50年前そして10年後

思い出すこと..............
そして、思うこと.........

両国駅

2005-05-17 12:27:10 | 思い出
JRの両国駅

国電の両国駅。

自転車で両国駅まで行けるようになった子供の頃。

両国駅は東口だけだと思っていた。
それは高校生くらいまで東口しか知らなかった。

そもそもの両国駅利用の始まりは
子供の頃に最低区間料金を買って両国から乗車して両国で降りる。
そんな遊びをしていた。
秋葉原まで乗り、乗り換える。山手線や京浜東北線に乗る。
しばらく乗り、反対側の電車に乗る。
そのうちどこの電車に乗っているか判らなくなる。
遠くに行ったんだろうとも思う。
どうやって帰ってきたのかも良くわからない。

かなりの冒険だった。
が、電車の乗り方などを覚えるのには役立ったのだろう。

大学卒業まで両国駅を利用した。
当時の彼女に電話ボックスから電話をかけたのも、
パチンコをしたのも両国駅だ。

両国駅の近くには「マンモスストアー」という
今で言うディスカウントショップがあった。
今は、店舗も増えているようで、名称も違う。

駅の帰りに毎日のように商品を見ていたのを思い出す。




写真

2005-05-09 10:45:58 | 思い出
幼い頃から小学校くらいまではアルバムに写真が沢山あった。

父が写真好きであったのだろう。
考えてみれば、私もその影響で自分の子供たちの写真やビデオが
幼稚園くらいまで沢山ある。

子供が単純に可愛いと思うのは小学校くらいまでなのかとも思う。
そして大きくなるに従い、写されるのが嫌になってくるようだ。

私のアルバムは中学の頃までは、たまに引っ張り出して観ていた。
そのアルバムの初めのページには父と母の結婚式の写真が貼ってあった。
それは私の兄弟のアルバムにも貼ってあった。
父が丁寧にアルバムを管理していたようだ。

私はそのアルバムとは別に幼稚園からの集合写真を袋に入れて
大切にしていた。

成人して、大学を卒業し、家を出る日がきた。
半ば親とは喧嘩のような形で家を出た。
その時は写真の事を忘れていた。
家に置いてきたと思っていた。

しばらくして、両親は「アルバムが無い」と騒いだ。
私も持っていなかった。
自分も親になって思った事。「アルバム」は大切だと。
両親はネガがあるから焼き増ししようと言っていた。
その後、どうなったかは不明だ。

岸辺のアルバム」というドラマを学生時代に観た。
その時はそれほど「アルバム」の大切さはわからなかったが、
自分も「アルバム」を大切だと思える日がきたということだ。
今考えれば、家を出た日に思い出が全て無くなったような気もした。

写真は無くなっても「記憶」の中には「アルバム」が残っている。


白木屋というデパート

2005-04-26 00:28:33 | 思い出
幼い頃に出かけたデパートは白木屋である。
いろいろ調べたらブログがあったのでリンクさせて起きます。

居酒屋という「白木屋」を連想するのが今の普通の感覚だとおもう。

父は白木屋が好きで名称が日本橋東急百貨店となっても、父は亡くなるまで通っていた。
母がリュウマチで動けないときは東急に行ってお弁当を買ってくるのが日課だった。

母は病気持ちで誰からも先に逝くだろうと言われていたが、
父が癌になり先に逝ってしまった。母は病気持ちには変わりないが今も元気だ。

そんなわけで、白木屋は幼い頃の思い出であると同時に父を思い出す。

今でも白木屋の前を通るたびに父を思い出す。

デパート

2005-04-25 15:38:54 | 思い出
小学校に入学する前、
親に連れられて「デパート」によく行った。
多分タクシーに乗って行ったのだろう。バスで行った記憶は無い。
昭和30年代だと思う。
当時はデパートに行く人も少なかったらしく、
着飾って出かけたようだ。これは昔の写真を見てわかった事だ。

両親には当時、2人の子供がいた。私と2つ下の妹だ。
子供たちを溺愛してたようで、子供ながら洋服屋で仕立てた服を着ていた。
店では売っていない「半ズボンの背広」とか。

デパートで何をしたのか記憶が定かでないが食堂ではいつも
お子様ランチを食べた。
母親は「固焼きそば」を食べていた。
お子様ランチは当時は一般的ではなかったのかもしれない。
固焼きそばは現在でも私の好きな食べ物になっている。

成人した私は結婚して子供ができた。
子供たちが小学校を卒業するくらいまで毎週のように
着飾って「デパート」に行っていた。
自分の親と同じ事をしていたようだ。と振り返る。

一緒に出かけて一緒に食事をして、家族は仲良く楽しく。
自然に教わったことなのかもしれない。

自転車2

2005-04-23 22:48:51 | 思い出
自転車で行動範囲が拡がった小学生の高学年。

まず、友達の家が近くなった。
駄菓子屋が近くなった。
公園が近くなった。
遠い公園にも遠征できるようになった。

国鉄(JR)両国駅が近くなった。
旧安田庭園が近くなった。

というように何処にでも行けた。
親は知らないわけで、危険なことだらけだ。
当然、親に話すわけがない。

その中でも安田庭園での「釣り」は面白かった。
今にして思えば、「釣り」は庭園の「池」で行うわけだ。
釣りはやったことがなかったけど、駄菓子屋で「糸と針と浮き」のセットを
買って自転車で数人と出かける。
「餌」は池の周りの土を掘り「ミミズ」を探す。

子供の中にはそういうことが得意な子供がいる。
私はその行為を見よう見まねでやってみる。こっちは初めての経験だ。
針で指を指して血が出たりする。
ミミズのついた針と浮きを池に落とす。
意外と釣れるものだ、それはそこで飼っている魚なのだから。

と、そこに管理人が来て怒られる。すきを見て逃げる。
命からがら、逃げて、暫くはドキドキする。
でも、一週間くらい経つとまた同じことを繰り返す。

この時代に釣りのために針で指を刺し、多分、子供心に実は「楽しくないこと」の
一つに「釣り」がインプットされたのかもしれない。
それ以後は大学の同級生と「釣り」に行く事になるまで「釣り」はしなかった。

つまり、子供時代の「釣り」は親に内緒で遠くに出かける。
親に内緒で「悪いことをする」楽しみで。
「釣り」が目的ではなかった。
そして、重要なことは友達と「同じこと」をしないと「仲間はずれ」になること。

「仲間はずれ」になりたくなくて「やりたくないこと」をするのは
大人になるにしたがって増えているような気もする。

話が別の展開になってしまった。まあいいさ。

幸せの瞬間

2005-04-18 16:54:32 | 思い出
幸せだ~~。
と思うことはその時じゃなくて、後からつくづく感じるのかもしれない。
「あの時は幸せだった」というように。

子供がまだミルクを飲んでいる頃、
デパートによく行った。デパートでは育児室?というのか名称は
もう忘れてしまったけど、重い荷物(ミルク、おしめ等)を持って
毎週のように出かけた。
その時はその場にいるのが楽しくも無く、周りは同じような子連れ
ばかりだ。

でも。その時のことがいつまでも、あれが「幸せ」の瞬間だったと
感じてしまう。

ちょっとボーッとした時には「幸せだった」と思い出す。

自転車

2005-04-16 10:49:06 | 思い出
自転車に乗れるようになったのは、いつ頃ったか。

家の隣が自転車屋さんだった。
この自転車屋さんは後にオートバイ屋さんになり、自動車屋さんになった。
自転車は小学校の低学年のころに隣の自転車屋さんから補助輪をつけてもらって買った。
低学年では行動範囲も狭かったのでさほど乗らなかったし、嬉しさも少なかった。

高学年になり、遊んでいる子供たちが自転車で遠出するようになってきた。
私の自転車は小さいし補助輪もあったので、走って追いかけてついて行く。
という日常が続く、これでは不便だったので古くなった自転車の補助輪を
外して練習し、皆と行動を共にできるようになった。
しかし、他の子に比べて小さい自転車だ。ちょっと気にしたけど楽しかった。

自転車に乗り出すと行動範囲は区内の半分以上に及んできた。
当時は自動車も少なく危険な状況も少なかった。
というか、子供なので周りが見えなかったのかもしれない。

その自転車では、まず乗り方(技術)の争いがあり、真っ先に「手放し」練習。
次に椅子の上に足を置く走り方、ハンドルに足をかける走り方。
後ろの荷台に腰掛けて走る。いろいろと試してみた。

このとき既にウメザワ君は大人の自転車に乗っていた。
そういえば彼は中学に入って今で言う登校拒否になっていた。
学校に連れて行くために毎日迎えに行って一緒に通学した事を思い出す。

続く。

初めての友達

2005-04-14 21:53:53 | 思い出
昭和30年代のこと、何年生の頃だったか忘れたけど、
引っ越してしまった友達がいた。セイイチ君だ。今も名前を覚えている。
彼は友達だったのだろうと私は思っている。彼はどう思っていたのかな。
彼の家は冶金屋の一間を間借りしていた。玄関の扉を開けると直ぐに畳だった。
当時は小さなアパート住まいの家族が多かった。
頭のよかったオチアイ君も小さなアパートで親子5人くらいで住んでいた。

ある日、セイイチ君とおもちゃの交換するために彼の家に行った。
そこで大切なおもちゃを交換した。
お互いに交換したものもあったけど、お互いにあげてしまった物もあった。
友達のようなな気がした。
そして、新学期に彼はいなくなっていた。
引越ししたんだ。と幼心に感じた。
通学路の途中にある彼の家から彼が出てくるのではないかとしばらくの間は気になっていた。
それは私がその地を去るまで気になっていた。

中学のころ、セイイチ君と家族らしい人が冶金屋に来ていた。
多分セイイチ君だったと思う。私は彼を見た。彼も私を見ていた。
しかし、お互いに言葉が出なかった。そのまま通り過ぎた。

彼も私を友達と考えていてくれたんだ。そう感じた。

今でも、そこを通るたびに彼を思い出し懐かしく思う。