未来を拾いに

aikoのことしか頭にないひとのブログ

のぼうの城

2017-05-06 00:47:58 | 紀行

はーいこんばんは。GWいかがおすごしですかー? 
日程発表されたときは札幌2Days行く気満々だったんだけど、飛行機とホテルが高いんですよねぇ(´Д`) 
それで節約しちゃったよあいこ会いたかったよあいこーーー(´Д`) 

なのでGWがものすごくヒマで。あまりにヒマなものだからおでかけしてきました。 
最初は別のところが目的地だったんだけど、外環道を関越方面に向かってたら、関越が大渋滞の道路情報。所沢IC〜花園IC断続渋滞15kmのときはまだいいやと思ってたんだけど、これに事故渋滞15kmが加わった時点で関越道行く気が萎えた。 

そこで行き先変更。大泉で降りて下道を北上。目的地は埼玉県行田市。「忍城」だ! 


「忍城」ってご存知?「のぼうの城」っていう小説がヒットになって、映画化もされました。秀吉の小田原征伐のときに、石田三成が総大将になって「水攻め」をしたんだけど落ちなかったっていうので有名な城だ。 

「のぼう」っていうのは、城主の成田長親のことです。この小説の設定で、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ親しまれていた領主だったという。この成田氏というのは、鎌倉時代からこのあたりに土着した有力豪族だったそうで、NHKの大河ドラマとか、歴史のドラマにたまに出てきます。 
よくあるパターンが、上杉謙信が関東に出兵するシーンですよね。謙信が上杉の姓と関東管領の職を譲られて、その職務に忠実に、関東にのさばる北条氏から関東の秩序を取り戻すのだ!というので、関東に出兵するんです。このときの謙信の勢いはすさまじく、関東の諸豪族を従属させて大軍で小田原城を包囲したりするんですが、この関東の諸豪族というのが、上杉がきたら上杉に従い、上杉が越後に帰って北条がきたら北条に従う、というのを繰り返すわけです。この「関東の諸豪族」のうちの比較的大きなやつの代表選手として成田氏が描かれていることが多いです。 

「のぼうの城」は、その頃からもう少しあとの話。 

「水攻め」というと、岡山県の備中高松城が有名ですよね。本能寺の変の直前、秀吉がまだ信長の家臣であった頃、中国地方の毛利氏を攻めていた頃の攻城戦が、「水攻め」だったんですね。こちらもまた、NHKの大河ドラマとか、歴史のドラマに非常によく出てきます。歴史上の超重要なターニングポイントだ。この水攻めをしている最中に京で本能寺の変が起こり、いち早くそれを知った秀吉が毛利方と和睦して、「中国大返し」をやって明智光秀を天王山で討つという。そして天下人への道を駆け上がっていくわけですな。 

この備中高松城は、aikoのライブの遠征ついでにいったことがありまして。これがすごくよかったんですよねーー。田園風景が広がっていて、川や低地の地形も残っていて。ところどころにある解説もわかりやすくて。確かにここにこの規模で堤防を造ったら、あのあたりは水没しそうだなというのが実感できた。歴史ロマンといいますか、当時の風景を感じさせてくれる場所であったとおもいます。 


忍城の水攻めは失敗に終わったと言われています。まぁ、そのほかの関東の諸城はほとんど陥落して、小田原城も陥落して…なのにまだ落城していなかったわけですから。だから、この後も、「大軍を与えられながら忍城を落とせなかった」ことは三成の黒歴史みたいになってついてまわることになった、ってていでよく描かれます。 
石田三成というひとは、朝鮮出兵の兵站を担当したり、後に日本を二分して、西と東で家康を挟撃とかいうような大戦略もできるひとだったんでしょうが、結局は戦下手で、文官みたいな仕事しかできないやつ、っていう悪評が(当時から)ついてまわることになると。「真田丸」ではけっこうマシに描かれてましたが、三成のイメージっていうか、そういう三成像はある種パターン化定番化されています。 

もっとも、この「水攻め」の発想は三成の発想によるものなのか、秀吉の命によるものなのかは、学者の説も分かれてて微妙なところなんだって。 


前置きが長くなりましたが、こういう話を事前に知っておくのはだいじなんですよ。修学旅行で京都にいく前にも、事前に歴史のことについて学習してからいったでしょ?ただ行くより、そういう諸々のことを知ってから訪れるのとでは、感じ方、感動、そういうのが全然違うものなのです。わかりましたか。 


今回もそんな歴史ロマンにふれられることを期待していってみました。 


「忍城」は、カーナビには「行田市郷土博物館」で行くといいと思います。駐車場も小さいながらあって、第一駐車場と第二駐車場ね。国道125沿いにいくといいかと。入館料200円。閉館は16:30、入館は16:00までと早めなので注意。 





天守閣ではありません。「御三階櫓」というのが復元されています。それっぽい建物を造って観光にきてもらおうというよくあるやつですね。この建物を含めて、行田市の歴史や産業を紹介する博物館になっていました。展示品はそんなにはたいしたものはなく。ただ、なんとなくこのあたりの歴史と地理をおさらい。 

忍城は、成田氏のあとは阿部氏(幕末に有名な老中・阿部正弘というのが出ますがその阿部家の分家)、奥平松平氏がきたそうです。江戸も近いし、代々譜代大名が治めたんですね。 

地形図や模型は参考になりました。当時は低湿地で、池沼に囲まれたお城で、近くに河川もあり、それが天然の要害になっていて、攻めるに難く、守るに易い城だったとか。なるほど、水攻めにしたらいいんちゃうか?っていう発想になるのもわかるような気がする!のですが・・・ 

石田三成が作ったという堤がどこにあったかというパネル図。城の南側に赤い太線で図示されています。Googleマップでみると、ほんとうに長大。「総延長28km」っていうんだけど、長大すぎて、ほんとうなんかなこれ?って疑ってしまうほどだ。これ、もし本当だったら、ものすごい量の水が必要になりますよ。例えば、猪苗代湖の周囲長が約50km。それに近いくらいの湖を造る勢いの長さの堤、ということになってしまいます。 

ちなみに、備中高松城の堤は4km程度であったそうです。実際、現地にいくと、「ここからここまで」に堤があれば、確かに城が水没しそうな場所に堤が築かれたことがわかると思います。そして、備中高松城にも堤の跡があるが、まるで小山のようで。確かに太くて高い堤なんですねこれが。 

後ほど、「石田堤」というのも見に行ったのですが、これがちゃっちくて。水攻めしたっていうけど、それは口だけで、備中高松城みたいに本気ではなかったんじゃないかなあ、って思えました。 


忍城は早々に切り上げて次は「さきたま古墳群」へ。クルマで10分くらい。すぐ近くにあります。 





「埼玉県」の県名発祥の碑。「埼玉県」というのは、ここの地名である埼玉「さきたま」からとったのだそう。 





駐車場は広大で、きれいな公園に整備されていました。そして、ここはよかった! 
「さきたま史跡の博物館」というのがありまして。こちらも閉館16:30、入館は16:00までなのと早いので注意。小さな博物館なのですが、国宝がごろごろ展示されていました。もちろん古墳時代のね。 

この展示は行田市郷土博物館とは比べ物にならないくらいすごかった。 



主役はこれ。撮影禁止なので拾い物画像ですが、国宝「稲荷山古墳出土鉄剣」。これが展示されています。本物です。詳しい説明は省略しますが、窒素か何かの真空パックで保存されているんだそうです。本当にホンモノ。すげーーーわーー! 

小中高の学校の歴史や社会科の教科書や資料集に写真付きで絶対載ってるやつ! 

「稲荷山古墳」っていうのは、このすぐそばにある古墳ね。そこから1968年に出土したんだって。 

もうすげーー錆びているけど、この鉄剣がすごいのは、そこに刻まれた文字なんですね。 





こういうのが刻まれています。「獲加多支鹵大王」と読めます。 

古墳時代というのは、天皇や豪族のお墓が日本各地にたくさん作られて、銅鏡とか勾玉とか埴輪とかの副葬品が遺体と一緒に納められて、土器とか鉄器で生活してて〜〜、っていうような時代らしいのですが、謎が多い時代とされています。なんで謎が多いかというと、文字がたくさん書かれた木簡の史料ができる前の時代だからなんですね。だから、こういう刀とか銅鏡とかに刻まれた数少ない文字というのがものすごい手がかりになるんだと。文字の記録は、中国の王朝の記録か、こういう剣とかに刻まれたのしかないんだからそりゃそうだわな。 

刻まれている文字は表面と裏面あわせて115文字。 

(表) 
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比 
(裏) 
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也 


読み下すとこんな? 

(表) 
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」 

(裏) 
「其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」 

―wikipediaより 

要するに、この鉄剣を作ったひとが、自分はこれこれこういう者である。私はワカタケル大王に仕えて剣をたくさん造ってきた。その証を記すものなり!っていうメッセージを後世に見事に遺したわけですねぇ。それも1500年ものちの世に!なんかもう感動しかないだよ(ノД`) 

重要なポイントが2つで、ひとつが、「獲加多支鹵大王」の文字。同じような「獲□□□鹵大王」という文字が刻まれた鉄剣が、熊本県の江田船山古墳というところから先に出土していてですね、この稲荷山古墳の鉄剣が出土したことによって、この熊本のほうの鉄剣の文字のうち読めない部分が明らかに(といっても「まずたぶん同じだろう」くらいなもんだと思いますが)なったこと、そして「埼玉の古墳から出た鉄剣と、熊本の古墳から出た鉄剣に、同じ大王の名前が刻まれている!」ってんで、当時の日本の王朝が関東から九州までの一円に影響を及ぼしていた!ということがわかった!ということなんだって。 

もうひとつが、「辛亥年」の文字。詳しい説明は省略しますが、「471年」とするのが定説だそう。これで「この剣に刻まれた話がいついつの話か」が明確です。これがわかると、中国の史書の記述と照合することができます。で、『宋書』っていう書物に、いろいろと「倭の国」のなんちゃら王から使者がきたとか、献上品があったとか、なんちゃら王が死んで息子のなんちゃら王に代替わりしたとか書いてあるんだそうですが、鉄剣の文字と中国の史書を照らし合わせると、『宋書』の「倭王 武」っていうのが、年代とかいろいろから推定するに「獲加多支鹵大王」のことであり、日本書紀に記述されている「雄略天皇」のことではないかと、そういうこと「ではないか!?」という数少ない貴重な手がかりになったんだぜ、っていう…そういうすごい鉄剣(というかそこに刻まれた文字)というわけですね。 


いつだったか東京国立博物館でみた志賀島の「漢委奴國王」の金印も感動モノだったけど、それと同じくらいの大きさの感動があったよーーー! 
常設展示でいけばいつでもみられるのでみるとよいと思います。一見の価値ありだ。 



…話が長くなってしまった。 

「さきたま古墳群」っていうくらいだから、このあたりには大小の古墳があります。多くは「前方後円墳」です。いい天気でよかった! 



愛宕山古墳 



瓦塚古墳 



鉄砲山古墳 



二子山古墳。これは比較的でかい!古墳のかたちしてるでしょ?! 



将軍山古墳。石室が見られるのですが、16:00オーバーのため閉館でした。残念 



稲荷山古墳。例の鉄剣が出土した古墳です。現在は前方の「方墳」の部分しか残っていなく、後方の円墳部分は復元だそうです。 





丸墓山古墳。日本最大の円墳だそう。高さ18.9m。 
ここはこのあたり一帯を見渡すのに最良の場所であるため、忍城の攻城戦のときに石田三成が陣を置いた場所なんだって。 





丸墓山古墳の頂上からの景色。正面に忍城。 
三成もこの景色を見ながら、いっこうに水没しない景色に、焦っていたのかなあとか。 


…というところで古墳群を後にして、最後に、ここにだけ残っているという「石田堤」の跡へ。こちらもクルマで5分くらいのところにあります。駐車場もあったよ。 





この道の右側沿いの250mほどの土塁が「石田堤」なんだとか。低いし幅もないしで、ほんとうにこんなので本気で水攻めしようとしたのか疑ってしまう規模です。まぁ、もう壊されて残っていないのだろうけど。 





いまは松が植えられている、ちょびっとな土塁。 





250m先には「堀切橋」という橋。昭和1桁の頃に架橋されたんだって。「堀切」というのは、ここの堤防が崩れたために水が切れて水攻めが失敗した、という由来からだそうですが…。 

このあたりも公園として整備されていました。小田原征伐の説明のパネルがあったり、ちょっとした見晴台があったりね。なんだけど、地元のひとがときどきランニングや犬の散歩にくるくらいで、観光客はまばら。 





帰りはずっと下道で帰ったけど2時間かからないくらいで到着。近場にこんな新鮮な感動がある場所があったなんて!っていうね。よかったです。 

明日もヒマ。どこにいこうかなーーー 


では、また。 

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