10月5日の千葉日報に、「シルバー川柳」の記事があった。
全国有料老人ホーム協会の、入居相談室長五十嵐さち子氏が、2001年に始めたものらしい。協会の20周年記念事業の一つとして始められ、全国に公募したものだという。そんな経緯はまるで知らなかったが、掲載されている川柳に気持ちがスッカリ奪われた。
ボケもよい 昨日の喧嘩もう忘れ
岡山県の72才の男性の句に、思わず笑わされた。そしてまるで私の似姿のような、意地悪爺いの次の句が、たまらなく面白い。
金がいる 息子の声だが電話切る
断固として人情に背を向け、意地を張る元気老人の姿が浮かぶ。しかし何時までその意地が張れるのか、皮肉な気持ちもチョイと生じる。
親よりも 先に逝くなと百の母
こんな句は身につまされて、笑った。95才の母は、私が帰省するたび、自分より先に死んだら親不孝だと説教する。73才になり、健康に自信がなくなりつつあるのに、それを言われると、どっと疲れを覚える。死ぬ気はないが、「死んだらその時はその時」と割り切っている私だ。母の気持ちに添えなくとも、それは神様が決めることと腹をくくっているが、本音を言えば母が悲しむから黙っている。大事な母に、会う度に言われるので、他人ごとでなく身につまされる笑いだった。
やっと立ち 受話器を取れば電話切れ
奈良県の63才の女性の句も面白い。いつも経験する忌々しい思いだが、これを川柳の笑いとしたところに感服させられた。
どういう人達が作っているのか知らないが、ほとんどがごくごく普通の老人であるようだ。この記事を読んだ感想はただ一つ、「ここに理想の老い」がある。
末期がんでベッドに横たわっていた父を、東京から見舞いに駆けつけた私は、伸び放題になった父の髭が気になった。病院から借りたのか、妹が買いに行ってくれたのか忘れたが、私が父の髭を剃った。
「ああこれで、またデイトに行ける。」
そう言って笑い、立つことができない身になっても、冗談を忘れなかった父だった。だからもちろん、父は私の自慢の親だが、それでも最後の日が近づいた時は、意識不明となり、目が開いていても、誰とも会話ができなくなった。
私は、死というものの無残さを知っているつもりでいるが、それでもこうした川柳を読む人々の姿を「理想の老い」として、敬意を払わずにおれない。くよくよせず、深刻にならず、日が昇り日が沈む日常の出来事のひとつとして、死に向かいたいと願っている。難しいことなのか、案外簡単なのか、その時に臨まないと分からないが、ずっと以前から手本にしたいと思っている人物がいる。
「東海道中膝栗毛」を書いた江戸時代の作家、十返舎一九がその人だ。折に触れて思い出すのが、この人の辞世の句だ。憧れてやまない「理想の老い」というより、「理想の臨終」だ。さて、その句。
この世をば どりゃお暇に線香の 煙とともにハイ(灰)さようなら
息子と真剣に?喧嘩するのですが、何を怒っていたか直ぐに忘れ、コスモスは「ボケもよい 昨日の喧嘩もうわすれ」です。
昨日の喧嘩どころか、数分のことまで忘れてしまい、息子を悩ませております。
onecat01さんのお父様は冗談好きな方だったのですね。
私の身近な方に娘さんに「本当に楽しかったね。」と最後の言葉を残されましたが、ある歌手のお父様は「あ、今足が冷たくなってきた・・・初めての経験だからわくわくするぅ」と実況しながら亡くなったとか。
新しい世界への旅たちもまんざらではないと楽しみなコスモスです。
onecat01さんは、母様を安心なさらないと…ね!
楽しいブログを有難うございます。
早速のコメントを有難うございます。お互いに「シルバー川柳の」年代に差し掛かっておりますが、陽気に明るくやりたいものですね。
どんな最後がやってくるのか、野次馬根性の塊ですから、私はそれが楽しみでもあります。怖いもの見たさの子供の心・・・・・と、そんなものかもしれません。いずれにしましても、私の見ますところ、コスモスさんも立派な川柳仲間の資格ありと、お見受けいたしました。(川柳でなくても、あなたのコメントにこそ楽しい笑がありました。)
楽しいコメントを、こちらこそ有難うございます。
denkadenkadenka@gmail.com
http://otokogumdoronikazu0000000.blog.jp/
コメントを読ませていただきました。
今までも、数名の人から転載の申し出がありましたが丁重にお断りして参りました。甚だ勝手ながら、そういうことでお断りさせて頂きます。
denkadenkadenka@gmail.com
http://otokogumdoronikazu0000000.blog.jp/
今回の記事も笑いがこぼれました。
これからもよろしくお願いします。
追記
最近は忙しさに身を任せようという感じで目の前のことを実行していき、悩みを克服しようとしています。
意識がなくなって脳死に近い身内を看取った私に、
そばに付き添う妻子の呼び掛けにも答えない人が
反応した経験が数度ありました、
一人はハッキリと言葉を返し、別の人は私たちの会話を聞きながら息を引き取りました。
その顔は、穏やかで安心したように旅立ちました、
もしも、川柳を残すならどんな言葉を残すでしょう?
あの世に呼びかけて見たいものです。
onecat01さんは、そんな事を考えさせてくれる。
返事が遅れまして、申し訳ありません。コメントを承認制にしましたが、後のやり方が分からず、本日まで日が経ちました。コメント管理欄をみればよかったのですね。
忙しさも一つの工夫ですね。貴方のように繊細な人は、ズボラになることが必要なのです。一生の価値は、死の床で決まります。最後に笑うものが最もよく笑うものであるという、ロシアの諺が私は好きです。どんな悲惨な目に会おうと、自分が「いい人生だった」と笑顔で言えたら良いのです。他人でなく、自分の心が決めます。
ズボラのことを別の呼び方で、楽天的とも言います。生真面目な貴方が、楽天的という杖を手にされたら、これこそ「鬼に金棒」だと思いますよ。
貴方のコメントが来ないので、どうされているのかと気になっておりましたが、原因は自分にありだったのですね。
コメントを承認制にしましたが、後のやり方が分からず、本日まで日が経ちました。やはり、自由にしたほうが良いのかと思いますが、今度は解除の方法が分かりません。機械音痴の悲しさです。
さて、辞世の句ですが、いったいどんな風にして作るのでしょう。いつ、どこで、作るのか。死の間際にそんなことをしていたら、死ねなくなるのではないかと、そんな心配もしております。