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聴いたCD ベートーヴェン:ピアノ・ソナタVol.8(第12~14,19~20番)/コヴァセヴィッチ

2016年10月18日 | クラシック
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタVol.8
 
EMIミュージック・ジャパン

 

 「べートーヴェンは「怒り」か?」


 最近、たまたま聴いたシューベルトのCDがすごく気に入り、興味を持ったスティーヴン・コヴァセヴィッチ。

 で、もともとベートーヴェンが得意ときいて早速この盤を見つけて聴き始めたのだが、しかしほどなく解説書に

 「ベートーヴェンという作曲家は彼自身のなかに怒りを秘めていた人」

 という一言を見つけて、その途端にもう音楽を聴くどころではなくなってしまった。「怒り」。そうか、そうだったか!!

 (以下、興奮のあまり、あまり脈絡なく当方の驚きをぶちまけてしまいますが、お許しください)

 いやもう何というか、伝わりにくいかもしれないが、この「怒り」という言葉を見た瞬間、まるで頭の中で電気が走ったように感じた。

 いやあ、こうして長年クラシックを聴き続けてきて(昔は多少実践もして)、以前は食わず嫌いながらもベートーヴェンの音楽にある程度は接し続けてきて、最近ではわりと聴くようにもなり、そんな中で自分なりに色んなことを感じてきたつもりだったが、この「怒り」という一言が、なぜ一度も思い浮かばなかったか。

 そう、まさに「怒り」だったんじゃないか。なぜ、自分は最初の頃、ベートーヴェンをイヤに感じたのか。遠ざけたかったのか。なぜ意識的にベートーヴェンを受け入れようとすると、罪悪感めいたものを感じていたのか。

 その暑苦しさ。圧迫感。なぜ静寂の後に、突然のしばしば震えるティンパニ付きのトゥッティがああも多いのか。また、気づけばあのベートーヴァンのトリルは、単なる装飾なんかではなく怒りや焦燥に近い神経の震えだったのではないか。そして「怒り」とは、「暴力」性を含んだ言葉ではなかったか。とすれば、ベートーヴェンの音楽に全面的に身を任せるということは、ある種暴力の肯定でもあるのではないか。そして、それは現実の社会での「闘争」であるとか「英雄」みたいな言葉と、もともと親和性があったのではないか。

 また、怒り、暴力は相手、受け手の恐怖をも誘発するとすれば、ベートーヴェンの音楽に威圧感を感じるのはそのためではないか。ベートーヴェンの音楽が、静かで穏やかな楽想の箇所でも何かこちらの干渉を許さないような緊張感を持っているのはそのためではないか。

 また、怒りが精神の硬直を伴うとすれば、それは長所とみれば決然とした雰囲気ということにもなり、そこに優しいメロディーが加われば、しばしばそこにあのベートーヴェンに独特の、上に乗っかった旋律は甘いが気づけば伴奏部分はいささかもゆるみがない緩徐楽章が出来上がる、ということではないのか。

 そして「怒り」とは、自分の内部からのエネルギーであり、冷静に自分を保ったうえで他人に好かれよう、褒められようという意識とは全く別の方向性であって、後者のタイプの作曲家が作った作品とは、内在するパワー自体からして圧倒的な差が生じて来る。そもそもベートーヴェンのほかに、「怒り」もしくはそれに匹敵する他の内部エネルギーを持った作曲家がいただろうか。いなかったのであれば、ベートーヴェンが死後200年近くたった今だに大きな存在感を保っていても、それはむしろ当然だったのではないか。

 しかし、「怒り」にもいろいろある。一体、それは何に対してのどのような怒りだったのか。いや、それは対象を持たない「衝動」みたいなものなのか。また、ベートーヴェンの中には「怒り」だけがあるのではないのは当然として、それが他のどういう感情とミックスされ、いや恐らくいくつもの要素とミックスされて、この底知れない魅力を纏った彼の音楽が出来上がったのか。

 そして、「怒り」がベートーヴェンの基本要素のひとつだと仮定しても、それは当然晩年に向けて徐々に変化していくはずで、それはいわばベートーヴェンの内部で自身の「怒り」を克服するような過程でもあり、それが晩年の作品に変容していく、みたいなことになるのだろうか。

 ・・・と、ここで、ふとあの「歓喜の歌」が頭に浮かんだのだが、あれは「歓喜」なんて言葉がついているせいで単純に「喜怒哀楽」ということでいえば「喜」の音楽ばかりと思っていたが、よく考えると、あれはある意味テーマが「喜」なのであって、音楽の質としては関係なかったのか。いや、他者への主張性があると考えると、「喜怒哀楽」の中で他者にコミットするのは「怒」だけだが、そもそも他者へ敢えて何かを主張すること自体、何がしかの怒りが含まれているということか。

 で、「怒り」というキーワードを与えられて、今自分はベートーヴェンについてかなり蒙が啓けたような気になっているが、その怒りのベートーヴェンは、これまでのベートーヴェン像より好ましく思えるか。そして、他の作曲家も、ベートーヴェンのように「怒り」を使えばよかったと思うか。しかし、そう考えると、もしもそれをもくろんでも「怒り」を使いこなすことは、すぐ野蛮になったりそれだけでは単調になったりして、扱いがすごく難しそうな気がする。

 そもそも、「怒り」とは芸術表現的にはどちらかというと好ましくない感情で、ふつう芸術家が自らに取り入れるよりは、遠ざけるほうの要素なんじゃないかとも思える。とすれば、これをあえて(ベートーヴェンの場合はやむなくかもしれないが)使うとすれば、よほど強烈な毒消し、というかその反対のベクトル、つまり上向きのエネルギー、例えば崇高さや博愛、宗教心でもいいが、そういうものとセットにならなければ使いものにならない要素ではないかという気がする。

 そうしてみると、ベートーヴェンの音楽には、考えるまでもまでもなくそういう要素があふれている。ということはつまり、もしも「怒り」がベートーヴェンに生来備わっていた要素とすれば、むしろ作曲家となる前提条件として、そういう上向きの精神の強さというものを(こちらは多分後付けで)自身に付加することが必要だったということで、つまり作曲家ベートーヴェンの誕生時には、それら強い怒りの感情と崇高さ的なものを目指す強い精神の2つが最初からペアで備わっていた、ということを意味していた。・・・のではないだろうか。

 

 ・・・とまあ、以上、今日はこういうことを考えて過ごしておりました。

 当ブログはあまり読む人もいないので、興奮のあまりつい思ったことを気易くありのままに書いてしまいました。せめてちゃんと読める文章になっていればいいんだけど、今日は何分興奮していたのであまり自信はないです。

 *それと、肝心のコヴァセヴィッチのCDの感想は(本来はそれを書こうと思っていた)、また別の機会に

 

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