ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

私の昭和史 - 5

2017-08-05 18:31:48 | 徒然の記

 「家永三郎博士の日中戦争観」と表題をつけ、白石氏が意見を述べています。反論という強い調子でなく、語りかけるような叙述です。122ページから128ページまで、7ページを使っていますから、真摯な意見です。

 「ここで私は、日中戦争に対する独特の見解を持つ、家永三郎博士の著書、」「 " 太平洋戦争 "  より、抜粋借用して、読者各位に披露し、」「判断を仰ぎたいと思う。」

 家永氏の著書を読んでいませんので、ハッキリしたことを言えませんが、氏が引用した文章を見ると、家永氏は日本軍の国際法違反と、国際戦争犯罪の事実を強調しています。日中戦争に関する氏の意見の特色は、他の学者のような中国侵略に重点を置かず、ソ連共産主義との戦いであったと断定するところにあるようです。

 ドイツ・イタリアとの三国同盟も、真の目的はそこにあるとし、日中戦争の最中でも、ソ連国境に達すると、日本軍は故意に武力を行使し、進んでソ連との戦闘を交えたと、主張します。昭和13年の張鼓峯事件も、昭和14年のノモンハン事件も、日本軍が行った威力偵察から始まったという意見です。

  白石氏の反対意見を、転記してみましょう。

「家永教授は、徹頭徹尾、日本の帝国主義の支那大陸侵略の跡付けと、」「日本陸軍軍閥の野望達成のための侵略行為と、その論断に終始しているかに見える。」「概して敗戦後の、大方の学者や文化人と称される人たちは、」「今次大戦の戦争責任は、すべて日本側にあるという考え方で、」「大同小異一致しているようである。」「しかも大筋において、連合国側の極東軍事裁判の判決の内容より、一歩も踏み出していない。」

「筆者は、敢えて勝者の横車とまでは言わぬが、」「これらの人たちに反論する、一つの論拠として、」「私の体験や実際の見聞を基礎にして、」「ノモンハン事件勃発前夜の現地の状況を、申し上げたいと思う。」

  白石氏はノモンハン事件が始まる1年前に、関東軍特務機関員として、8ヶ月をかけて現地を踏破しています。あたりは密林地帯で、国境らしい柵も無く、知らぬ間にソ連領に入ってしまうことが度々あったといいます。付近の灌木が切り払われ、国境の明確な場所もあるが、入り組んだ丘陵や湿地帯が多く、日本軍は故意に越境し、戦闘を行ったのでないと反論します。

  さてここで寄り道をし、家永氏個人について述べたいと思います。私は先日「変節した学者たち」と名づけたブログの中で、氏のことを取り上げました。重複を厭わず、転記します。

 氏は大正2年に愛知県に生まれ、昭和12年に東京帝国大学の文学部を卒業し、平成14年に89才で亡くなっています。日本の思想家として著名な氏は、東京教育大学の教授を長く務め、東京大学や東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当していました。ここで氏は学生たちに、占領軍の対日本政策が、民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張も再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると教えました。

 「当時の教科書で、愛国という言葉が使われておりましたが、」「もとより広い意味での愛国ではなく、」「軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された、国家主義という意味での愛国を意味するものでありました。」
 「学校では基本的人権を教えるより、むしろ権力者に対する、国民の従順な気持ちを養成しようと、」「こういうことに、なってしまったのであります。」

 「私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、」「実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると申し上げたいのです。」「せっかく日本国憲法の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、」「政府が、教育を通じてこれをなし崩しにしようとしているのです。」

 反権力的自由主義者としての氏は、その活動がマスコミにこぞって支援され、戦う自由主義者として有名になっていきます。長くなるので詳細は省きますが、昭和29年の「東大ポポロ事件」、昭和34年の「東京教育大学(現筑波大学)の移転問題」、昭和40年の「教科書検定違憲訴訟」など、いずれも、権力をかざす政府や大学と戦う教授として、新聞を賑わせ、学生たちからの大きな共感を得ています。

 ここで私は、ネットで偶然見つけた氏の友人の話を、真偽のほどは分かりませんが、参考情報として再度転記します。

 「家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には陸軍士官学校の教官を志望していた。」「試験に合格しても、胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。」

「戦後は、昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に、」「歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。」「昭和22年に、"教育勅語成立の思想史的考察" という論文を出し、」「昭和23年には、" 日本思想史の諸問題" という論文を出し、」「家永は、明治天皇と教育勅語を高く評価している。」

「また、昭和22年に冨山房から出版した「新日本史」でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、」「戦後も、数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。」「家永の思想が反権力的なものに変化したのは、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、」「憲法と大学自治に対する、認識の変化があったといわれている。」

 信念をもつ学者なら、世の中がどう動こうと変わらないはずですし、まして自分が一緒になって豹変してどうするのでしょう。反戦と平和、人道主義の朝日新聞に、沢山の話題を提供したためでしょうか。氏は、亡くなったのちにも朝日新聞から厚遇され、持ち上げられました。
 
 朝日新聞の追悼記事では、父親に先立たれた家永氏が、貧しい生活の中で学問に打ち込んだ、と書かれていましたが、父親が亡くなったのは、氏が35歳のときであり、既に勤務して2年が経過していました。しかも父君は、陸軍少将・家永直太朗氏であり、陸軍少将の恩給は父君が死ぬまで月額240円前後が支給されていました。小学校の校長の月給が、100円前後の時代ですから、とても貧しいとは言えず、家永氏が苦学したという話は大嘘でした。捏造の追悼記事を書いたのは、朝日新聞の高橋庄太郎記者です。
 
  サンゴ礁損傷の嘘記事、慰安婦記事の大嘘など、いずれも社長が辞任した捏造報道ですが、朝日の記事捏造癖は、常に不動だったことが分かります。国民が気づかなければ、誤報でも嘘でも頬かむりする朝日の、卑しい体質がここでも表れています。
 
 家永氏の話ですっかり本題が外れましたが、この豹変した家永氏の姿こそが、白石氏の心の中心にあったのでないかと、私は推理いたします。つまり氏の父君が、「陸軍少将」であったことを、諜報機関にいた白石氏が知らないはずはなく、愛国者である氏は、家永氏の豹変が、許せなかったのではないでしょうか。悪し様に攻撃していないのは、少将へ礼節であり、子息である家永氏への思いやりだったのかもしれません。
 
 これは私の勝手な想像ですが、氏は家永氏と同じ大正2年生まれで、同じ時代を生きていたため、父君を裏切ったような家永氏の無節操が許せなかったのかもしれません。なぜなら氏は、関東軍憲兵司令官加藤中将の言葉を胸に刻み、シベリアから帰国した軍人だったからです。
 
 満蒙開拓団やノモンハン事件の悲劇、ソ連軍の侵入と関東軍の消滅など、まだ多くのことが書かれていますが、書評はここまでと致します。しばらく休憩して、そうです、庭の水やりやバードバスの掃除などして、白石氏の著書との巡り合いをゆっくり噛みしめると致しましょう。
 
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