ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

毛沢東秘録・下 - 2

2016-10-08 19:36:26 | 徒然の記

 文化大革命における紅衛兵たちの武闘は、1968(昭和43)年になっても衰えなかった。解放軍の部隊が襲われ、武器が奪われ、将兵が殺傷された。

「天下大乱して大治至る」と、当初は混乱を肯定していた毛沢東も、自ら統制できないほど情勢が乱れたため、直ちに武闘をやめるよう指示した。毛沢東は紅衛兵のリーダーである蒯大富(かいだいふ)と、女性リーダーの聶元梓(じょうげんし)との引見を決めた。

毛沢東は、彼らを前に厳しい口調で言った。「文化大革命は2年やったが、君たちは一に闘争せず、二に批判せず、三に改革せずだ。」驚いている彼らを前に据え、毛沢東は大声で言った。「闘争はしているが、君たちが大学でやっているのは武闘だ。」「今や労働者、農民、兵士、住民だれもが歓迎しておらず、君たちは大衆から離脱している。」

「紅衛兵は、実際は抑圧を受けています。」と、対紅衛兵工作隊の進駐に、一人が不平を鳴らすと、毛沢東の声がさらに大きくなった。「紅衛兵を鎮圧した黒子(黒幕)は、私だ。」文革発動期に、青年リーダーたちに抱いていた毛沢東の期待感は、すでに失望に終わっていた。

「いま全国的な布告を出そう。」「法に違反し、解放軍を攻撃し、交通を破壊し、殺人、放火をすれば犯罪だ。」ここで毛沢東は腹立たしげに腕を振り上げると、どすんと腰を下ろし声を荒げた。「それでもまだ、頑固に抵抗を続けるのなら、殲滅する。」

かって文革の尖兵として利用した紅衛兵に、毛沢東が下した断罪であり、決別宣言だった。わずか数日のうちに全国の大学、中学、小学校は、党の管理下に置かれ、学生たちが次々と農村や工場へ下放された。こうして紅衛兵は、政治の表舞台から姿を消した。

(毛沢東の権力がどれほど強大だったか、その一端を知る叙述だ。彼は共産主義国家建設のためなら、なんでも利用し、何でも打ち捨てた。紅衛兵、劉少奇も、自分のためにならないと判断すれば、切り捨ててしまう非情な政治家でもあった。)

 林彪は、1959(昭和34)年に国防相となって以来、毛沢東への個人崇拝を高めるため、一貫して努力を惜しまなかった。毛沢東が発動した文化大革命の熱狂の下地を作って来た彼は今、深い挫折感を味わっていた。第9回党大会において、党規約で毛沢東の後継者と明記され、ただ一人の党副主席となったが、彼が目指しているのは国家主席の座だった。

 ところが江青派は、彼の国家主席就任には否定的だった。文化大革命中は修正主義者排斥で互いに協力したが、林彪が国家主席になると、権限があまりに集中し、自分たち四人組の弱体化が避けられないと考え始めていた。毛沢東が文革を収束させ、紅衛兵を非難し始めると、いち早く江青派は自分たちの行き過ぎを反省し、毛沢東への忠誠を誓った。毛沢東による突然の路線変更のため、林彪と江青派との間に隙間風が吹き始めた。

 毛沢東が紅衛兵の活動を停止させたことは、右派排斥の運動が停止することであり、実務派との戦いが再開する。実務派には周恩来や、党長老である葉剣英、劉伯承、朱徳などがいて、実務派の力が盛り返してくる。元国家主席劉少奇の復権はないとしても、鄧小平について劉少奇には不安があった。彼はこれまで毛沢東の言葉を、一語も逃さず聞いていた。

「鄧小平は、劉少奇とは違う。」「政治報告の中で鄧小平には触れるな。」「鄧小平をさらに攻撃したい連中がいるようだが、しばらく放っておけ。」「一年、せいぜい二年も失脚させれば十分だ。」「文では劉少奇、周恩来にひけを取らず、武でも彭徳懐と肩を並べる。」

林彪は後継者と明記されても、現実には何の権限もなかった。行政や外交は周恩来ら実務派が握っており、入り込む余地がない。林彪の地位は党規約に書き込まれたが、毛沢東の考えが変わればそれも空文になる。私が後継者だという保証はない。劉少奇も後継者だったではないかと、彼は考えるようになった。

 ソ連の政府首脳と親密な林彪は、毛沢東が、これまで敵としてきた米国と交渉し、ニクソンとの会談を目論んでいる事実を前に、さらなる不安を募らせた。もともと病弱だった林彪は重要な会議を欠席するようになり、麻薬常用者となって健康を害していく。

(こうした叙述を辿っていくと、毛沢東がいかに権謀術数の人間だったか分かる。右派が行き過ぎると思えば、過激な左派の林彪や江青夫人たちを使い、左に寄りすぎると実務派の右派を重用する。毛沢東は事前の説明をせず、ほとんど独断で決め命令を出すため、周囲の人間は右往左往した。単にうろたえるのでなく、生殺与奪の権を握る毛沢東の命令には、彼らの命がかかっている。)

(もともと個人崇拝を嫌っていた毛沢東は、文革の嵐が収まってくると、自分を祭り上げて利用した林彪や江青たちを苦々しく思うようになった。毛沢東の気持ちの変化が、次の文章で明確に語られている。)

文化大革命では、林彪が次々に生み出す毛沢東礼賛のスローガンに自ら乗ったが、文革の熱狂を終わらせるには、地に足のついた歩みが必要になっていた。毛沢東は米国人ジャーナリスト のエドガー・スノーと執務室で会見し、はっきりと語った。「ここ数年は、個人崇拝の必要があったが、今では必要ない。多くは形式主義でやっている。」「例えば、四つの偉大(偉大な教師、偉大な指導者、偉大な統率者、偉大な舵取り)が、煩わしい。」

 四つの偉大は林彪が唱えた毛沢東への賛辞だが、それを否定されては、林彪の否定と同じだった。林彪は、毛沢東がそのようなことを言っているのを知っていたので、追い詰められているように感じたに違いない。

(こうしてみると、毛沢東も単細胞な独裁者でないことが分かる。賛辞に飾られても有頂天にならず、政治を動かしていく彼の冷徹さは、恐ろしいとしか言いようがない。林彪は剛毅な人物かと思っていたが、実際には繊細で病がちの将軍だった。策士策に溺れるという言葉の見本のみたいな人間で、苦境になると自ら滅亡していく。)

(日本人の間で信じられている毛沢東の偉大さが、実際にどんなものであったか。一党独裁の政治が、どんなに恐ろしい制度なのか。それらをひっくるめ、共産党政権の悲惨さと残酷さを拡散したいと、私は思う。疲労感が強くなっても、お花畑の日本人の覚醒を願って、面倒でもこの本の感想を続けたい。共産党と民進党左派へ政権を渡せば、こんな日本になるのだと警鐘を鳴らしたい。)

(このように危険な中国の首席夫人と、楽しそうに音楽会で肩を並べられる皇太子殿下や、反日左翼の「九条の会」のメンバーと親しくされ、「平和憲法を大切に」と、語られる美智子様には、何としても目を覚まして頂きたい。人権や平和を語る彼らは、政権を手にすれば皇室を破壊する者たちですぞと、お伝えしたい。皇室を無くすことは、すなわち日本の崩壊なのです。善意からかもしれませんが、美智子様がなされていることは、そうした危機につながっております・・・・と、どうすれば伝えられるのだろう。)

(先ずは、共産党と民進党の左派議員に投票しないこと。国会の議席を与えないこと。自民党内の反日・売国議員の掃除は、その後からだって遅くない。自民党内の害虫議員は、敵対国と意を通じているわけでなく、金に目のくらんだ愚か者たちだから、そんなに慌てることはない。)

 

 (しり切れトンボみたいになったが、今日は、ここで終わりたい。)

(次回は毛沢東の暗殺計画、ソ連へ逃亡する林彪、飛行機事故で死亡した林彪一家につき、本に沿って述べるとしよう。)

 

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