるのでその自分自身の思考のルートである
自己分析と日本の現在を把握し続ける努力を怠ってはならないなと。
そのためにはやはり情報を得るために限らず、どんなことにおいても
「しかるべく対価を支払うこと」が大切だと思います。
なんて
エラそうに書いてしまいました。読み返してみて、自分で自分にちょっと腹立たしいですね。
私は自分の無知に驚愕し、現在を間違った解釈で生きていたことに猛省しました。
だから、このブログを読んで下さる方にも同じ間違いをしてもらいたくありません。
ですから、まあいつもの通り、このまま投稿しちゃおうなあ。













マルク・リブーの恐怖

2012-04-24 | i

何必館のマルクリブー展がよかったという事を書こうと思いましたが
日曜で終わりだったーーーー
あれは何必館の最上階の茶室の前で観るべきだのになあ
観れなかった方、悲劇でんなあ。
「Clemence after a Swim」の展示の演出は強烈でした。飛び出しそうになりました。
もっと早く書けばよかったですね。
あの写真があの場所に展示されていることが、ほんとうに恐怖です。
あの場所(何必館の最上階)は私が京都で好きな場所のひとつなのですが
その思い入れの強い空間がたった一枚の写真によって豹変する様子は
(様子っていっても心象風景ですが)
今村昌平監督の「うなぎ」という作品で主人公が静謐そのものに変体する過程に重なります。
写真によって神格化する被写体の子供が
もしあの時、眼前に存在したならば、殺意を抱くか諦念首を垂れて世を去ることになりましょうなあ
死生眼前に迫りしは理を超えたるが如し
ピストルではなく刀なのはジャポネーゼのなせる生け贄の自縛なるかな
どうでもいい言葉遊びは止めよう。寝よう。

ベニーグッドマンのクラリネットとウイスキーストレートですよ私。
祝杯です。お手伝いさせて頂いた展示が盛況だったぽいので
安堵アンドearn努
横浜に伺えなかったのです。
次回はこんなにそわそわするくらいなら無理して足を運ぼうと思いました。

友人が
「結局やってきたことしかやれない」と言っていました。
私はそれを積み重ねて来た努力の結果だと解釈しました。
努力の為の努力(受験ですね)ではなくパイオニア精神。
この時間、この空間全部、俺やんなあ
っていうあの感じ。あれは最先端なんだからね。
って言ってまう感じ。
心の底からの自己満足へのダイビング
自己満足をタイピング
そんな自分をライティング
ああ、好きです。膝枕して下さい。

近頃の膝枕ですが
登山しましてね。先日。往復5時間程度の山ですが関西に帰ってきてからセカンドタイム。
休息中に巨匠に出会いました。「去年の10月かな、3000回になりました」
彼は年に100回をノルマに登山しており
在職中から土日祝日を登山に費やし
雨や嵐やなんのことやら吹っ飛ばされそうになり流血で下山も経験し
タバコで肺を「だいぶん切除」の由
幸福論のオリジナル。

もっと大切なこと書きたかったようなですが
幸福論について。
次回書きます、ウイスキーなしで。ね。ほんとに好きだなあ追求している人はいいなあ
私は人差し指を上下さして「エッフェル塔のペンキ工」をオレンジ灯下ドキドキしています。
愛さないことを増やすなんてくだらないことやめて
愛することを増やす生活ですねんなあファービュラス&ギブアップ













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2012-04-13 | i

与那覇潤さんが「中国化する日本」の中で人類の進歩の終焉は1000年前に訪れていた。
と書いておられました。
近代史の中では定説になっているほどポピュラーな考えだそうです。
内田樹さんが資本主義はこれからの日本では機能しないと書いておられました。
それをわかりやすく以下のように書かれていました。

「資本主義を領導し続けた「満たされない欲望」が最終的に安住の地を見出したのは、「どのような商品であっても買おうと思えば買える財力を持ちながら、あまりに満たされてしまったので、それが放出される対象を見出すことのできないでいるポテンシャル過剰状態」そのものであった。
つまり、資本主義は最終的に人々を「金を持っているが、使い道がない」という、ニルヴァーナ状態へと差し向けることになったのである。」

近代史の定説から見れば、当然の流れだったのでしょうか。


さて。
今日、アエラの「フェイスブック ザッカーバーグインタビュー」を読んでいて、上記したお二方の考えがピンときました。
記事を読んでいると、例のごとく、彼がいかにオリジナルであるかオバマ大統領と食事をしました、わずか何歳であれをしてあれで
まあ、とにかくすごい人なんです!
的なやつでした。(途中から読む気がなくなって文字を追っていただけであまり記憶にありませんが)
フェイスブックを始め、SNSがどうして成功したのかについて
「新しいサービスの分野を開拓した功績」のみ取りあげているように思うんですが
私はそれは違うと思いました。
成功の理由は、大量生産でコストをおさえ、大量消費させて利益を得るというシステムから離れた結果だということを取り上げるべきだと思います。

おとといかな
テレビのビジネス番組で、ゲストコメンテーターに有名大学の先生が出演していて。
アナウンサーに、電機業界が不振を抜け出すにはどうすればいいかを尋ねられて
「アップルのように、これまでにはなかった市場を生み出すことだと思います」
と答えておられたんですが。
まだこんなことを言うんだなあと、けっこう驚いて聞いていました。
目先を変化させて消費者の物欲をいかに刺激するかの議論がもう無駄なんじゃないかと思いました。
現在大手と呼ばれる企業は、時代の流れ的にはもう取り残されているのかもしれません。
大量に生産しなければ利益が出ないシステムが限界だという気がします。

夢みたいなことだと思っていたんですが
これからは本当に、人間としてのではなく、企業同士の競争がなくなってかつ利益が出る時代に移行するんじゃないのか。
なのでその新しいシステムの為の学問が主流になって。
それってやっぱり元に戻るんですが、ウソをつかない人が幸福になる社会じゃないかと。
内田さんは「贈与」という言葉を使っておられます。

この転換期に
私たちが本当に必要なスキルは何かというと、私は「利他」だと思います。
ぜんぜん上手く説明できませんが。
なんやろなあ。
私は、独立したマイノリティー文化が点在するかたちで開花して
(個人、家族単位くらいの)
それがやがてマジョリティーになっていく。なっていくんだけど、各自の幸福論は独自のままで共有されることはない社会。
なにがマジョリティーとして共有されるかというと、
「自分のオリジナルの幸福を追求する姿勢」なんやろうなあと。
とにかくいろんな幸福の固定観念がゴミになる。
幸福の概念を各自で生み出すことが人生の最重要事項で。
っていう世界。

それは人類が到達する最強の近代化なのかどうかわからないですが。





写真は、「ピカチュウがこんなにいっぱいいたら、気持ち悪い」
という絵ではなくて
算数の例題のいわゆる「りんご」のかわりだそうです。近頃いただいた絵で最も衝撃でした。










消費者としての自分の立ち位置

2012-04-09 | i


近頃
会う人会う人に消費について話します。
どうしたらええんでしょうねえ
という、突如私から話題を振られた挙げ句、今度は意見を求められる人々。。。
私は、本当に迷っているんです。
消費者としての自分の立ち位置がわからない。
立ち位置?
たぶんこのブログもおもんないと思います。おもんないけど強烈に興味があることなので書きます。

某大手企業がコスパ(人件費の)で海外に工場を作る。
学生の人達にはおなじみのコスパです。コストパフォーマンス。
最小限のリスク&コストで最大限の利益を追求することです。
ともすれば、企業理念がコスパになってもうている(実質において)会社は多いそうで(っていうかほとんど)。
松下幸之助さんの時代、企業の本質とは、日本国家の繁栄に通じる「納税」を重要としていた。
自社の社員の幸福と安定を企業理念とするならば、自社が存在する地域、国家の繁栄なくしては理念を達成できないという
そんな思想が少なくとも松下幸之助さんにはあったように私は本から読み取りました。
国内に工場を設けることで雇用を生み出し、従業員に安定した生活を保証することで
従業員が一市民となり消費者となる。消費者が需要を生み出し、供給側の企業が利益を得て従業員を養う。
食物連鎖ですよね。
国民にお金がなければ、企業にもお金が渡らない。だから、コスパを追求することは
長い目で見るならば、損失を被ることになる。
では何故企業が海外に進出するのでしょうか?
企業のトップの人達はこの食物連鎖的な循環を知らないわけはありません。
例えば
●日本国家を切り捨てた。
(政治があれだけ機能していないのです。普通の国民は原発事故によってようやくこの国家の実情を把握したわけですが、
大企業の経営陣が日本の現状をはるか以前より把握していたと考えるのが常識だと思います。なので日本を捨てなければ生き残れない
ので日本を切り捨てたと)
●国家という枠組みが消滅する未来図(これがいわゆるグローバルを押し進めてきた経済関連の黒幕(って私の想像)の青写真)
に則した。
上の二つは勝手なSFかもしれませんが、あるかもなーっというたとえを書いてみました。

真相は、株主の存在が海外進出の原因のひとつであることは確かなようです。
日本をどうにかしたいという志を持ったリーダーがいたとして(稲盛和夫さんのような)
内需拡大の必要性があり、雇用問題やもっと広い視野で見れば外国の有能な人材を雇用するのは日本人の教養のレベルを問うた上でのことなので
教育問題にも企業は目を向けなければならないでしょう。
みたいに、思っている人が経営者にいたとして。
けれどそのような経営者の企業も、海外に工場を移築しなければならない理由があるんです。
株主が日本人ではない場合があるからです。
株主にとっては投資先の企業が利益を増やすことが目的であって、その企業が出身国の為にコスパを無視して経営することは
理解ができないんです。
またもや私の勝手な想像ですが、株を持つことは現代的な国家戦略、ミサイルや巡洋艦よりも強力に敵対国を疲弊させる新しい戦争スタイル
なのかもしれません。
私がグローバル、グローバルってなんかやだなあと思うのは、このためなんです。
外国と簡単につながんなくっていいよ。
なかなか行く事ができないから行く意味があるんだもん。
新幹線でひょっと行く感覚でローマに行って、日本円で何でも購入できて、何の意味があるんでしょうか。
グローバル化、類似としてはユーロ。私も確かにユーロは便利だと思った。
旅をしている時はユーロ圏中心にめぐりました。通過両替せんでええので。
でも、ユーロはご存知の通りになった。
外国を一人で旅したことがある人は、例えばフィンランドに行って、黒髪ってええなあと思いませんでしたか?
私は黒髪を誉められたことがあります。
フィンランドの人にとって、髪が黒いことは珍しいことなんです。
相違ということは差別を生み出したり不寛容をまねくマイナスのこともありますが
そのマイナス面をなくす為にじゃあ髪を染めて金髪にすっかみたいな
そこじゃないよね。って。
それよりか差別や不寛容をなくすほうを選ぶよね。って。こんな言葉使いしてまうよねって。
話がそれてそれてウイスキーが回ってきております。がんばれ俺。ぎゃうぎゃう

でですね。
消費についても同じことが言えないかと。
本日も、義理の兄に買い物を頼まれたんです。欲しい品物があるので格安で購入してくれないかという。
私はネットで最もコスパの良い物を選んで購入する方法を知っている人なんです。兄にしてみれば。
店頭で購入するよりも品物によれば半分で買うことができる方法をしっている人。
企業が求めるコスパに優れた人材です。
店頭価格5,400円のものを送料込みで2,700円で購入しました。
私の手腕はたいしたものです。自分でもそう思う。
でも
そこに消費者としての自分の教養のなさを顧みてはっと立ち止まる。
コスパに良いことなんて絶対にない。
私がそう思っていることを正直に兄に話しました。
私は
「例えば、この商品を、地元のお店で買うことは結局、ここに住む自分たちにとって長い目で見ると利益になりはしないか」
という。
それに対し兄は
「2,700円で購入できるのにわざわざ5,400円で買うのは難しいやろなあ」と。
これが情報化社会でこれがこの国家が選択してしまった近代化なのだなあ。
私はというと、兄に喜んでもらえて家族のためになったのだと思うと嬉しいのです。
けれど
このような目先の視点で、ただたんに経済的な視点で物事を判断することは危険だと思っています。
なっがー
長いですねこのブログ
酩酊したいですねもはや。すんなり寝たいですね。でも
譲れないですね、これは書かなくてはならないから書いているんではなく書きたいですね。書きたいことを書こう。素直マックス。
ウイスキーはお好きでしょ?

ええいえいえい


それでです。近頃会う人会う人に上のようなことを、相当かいつまんで話します。
昨晩のOZCの小田島さんの展示最終日に知り合った初対面の名古屋の作家さんにも「消費者である私たちはどうすりゃいいんですかね」
って
突っ込むんですね。
「そんなの、アマゾンで買っちゃいますよー」
ってね。言われますよね。
企業努力が足りないんだよっとか、競争力のない経営は行き詰まって当然という思想
そのとおりなんですけれど
はたしてそれは、個々の責任問題で判別していいのでしょうか。時代の選択、つまり政治。
そこを外せば努力が足りないことになるんだけど。
この一つ前のブログで紹介した音声動画に出演されている福島の農家の方。
その現状と類似点を見てしまうんです。
彼らは意志とは無関係に、努力とは無関係に、高濃度汚染地域に投げ捨てられたんです。
日本が獲得してきた近代化、私は共産党を応援しているわけではないですが、資本主義ってなんだったんだろうかって。
幸福論
自分が幸せであるイメージ
そういうものは日本国民のいった何パーセントが持っているのか。

私、こんなこと書いている時間なかった、エンドロールのcastの名称を考えないといけなかった。のに
書かざるえなかった。っていうか書きたかったんだ。
書きたかったから書いた
というか
書けた。
んですよね。




貼付けた写真は私がおみやげで持参した天神さんで購入したお菓子の袋を
速攻即興で小田島さんが壁に挿していたのを撮影したものです。
顔の影の持ち主がロープを描いている作家のNさんと手は私。
そのNさんの友人のこれまたNさんの絵も素敵でした。帰国してまだ3年ほどで
なんか会話していてもどこか浮遊していたのは、久しぶりの日本で日本語がちょっと苦手だったからなのだと。
梅香堂さんでグループ展に参加されています。
ちなみに、
梅香堂さんで現在展示されている前谷康太郎さんというビデオインスタレーションや写真をされている若い作家さん
相当すごいんではないかと。
2階の展示室に上がって一巡りすると、水の流れが低地の一点に集中するように
空間に拡散していた私の全神経は前谷さんの作品(左から2番目)に全て注ぎ込まれました。
あんなの久しぶりでした。
たぶん、お金ないんですけど、その作品、買うと思います。梅香堂の店主の方とも購入寸前まで話をしていたんです。
これから確実に出てくるんやろなあと思いました。


って
これいったいなんのブログなのでしょうか。寝ます。おやすみなさい。好きです


















楽しくない事を書きます。(今回のブログは面白くありません!)

2012-04-07 | i


20120328 [1/2]たね蒔きジャーナル 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章


20120328 [2/2]たね蒔きジャーナル 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章



貼付けられた。

上の二つの音声動画なんですが、福島の高濃度汚染地域で農業をされている方と
放射能の専門家でらっしゃる小出裕章さんとのラジオ番組での対談です。
上が前半、下が後半です。

この番組を聞いていて感じたことを書きます。
日本には四季があります。よく季節感という言葉を耳にしますが
春には桜、夏にはかき氷みたいな。
私が季節感という言葉を使うのは、「季節感ないなあ」というのが、もっぱらでしょうか。
一人で暮らしていたということもあるのでしょうけれど、旬のものを口にする機会も少なかったですし
東京にいた頃は小さな自然の変化に立ち止まることはありますが、この季節だからこれをしよう
といった時節の行事からは遠ざかっていたように思います。
では、農家の人にとってはどうだったでしょうか。
私の想像の及ばないことですが、都会に住む我々とは比べ物にならないほど、
四季を体感して生活されているのではないでしょうか。
何かの花が咲くと、何かの種をまく。
また別の何かの花が咲くと、今度は土を耕す。
季節の移ろいの中に指針があり、生活の糧があり、家庭の規則が存在しているのではないでしょうか。
農家の人にとって、農業とは生活の糧を稼ぐための「仕事」だと置き換えることはできない。
そんなこと言ったら、サラリーマンでも職場に行くことはお金を稼ぐための「仕事」というだけではないんで
「生きがい」でもあるでしょうし「アイデンティティー」でもあるんでしょうけれど。
ただ農家の人にとって四季と土との営みは、生に関わるもののおおよそに繋がっているのだろうなと。
土地が死んでしまったとしても
死んでしまった土地で作物を収穫しても販売することができない
そうだとしても
替わりの土地は存在しないのかもしれません。
会社が警戒区域になったので、新しい土地で仕事を見つけてやり直そうという発想が
どんな人にとっても難しいことですが、農家の人には尚更困難なのでしょう。
上の音声動画を聞いていて、私は泣くことすら許されないのだと、やりきれない気持ちでいました。
どうして政府は土地が再生するという無責任な情報を流してしまったのか。
無責任が生み出した希望にいったい誰が保証をしてくれるのか。
ラジオの中の農家の方は、汚染された自分の土地で収穫した作物が放射能で汚染されることは知っている。
収穫物をだから誰かに販売しようとは思わない。食べる以外の使用方法もある。(つまりバイオ燃料にする等)
だから今年は作付けをするとおっしゃっている。
その苦渋の判断はエゴイズムだとは私には思えません。その土地に受け継がれて血肉となっている
彼らの「存在理由」が作付けを決定付けたんだと思うんです。
パイオニア精神の不足とは決して言えない。

もしお時間があるようでしたら、是非、耳を傾けていただきたい。
これが日本の近代化だったんです。


これに関連することで本日、たまたま出会った人とのことを書きます。
その方は、私が東京から関西に移住したことを知ると「原発ですか?」と声を小さくして言うので
それもあるとこたえると鏡越しに「私もそうです」と言うと
次のようなことを口早に述べられた。

家族を愛している事
家族という存在が自分にとっていかに大きい存在であるか
職場を辞めたこと
今の自分があるのは、その職場の同僚のおかげだということ
家族にも職場にも、友人にも
関西に住む決断を理解してもらえなかったこと
慣れない土地で、気の知れた友人がそばにいないこと
なにより
家族がいないこと