大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

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ウーマンリブ敗れたり 終わりに

2017-01-15 08:59:52 | 社会問題

 55回にわたって書いた「ウーマンリブ敗れたり」を御高覧下さいまして、ありがとうございます。20世紀の後半及び21世紀に入って早17年になる日本の経済社会を描いてきたつもりです。一介の団塊世代の人間が辿ってきた道は、仕事の分野は異なっても多くの共通点があるのではないかと考えます。

 スーダラ節の気楽さを根底に、恵まれた壮年期までの日々を働き、最後の方はデフレ不況の中で喘いだ者も多いが、団塊世代の大部分は逃げ切って、今、老境に入りつつあります。しかし、私は老境を拒否します。2016年のアメリカ大統領選は69歳のヒラリー・クリントンと70歳のドナルド・トランプの闘いでした。さらに言えば、民主党の指名争いを闘ったバーニー・サンダースは75歳だったのです。シルバー世代たちの闘いを若い人たちはどう見ていたのでしょうか。アメリカの現在の価値観を代表する存在として見ていたのでしょうか。

 マスコミに言わせればそれは否、でした。今回の闘いは史上最低の大統領選と書いていました。どちらが大統領になってもオールドファッションの政治になるであろうと危惧していました。しかし、若くして大統領になったケネディは、キューバ危機を回避したこと以外、今では評価されていません。オバマも確かにチェンジを試みましたが、イラク撤退の代わりにアフガニスタンに兵力を増強し、対シリアではロシアに負けました。唯一彼がやり遂げたと認識するオバマケア(医療保険)は撤回されようとしています。鳴り物入りで出てきた人材が必ずしもアメリカ社会に役立つとは考えられていないのです。

 私は、日本人として25歳まで育て上げられたのに、アメリカ生活のたった2年でアメリカの価値観に染まりました。当時のアメリカの女子学生と同じウーマンリブの集団に入り込んだのです。あれから40年経った今も、アメリカのシルバーの闘いに注目し、ウーマンリブ正統派ヒラリーの姿に自分を投影してきました。オバマに敗れて8年も待ったヒラリーに、敗れても敗れても挑戦する自分の姿を重ねて見ていました。

 ヒラリーは敗北宣言の気丈な演説の中で生後4か月の孫娘に言及しました。それは、ヒラリーが「次の世代に任す」と示唆したのだと私は捉えています。大統領選を闘って敗れた人はみなその後鬱病に苦しみます。激しい長い戦いが無に帰した時、大統領選に出るようなタフな人間でも、その負荷は大きすぎて精神に異常を来すでしょう。ヒラリーよ、幸あれ。心から祈ります。そして、ヒラリーほどの大きな戦いに出たことはない私は、まだ働きます。イノベーションに関わることをやっていきたいと思います。

 日本のウーマンリブの生き残りと言えば、一世を風靡した脚本家橋田壽賀子をトップに挙げます。91歳で独り暮らし。かつてのように仕事も来なくなったし、尋ねる人もなくなったと淡々と語っている映像を見ました。死に別れた夫のことは「愛なんてものなかった」と語り、夫の家族と同じ墓に入るのは「死んでからまで他人と暮らす必要はないでしょう」と言い放ちました。ウーマンリブは嘘を言わないのです。直言居士なのです。格好をつけた人生ではないからです。だからこそ、橋田さんは人の心をとらえるたくさんのドラマを作り出してきたのです。今、孤独を苦しみながら、楽しみながら生きておられるようでした。

 私も、孤独を苦しみながら、楽しみながら、そして、まだまだチャレンジを辞めずに生きていきます。ウーマンリブの残滓として。重ねて、長い間のご愛読を感謝申し上げます。        大泉博子

(この欄は暫時休載いたします)。

 

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ウーマンリブ敗れたり(55)敗戦とヒラリー

2017-01-14 08:58:33 | 社会問題

 つくば市長選は地元後援会が事務所を用意し、陣容も選挙シナリオも引き受けてくれた。私は、5回目の選挙にして初めて、マネジメントに自ら乗り出す必要のない「選挙らしい選挙」になった。それまで、役人出身の私はマネジメントに乗り出すので、「候補者が神輿の上で暴れるから、落ちる」と言われてきた。今回は気持ちよく任せようと思い、私は淡々と地域回りを続けた。

 あるところまでは、楽観し、感触の良さを得ていた。私の周りは知識人が多く、学歴や職歴で判断し投票するものと考えていた。しかし、当たり前のことだが、選挙は違う。人気投票である。そして、組織票を掴むことである。今回は現職が失政と女性問題で追い詰められ出馬断念した背景があり、これまでと同様の選挙ではないと、我が陣営には思い込みがあった。結果から言えば、公共事業を受注する土木業者という「組織票」によって決定する仕組みに変わりはなかった。

 選挙が迫ってきたころ、ある候補者のNPO法人運営についてテレ朝が追跡し、市役所の調査が入った。そのことで我が陣営は「直前で選挙の構図が変わるはずだ」とある意味で力が抜けた。しかし、それも思い込みに終わった。後日、「お母さんは、選挙については学習効果がないから、もうやめた方がいい」と息子が言った。選挙ごとに別のモグラが出てくるので、私のモグラたたきは終わらない。

 今回は、市長になろうと言うよりは、衆議院議員時代から力を入れてきた科学産業づくりを完成させるのが目的だった。「それでは、国政をやりたいと言うのと同じだ。いつまで上から下目線なんだ」と陣営内で目を吊り上げて怒る人もいたが、私は、地方行政だからと言って、バラマキの時代ではない、イノベーションで経済を活性化することが現在の日本にとって一番重要だと考えていた。

 負け色が出てくると陣営内は殺伐としてくる。何度も負け選挙をやった私にはよくわかる。そして、あろうことか、幹部の一人が病に倒れ、入院。それまで外で見守っていた男性が「それでは、私が動かしましょう」と先頭に立って、女性応援団を作り、ひとの心を高揚させる「楽しい選挙」をリードした。もしかしたら、逆転もあるかもしれないと思わせるほどの楽しさを以て活動が行われたのである。そして、一か月、選挙は敗れた。

 今回の反省は票の組織化ができなかったことと、もう一つは、科学産業づくりが受けなかったことである。同じ特区でも、北九州や名古屋の特区は民間企業が中心であり、そこでは、行政にやってもらいたいことがいっぱいある。しかし、つくばは公務員の研究の街であり、研究機関の人々が先頭に立ってベンチャー企業を起こすのではない。半世紀たっても、クラスター(科学産業集積都市)になれなったのは、民間の投資を呼びこまず、国の研究機関を一か所に集めただけに終わったからだ。国の機関は勿論、縦割りで終わり、横の連携は作っては消え、作っては消え、であり続けた。

 国際戦略総合特区の指定を受けるときに内閣府が難色を示したのは、「もうつくばはいいよ、これだけ投資しても民間を引き入れることができないのだから」ということだった。この言葉を思い起こせば、私も選挙を辞めていたかもしれない。惜しいが、クラスターにする土壌ではなく、やがて普通の市になっていくだろう。隣、土浦市と比べると、一村を吸収合併したとはいえ基本的に一つの市として発展してきた土浦市は、地域医療や福祉の仕組みがつくば市より良くできている。それは、つくばが6か町村の寄せ集めで、行政のやりにくさが今も響き、低水準に合わせることを避けられないからだろう。

 今度の選挙は楽観して始まったが、その理由のひとつが、2016年には、台湾の総統が蔡英文、イギリスの首相がテリーザ・メイ、そして、東京都知事が小池百合子と世界的にも女性の領袖が躍り出たことである。「これで、11月にヒラリー・クリントンが勝てば、勝負に大きなプラスになる」と我が陣営は、根拠の薄い希望的観測を持った。だが、ヒラリーは負けた。予想外に負けた。内外のマスコミがこぞってヒラリーの優勢を伝えていたため、私もあまり情報集めをしていなかったが、ヒラリーの負けは私にも反省をもたらすことになった。

 一言で言えば、ヒラリーは言葉と論理ではトランプに勝っていたが、人々に夢を与えることはできなかった。民主党の指名争いでヒラリーに負けたサンダースもトランプも、格差社会アメリカの不満の一部に夢を与えた。サンダースは学費に苦しむ若者に、トランプは「バッド・ジョッブ」にしかありつけない白人男性に、一筋の光を与えたことは確かである。ヒラリーは「私の経歴を見て頂戴、私は何でもできる」と言い、「女性の味方」を強調した。だが、女性は女性であるがゆえに運動を起こしたのは60年代70年代であり、現在ではむしろ格差縮小のプロパガンダに惹かれた。

 ヒラリーは8年前、民主党の指名争いで、情熱的な黒人オバマに負けた。今回はヒラリーが最も憎むべき「昔ながらの普通の白人男性」に負けた。胸中如何。ヒラリーは間違いなくウーマンリブの正統派だが、キング牧師率いた公民権運動以来努力した黒人にかなわなかった。ウーマンリブが死語になった現在では、かつての敵であった普通の白人男性に勝つことはできなかった。ヒラリーは意気揚々とキャリアをつくってきた若き日や壮年期の自分の人生とそぐわぬ結果を得た。既にウーマンリブの価値観はその存在すらも知られていない。その価値観に立脚した今の自分の立場をヒラリーは思い知ったことであろう。

 それは即ち私自身にも当てはまる。だが、アメリカとの違いは、アメリカでは、女性の底上げがかなった上で、女性にもいろいろある、その生き方を尊重すべきなのに対して、日本では、まだ女性全体の底上げができていない。日本はカトリックのような宗教事情も無ければ身分制社会でもないのに、女性の社会進出が進まない。それは、日本女性と社会の「個性」なのだと片づけてよいものか。ウーマンリブの残滓は、焼けぼっくいに火をつけようと、生き残っているのだ。スマン、まだ野心は捨てないつもりだ。

 

 

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ウーマンリブ敗れたり(54)戦争の爪痕

2017-01-13 08:53:09 | 社会問題

 出馬断念してから、私は、年明けた2015年、事務所をたたみ、政治に出るとしたらどの門戸を叩くか、あるいは、仕事をするとしたら誰に頼むかを考慮する時間を持とうと考えた。生活のリズムを作るため、東京にある法律予備校に通うことにした。私は、法律の運用をする官僚の立場に30年もいながら、「法律学は社会科学ではない」と勉強分野から除外してきた。仕事上、日弁連と交渉するとき、あまりのリベラルさに驚いたり、国が被告の裁判で一緒に仕事をする判検事は、非常に高見に立った存在だと感じていた。

 「法科万能主義はけしからぬ」「法律家はいつも前例踏襲だ」という自分自身が持つ偏見も、もしかしたら、法律学に納得していないからかもしれないと考えた。手短に短い期間で法律を学べる予備校の授業は面白かった。何よりも学生が真剣だった。ある私立大学で社会保障論の教授をしたことがあるが、学生は後ろの方に座って私語ばかりだった。これに対し、ここでは、資格試験を受けるためにしのぎを削る聴講生ばかりだ。しかも、礼儀正しい人々である。私が東大時代は、本当に勉強したい人ばかりで、競って前の席で講義を聞いたものだが、現在でも、志のある人の集団は同じなのだと感動した。

 勉強に埋没する間もなく、二つのオファーが来た。一つは地元の市長選に出馬しないかというもの。もう一つは、国際活動をする女性団体から、オーストラリアで開催されるイベントでスピーチをやってほしいというもの。科学産業都市づくりの仕事を継続するのに地元の市長選も選択肢として考えていた私は、それまで難しい首長選を自ら手を挙げてやろうとは思わなかったが、選挙をよく知る地元が後押してくれるならできそうだと思った。「やってみましょうか」そう言いながら、活動は緩やかに始まった。

 もう一つのオーストラリアでのスピーチは、クィーンズランド州知事の集まりと、ブリスベン市長の集まりで、しばらくぶりに英語のスピーチをやることに喜びを覚えた。オーストラリア側の女性団体に第二次世界大戦の遺族会が入っていて、事前に私のスピーチを見せてほしいと連絡があった。私は、丁寧に書き上げて送ったが、「これではダメ、日本兵がオーストラリア兵捕虜に対して行った残酷な事実を謝ってほしい」と返事が来た。

 タイで過酷な労働に駆り出された豪兵捕虜の多くが命を落した事実、キャンベラの戦争博物館で展示されている日本兵による豪兵捕虜のなで斬りの写真を私はよく知っている。しかし、民間人である私が謝ることに意味はあるのか。今の私は、政府の要人でも国会議員でもないから、国を代表していない。丁度この頃、韓国が従軍慰安婦の問題で紛糾し、「我々は保障のお金もいるが、日本政府に謝ってほしいのだ」と主張していた。そう言えば、オーストラリア留学中、韓国従軍慰安婦の問題になると、女性教授が激しく「日本はひどい、早く謝るべきだ。ドイツを見なさい、ヒトラーのやったことを真摯に謝ったではないか」と声を荒げた。

 オーストラリアが面倒くさいのは、日本の戦争責任と捕鯨の問題に関しては躍起となることだ。普段おとなしい人でも、この問題だけは日本は許せないと言う。ドイツはキリスト教圏白人の世界。彼らは第二次世界大戦中、日本人がアメリカの強制収容所に入れられたのに対し、それは免れた。つまり、ドイツ人はもともと仲間であり、ヒトラーという悪党が支配したから犯罪を犯したのであって、ヒトラーに全責任があるという見方がされている。ドイツはユダヤ人に対し徹底的に謝罪し、ヒトラーを思い出させるものはみな発禁になった。

 ヒトラーの書いた「我が闘争」は戦後、発売禁止になったし、ヒトラーを思い起こす、手を上げる仕草や拍手は禁止されている。学校の子供たちは、手を挙げず、指一本出して、先生にあててもらうのだ。私も、厚生省時代、市場開放の説明会のためドイツに行ったとき、拍手ではなく、親指で机をたたく仕草に驚いたことがある。そこまで、ドイツは気を使っている。悪いのは、ヒトラーだ。白人すべてではない。確かに、日本は戦争責任を曖昧にしているが、曖昧にしたのはアメリカである。天皇を使ってその後の統治を円滑に行うことを選んだからである。だから、オバマは広島で謝らなかったし、安倍さんも真珠湾で謝らなかった。アメリカと日本は、互いの腹の中が分かっているのだが、オーストラリアは分からないのだ。

 私は、謝罪はしないが、捕虜の事実については述べるということで遺族会に納得してもらった。私は、戦争という不幸はあったけれども、戦後、オーストラリアの呼びかけで、APEC(アジア太平洋経済協力)の枠組みができ、おかげで、毎日のようにオージービーフを食べていると演説した。これは、大変受けて、クィーンズランド知事も壇上から降りてきた私に惜しみなく拍手を送ってくれた。私は、若き日にWHOの総会やマニラでの地域会議などで自分の発言が巡ってくると、ドキドキしながらも嬉しかった。改めて演説好きの自分を認識し、もう一度選挙に出る自信がついた。有難う、この機会を与えてくれて、と心で叫んだ。

 ブリスベン市に、ダグラス・マッカーサーが1942年から2年間、フィリピンから引き揚げて連合軍南太平洋地域本部として使っていたマッカーサー・セントラルビルがある。その9階は博物館になっていて、日本に反撃するまでのマッカーサーの執務室や資料が展示されていた。マッカーサーの椅子に座らせてもらい、「我々世代はこの男によって作られたのだ」と感慨にふけった。マッカーサーは当時の民主党大統領ルーズベルトが嫌いで、彼の椅子の後ろには、ワシントン初代大統領の肖像画が代わりに掛けられていた。なるほど、これだから、後に民主党のトルーマン大統領に解任されたのだなと思った。

 マッカーサーは、欧州で連合軍を率いたアイゼンハワー将軍と対抗していたようだが、ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業したマッカサーの方がはるかに俊才だった。だが、国民的人気はアイゼンハワーにあったようで、アイゼンハワーは共和党の大統領となったが、マッカサーは上司とうまくやらなかったから、そのチャンスを逃がした。こんな所に来ても、自分の人生と共通のものを見出したりするものだ。

 この博物館で面白かったのは、マッカーサーが、オーストラリア兵は訓練されていないので、使い物にならないと嘆いていたことが分かった。連合軍に参加したオーストラリア兵が力不足だったというのは、オーストラリア人にとってみれば、腹立たしい表現だろうが、戦争慣れしていない傭兵に近かったようだ。もしかしたら、戦う意思があまりないところへ、過酷な経験をしたので、日本人に対する恨みは増幅したかもしれない。

 私は、以前にオーストラリア留学で心身を癒し、茨城で衆議院選挙をやり直したが、今回もこの地で、市長選に出る意思を確実に固めた。

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ウーマンリブ敗れたり(53)出馬断念

2017-01-12 09:24:38 | 社会問題

 民主党を辞めてから、私は、みんなの党や維新の会の戸を叩こうと思った時期があった。みんなの党は、行革をめざし、実現後はどこかと合流する「プロセス党」と理解していたので、気持ちに合った。維新の会は、橋元徹の議論は好きだったが、人脈がなかった。私は、代表選で応援した鹿野道彦の勉強会に出席し、地域活動を続けながら、模索をしていた。

 安倍さんはアベノミクスばかりでなく、選挙についても過去の反省から「打って出る」方法を選んだ。政権奪還の選挙から2年後、2014年暮に消費税の2度目引き上げ延期を名目に総選挙を仕掛けた。私は、無所属で名乗りを挙げ、早々と記者会見をやったが、公示日直前に民主党が候補を出してきた。実は、うっかりそんなことがあるとは思っていなかったのである。鹿野道彦の会で民主党の連中によく会っていたし、無所属の私に「頑張れ」と言ってくれていた。地元医師会も「無所属でも応援する」と言っていたが、民主党応援に回ったので、医師会長に電話すると「今、タクシー料金を払っている最中だから」と言い、理解不能な内容をしどろもどろで伝えた。

 私は、あっさり立候補を辞退した。票は対自民の半分もとれまい。既に数百万の金は使っていたが、勝てない選挙をこれ以上やれば、それどころではない。供託金も既に納めていたので、法務局の指示に従い、県選挙管理委員会に赴くと「事前に選挙を辞めた例はないので、返還せよの証明は書けない」という返事。法務局から手に入れた規則のコピーを見せて初めて「こんなのあるんですか」と言ってようやく証明を書いた。地方公共団体の窓口とはこんなものか、大いに失望した。アムステルダムでパスポートを紛失した時も、本籍地の大崎市は、「国際電話での申請はダメ、あくまで本人か委任された者が取りに来なければ戸籍謄本は発行できない」の一点張りで、わざわざ茨城県から宮城県に人を派遣して取りに行かせた。う~ん、地方自治は、中央官庁と異なるのは窓口をいかに近代化するかということだな。窓口は、法令を習熟し、裁量のできるベテランを置かないと、住民にとっては悲劇だ。

 選挙を辞めて余った時間で、私は、福島の原発事故地や八ツ場ダム、東日本大震災で液状化のひどかった千葉県の街などを見学に行った。行こうと思っていてもなかなか日々追われた生活の中で実現していなかった。そして、各地とも、ほとぼり冷めれば、そこにある現実は冷たいものであった。福島の波江町や双葉町では、誰も住んでいない街に、汚染土が集められた黒い袋が大量に並んでいた。この袋をどうするのだ。誰も知らない。八ツ場ダムは、谷底の人が地上の新築の家に移り住み、電車も開通していた。ここまで開発が進んでいて、前原元国交大臣は、途中で辞める判断を何故下すことができたのだろう。分からなかった。(その後の大臣が前原決断を撤回)。

 政治家はポピュリズムが故に判断することも多い。逆に、役人は、地方公共団体の窓口の性癖にも表れているように、前例踏襲が何より優先する。二つの勢力はぶつかり合うこともしばしばだが、政治家も役人も勉強が必要である。一つ一つの行政の正しい判断は、科学的分析、歴史的分析、経済政策上の必要性、法制度の習熟など、ハードルは高いはずだ。しかし、終戦後、国を建て直そうと情熱を傾けた大物政治家、戦前の高等教育を身に着けた官僚群の時代に引き比べ、現在では、政治家は選挙ゴロ、官僚は、国際社会の金融資本の第一線に挑む出来のいい学生の後塵を拝する「安定志向」が多い。劣化する日本をどうすればよいのか。AI(人工知能)が日本を救う日を待つしかないのか。

 私自身も、日本社会に貢献できたか。若き日のアメリカで身につけたウーマンリブを一貫して実行してきた。勿論、私本人ですら、意識的にやってきたわけではない。結果的にそうだと今振り返るだけだ。女性が社会的信頼を得、人のためになる仕事を実行していく考えは今も正しい。あまり女だ、男だ、などと声高に言う必要はない。私は、作家を諦め、学者を諦め、行政の道を選んだが、今の私の夢は、イノベーションを巻き起こすことだ。これは、作家よりも学者よりも、行政マンよりも難しい。だから、イノベーションに取り組む人の後押し、ベンチャー企業の協力などが私の今選ぼうとする道だ。少し、歩き始めている。

 私は、八ツ場ダムの帰り、群馬県中之条町を訪れた。総選挙中だから、地元小渕優子のポスターがいっぱい貼られていた。収支報告記載漏れで経産大臣を辞任したばかり、ポスターは黒い服を着て神妙な彼女の姿を現していた。しかし、地元の圧倒的人気で対抗馬すらまともに出られないような状況だった。そういう田舎町に100年前、祖父が営林署長を務め、父はここで生まれた。営林署を訪れ、実際に祖父が務めた記録も調べてくれた。父が生まれて、針葉樹の中に紅葉する木々で記念と浮き出るように植樹したのを咎められ、宮崎県の営林署に左遷されたと聞く。

 人生道に迷った時、先祖を辿ってみる。これはインドで学んだことだ。インド人はカースト社会のおかげで先祖を辿りやすい。我が家も苗字帯刀の地主だったので、比較的辿りやすい。本家は25-26代になっている。農商務省の勅任技師で、若いころは全国の営林署にいた祖父、曽祖父は宮城県の地主、そして高祖父は、なんと当時長崎から流れ着いた「紅毛人」と今伝えられている。明確には分からないがオランダ人との間にできた子供で、隠れキリシタンの多い宮城県に伝道師としてやって来たのだそうだ。地主の娘である高祖母と恋に落ちて婿になった。だとすれば私も32分の1はオランダ人ということになる。あまりそういうロマンは好きではない、私は、合理主義のウーマンリブだ。

 江戸時代末期から農家を離れていた家系だから、各世代前例踏襲はなく、東北の冷害の時、太平洋戦争の時、そして、大正デモクラシーの平穏な時代、自分の仕事の意味づけをして生きてきたに違いない。今の日本は、農家から離れた2世3世の時代、すべての人が人生の意味づけを考えざるを得ない時代になっている。自然の中で食料生産する産業は健全だ。だから、農家は精神が健全である。農家を離れ、自分の人生の意味づけがうまくできず、農村的人間関係から離れたときに適応できない人は精神を病む。工業社会以降は精神病が増える。

 ポスト工業社会、ポストモダンをどう意味づけして生きるか、分かりにくい言葉遊びのポストモダン哲学は我々に示唆してくれない。自分で自分の人生の意味づけをするしかない。2014年暮れ、中之条町で100前の祖父の存在を意識しながら、まだ人生の意味づけは変わらない、まだ政治から足を洗わないと思った。私は64歳だった。

 

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ウーマンリブ敗れたり(52)さらば民主。モラトリアム時代

2017-01-11 09:32:57 | 社会問題

 2012年11月、党首討論最中に、野田首相は突然、「三党合意を守る、選挙区の票格差を是正することに協力してくれるのですね、では、解散しようじゃありませんか」と叫んだ。対する安倍自民党総裁もその唐突さに驚いたくらいだ。自民党としては、もう野党はこりごり、早く解散に持ち込んで、この次の選挙は情勢からして勝つことは自明だと思っていた。 そうして始まった総選挙だ。このいきさつは「民主党の死体解剖」(2013年 非売品 ホームページの同名アイコンに収録)に詳しく書いたので、ご参照いただければ幸いである。

 民主党はどん底にあった。少なくも何か一つでも明るいニュースを提供して党勢を回復してから選挙にするのが常套であった。のちに聞けば、野田さんは自民党との連立政権を考えていて、自分は総理を継続するつもりだったそうだ。でなければ、来年度予算編成中に解散し、自分が追放される身になることを自らやるわけがない。ところが、自民党は勝ち過ぎた。自民党の単独過半数は行かないだろうとの野田さん側の甘い予測は外れたのだ。

 一期生143人中141人が票で敗れた。数人は比例復活したが、まさに全員死亡に近い。大臣経験者は、むしろ大臣経験者であるからこそ民主党失政の責任を問われて落選した。もともと選挙に強い松下政経塾と労組だけが残った。民主党は元の木阿弥になったのだ。ついでに、小沢グループも惨敗した。民主党と袂を分かっても、同情は集まらなかった。

 私自身の選挙も、2009年の票に比べ4分の1にまで減った。いかに脆弱な基盤だったかが判明した。現職なのに、掲示板のポスターすら張りきれず、演説会は数人しか来ないという有様。選挙の内側の体制すら整っていなかったわけだ。それに、現職弱しと見られて、維新の会など6人の候補者が乱立する選挙になった。私は、敗戦の弁を簡単に語って、これからどうすべきかに既に心は向いていた。結局、翌2013年の9月に総支部を解散し、一切の民主党会合を欠席して、党費を納めずに離党した。民主党の上衣を脱ぎ捨てたい気持ちが強かった。

 山口県から撤退するときは、勉強したい強い思いがあってオーストラリアに渡ったが、今回は気持ちが曖昧で、何か決心がつくまで時間を緩やかに過ごそうと思った。それまで休載していたブログをせっせと書き始めた。先ずは「民主党の死体解剖」。民主党で仲の良かった同僚に送った。好評だった。次には高齢者問題を書いた「長寿の涙」。政治哲学を世代間の会話で書いた「団子より花へ」。いずれも量的にまとまった段階で冊子にしたが、売り物にする気はなかった。むしろ自分のために書いたようなものだ。だんだん調子に乗ってきて、次は、小説にしようと思い立ち、「ザ・コーセーショー」を書いた。これも冊子にして、心ある後輩などに送った。「このモデルはXさんじゃないか」「とにかく面白い」という手紙ももらった。

 若き日に自分がなりたかったのは、作家であり、次には学者だった。だから、書くことは大好きだ。しかし、いすれも才能なしと思い、行政マンで飯を食ってきた。私が生涯にわたって莫大な時間を費やしたのは、行政であり、政治であった。政治をおいそれと捨てるわけにはいかない。私の出した結論はごく当たり前で、次期総選挙に無所属で出ようと決めた。事務所を土浦からつくばに移し、最小限のスタッフで継続することにした。

 地域回りを再開すると、真実が見えてきた。地元の支援者の最大公約数的意見は、「一度だけ民主党に賭けたが、うまくやれなかったので、自民党に戻ることにした」だった。私が無所属でやり直すことには賛成が多かったが、果たして「選挙に勝てるかなあ」と懐疑的でもあった。2014年末に早々と総選挙のチャンスが巡ってくるのだが、それまでの短い期間は、今にして思えば、私の人生のモラトリアムであった。働きづくめの私の人生初めての猶予期間であった。

 モラトリアムは、公には何もやっていない期間であったが、私的には変化があった。数理生物学を専門としている息子が北大で博士号を取り、東大数学科でポスドクをやるというので、私の家に帰ってきた。12年ぶりに親子一緒に過ごすことになった。私は、アメリカナイズされた考えであったから、子供は18歳になったら親元を離れるべきとの方針だった。彼は、この間、思慮深くなり、膨大な本を読みこなしていた。数学や量子力学の本が多くて、私は興味をそそられることはなかったが、彼の科学的説明は実によくわかった。

 その後、彼は国立研究所に就職し、北大時代に付き合っていた同窓の女性と結婚式も挙げた。結婚式の日、私は、かすかに涙ぐみ、息子はそれを目ざとく気付いていた。「お母さんたら、朝から泣いていたね」。息子の保育園卒園式でも涙が出たのを覚えている。他には忙しくて式なるものに出たことはないが、子供の節目というのは、自分のこと以上に感慨深いものである。ここまで成長してくれるとは有難いことだ。その思いは涙に形を変えて溢れ出てしまう。

 2013年8月、私は、アムステルダムからドイツに向かう列車の中で足元に置いた鞄をすり取られた。25歳から40年間、国際社会をほしいままに歩き回ってきた私が初めて遭った災難である。東欧からの移民かジプシーの仕業であろう。私は、日本国大使館のあるハーグに戻って、紛失したパスポートの発行まで、安宿を借りて過ごした。手元銭が少ないので、毎日、スーパーで缶ビールのハイネケンとサンドイッチなどを買って食べ、狭い街ハーグを隅々まで歩きつくした。人生には、悪い意味での節目もあって、離婚の時は給料袋を落としたし、政治的破局の今回は財布もカードも盗まれた。悪い節目には悪いことが起きるらしい。心ここにあらず、だからね。

 

 

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