『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章3段落_1

2016年09月21日 | 『自由の哲学』
ほんとに、人の精神は私たちが生きている現実の中にある。
また、現実を抜け出して高いところに探しに行く意味もない。
そもそも、この世を解き明かすのに必要なすべてが、
この世にあるからだ。

哲学者が「きっとあっちにあるはず」と言って、
それでヨシとするものがあるなら、
それをあっちじゃなくてこっちに置いても、
同じようにヨシとすることができるはずだ。

そのあっちやこっちに置く内容は、
私たちの生きた考えの中に潜んでいる。
世を抜けて高いところに、それを探しに行くというのは、
見かけだけのことだ。

そして、勝手にあっちに置いた原理は、
世を説明する時に、
こっちの世界に根ざす原理に勝るとは言えない。

考えるとはどういうことか。
それをわかって考えることによっては、
「あっちの世界に原理があるから」みたいな
都合のいい「あっちの世界」に決して逃げ出さない。

そもそも、ある考えの内容は、
あっちの世界ではなく、こっちの世界の覚えに基づき、
覚えと考えとの両方で、まるごとの実になるものだからだ。

また、ファンタジーの客(思い描くこと、
たとえば、こういう人生を実現したいなど)も、
ただの夢想ではなくて、しっかりとした思いにして、
身の回りのある覚えの内容と重ねるに至って、
その内容を実演する、ということになるからだ。

思い描くことも、
覚えの内容を通して、現実のひとつとなっていく。



「考えが現実になる」だかなんだかいう、
自己啓発本(「思考が現実化する」だっけ??)
の古典があったけれど、あれはおもしろかった。
「引き寄せの法則」とかも似てるけど。

んで、この一節は、
「その元ネタか?」というような内容。
あの分厚い本がこの数行だけで表現されるとしたら、
やっぱり、この本を読むのに時間がかかるわけだ。
納得~。

骨組みだけ書いてあるから、
その骨組みを一人ひとりが理解し、
それぞれで膨らませていくことで、
ホントに自分向けの「自己啓発」になる。

せっかくだから、そういう読み方、してみよう。

「何かがわかる」というのは、どういうことか。
○○さんがわかる、とは、
プロフィールを知っていることではなくて、
友達になって、○○さんを知ることのはずだ。
つまり、○○さんの中に○○さんがある。

「この絵が好き」というのは、
この絵のプロフィールや背景を知っていることではなく、
そういうことを全く知らなくても、
この絵が好き、ということに尽きる。

この絵のどこが好きなのか、
この絵の描かれた時代だとか、ましてや値段だとか、
そういう背景がどうあれ、
この絵が好きだ、という状態を説明するには、
この絵と自分との関わりを見るだけでいい。
外のことは、本質ではない。

音楽を聴くのも一緒。
高いコンサートは、やっぱりしっかり聴こうとするけど、
んで、やっぱり感動もするけど、
子どもの何気ない鼻歌に感動することだってあるわけで。

自分の感動の条件、というものを説き明かそうとしたら、
自分と感動したものの対象を見る。
それに尽きるのですね。
その他の付随条件は、オマケにすぎない。

そこに自信を持ちたいですね。
スーパースター(って誰だ??)の講演と同じように、
子どもたちの会話にときめく。
ゴッホの絵と同じように、子どもの絵に心躍る。

そんなことができる人は、
もしかして、自分の感じ方に自信があって、
何モノにも囚われずに自分の感性を柔らかく保ち、
生身で世に向き合っている人かもしれないな。

いや、「○億円の絵」とか
「S席2万円」みたいな肩書きがあると、
「感動しないなら、自分に見る目がない」と恐れるように、
やたら感動ポイントを探してみようとする私に、
自戒を込めて(^^;)。

相手の中で生きたら、相手が教えてくれますよ。
自分の中に空きを作って、そこに迎え入れたら、
そこで相手が生きて語ってくれるはずだよね、って。

耳を澄ませて。

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