omasicoの心も体も健康に

タイトルと内容を変更しました。一緒に心も体も健康になりませんか。

究極の標語

2015年09月16日 | 
以前、麻薬撲滅のための標語がありました。それのパロですが、究極の標語です。
 

糖質やめますか。それとも人間やめますか。」

講習会のお知らせ

2015年03月10日 | 音楽
5月6日に大阪で行われる「典礼聖歌アンサンブル」主催の講習会の詳細がほぼ決まりましたので、お知らせします。

【場所】
大阪大司教区今市小教区(今市教会)

【時間】
午前10時~午後4時頃まで

【主な内容】
〔午前〕
 ことばの典礼を深める
 ① ことばの典礼と行動参加の歌の関係
 ② 答唱詩編の前奏
 ③ 沈黙の重要性
 ④ 聖書を知らないことは、キリストを知らないこと
〔午後〕
 午前中の講話に基づいて、当日のミサのことばの典礼を味わい深める。
 その後ミサ

 以上です。
持ち物は『典礼聖歌』、昼食です。
参加費は1000円。

近隣の教区の皆様の参加もお待ちしております。

教皇フランシスコ(パパ様)のことば(3)

2014年09月07日 | 宗教
教皇フランシスコは、今年5月に出された、使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように述べています。



「『殺してはならない』というおきてが人間の生命の価値を保証するための明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、わたしたちは許すことはできません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存の原理のもとにあります。この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先の見通しも立たず、出口も見えない状態で、排除され、隅に追いやられるのです。そこでは、人間自身もまた使い捨てのできる商品同様に思われています。わたしたちは『廃棄』の文化をスタートさせ、それを奨励してさえいます。もはや単なる搾取や抑圧の現象ではない、新たなことが起きています。つまり、排他性は、わたしたちが生活する社会に帰属するという根幹の部分にまで達しているため、もはや社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところへと追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまうのです。排除されるとは『搾取されること』ではなく、廃棄物、『余分なもの』とされることなのです。』(フランシスコ 『使徒的勧告 福音の喜び』 カトリック中央協議会 2014 56~57ページ)



この文書を読む限り、パパ様が警告する『廃棄の文化』は、ものばかりではなく、人に対しても行われているということです。今回は、パパ様のこの文書を提示するにとどめますが、これから、折を見て『廃棄の文化』について、考えてみたいと思っています。

実情(1)

2014年09月04日 | 全ブログ共通
現代の日本で生活していて、コンビニエンスストアを利用したことがない方は、まず、おられないと思います。また、学生さんの中にも、アルバイトの経験を持つ方もおられるでしょう。
 
ところで、
1 スーパーマーケットの従業員
2 コンビニエンスストアの従業員
3 飲食店の従業員
この中で、仕事量と自給を総合すると、どの仕事が一番、自給が安いと思いますか。
 
実は、2 コンビニエンスストアの従業員なんですね。
 
1 スーパーマーケットの従業員は、大体、担当が決まっていて、レジの人が品出ししたり、発注担当の人が、惣菜を作ったりすることはありませんし、売り場も広いので、掃除は、関連会社の専門のかたが行います。
3 飲食店の従業員は、大体、調理と洗い場、ホールの担当が分かれており、どちらかが忙しい時には、応援に入ることはありますが、ホールの人が、刺身包丁を持ったり、フライパンをふったりすることはありません。

 しかし、コンビニの店員の仕事は膨大です。レジはもちろん、店内の掃除、トイレの掃除、ゴミ箱の清掃、商品到着後の検品(品物がきちんと届いているかチェックする)、品出し、廃棄商品の確認撤去、品物の補充、店内調理品の調理(おでん、中華まん、揚げ物、コーヒー)、これらの器具の掃除、商品の発注、このほかにも、店舗へかかってきた電話の対応(利用客、各コンビニの本部から等々)、宅配便などの受付・・・・・。

 これらの業務を、店によっても異なりますが、最低の場合は、2人で行わなければなりません。

 これらの業務のうち、例えば、商品の配送は、大体、時間が決まっているものの、店舗の都合で配送されるわけではなく、すべて、配送する会社の都合で配送されます。器具の清掃は、利用客の少ない時間、あるいは、従業員がそろっているときで、他の業務、検品や発注に重ならない時間に行わなければなりません。ゴミ箱の清掃も、ゴミ箱がいっぱいになったからといって、すぐに行えるわけではありません。会計のお客さんが並んでいれば、そちらを優先させなければなりません。

 さらに、コンビニエンスストアでは、時期によって特別の注文を取ったり(お歳暮、お中元、丑の日のウナギなどなど)、特定商品の値引きセールや、アニメーション作品などとタイアップしたくじ引き、おなじく、店内販売の商品が当たるくじ引きなど、本部の決めたスケジュールをこなさなければなりませんが、これらを行うのに、特別に本部の社員が派遣されるわけではなく、普段の従業員で対応しなければなりません。普段以上の労力が必要とされるときはもちろん、店舗によりことなりますが、地域のイベントや行楽シーズンで忙しい時にも、普段通りの従業員でまかなわなければ、なりません。

 こういう、状況で、たとえ、店舗や本部で売り上げが大きく向上したからと言って、コンビニの現場の従業員に、ボーナスとか大入りの賞与があるわけでもなく、従業員は、たとえ、仕事が多くなっても、給与は普段と変わらないのが現状です。これは、この数年のコンビニエンスストアの商品の扱いを見るとわかるのですが、この、数年、店内調理の商品やコーヒーマシンの導入など、利用客にとっては、うれしいサービスが増えたと思いますが、現場の従業員は、どんどん仕事が増えているにも関わらず、ほとんど給与が上がっていないのが実情といえるでしょう。

 4月の消費税増税以降、不況が続く中、コンビニだけが一人勝ちしていると、経済紙のサイトでは、よく、報じられますが、その背景には、現場の従業員の作業は増えるにも関わらず、給与が据え置かれているという実態があることを知っておいてほしいと思います。
 

千年も過ぎ去った一日のよう

2014年08月31日 | 災害
 創傷治療や糖質制限で高名なドクター夏井のサイトで、ロバート・ヘイゼン『地球進化46億年の物語 「青い地球」はいかにしてできたのか』(円城寺守監訳 渡会圭子訳 講談社ブルーバックス 2014 原題 THE STORY OF EATH)が紹介されており、面白そうなので、読んでみました。典礼音楽が専門のオッチャンがそんなもんを読んで、わかるのか、と言われそうですが、昔から自然科学分野が大好きだったので(たぶんに、SFが好きだったこともありますが)、大変、面白く読み終えました。

 で、その本の最後の方に、次のようなくだりがありました。
「これからの一〇〇年で起こる、地球を変える出来事の中には(確実なものもあれば、かなり高い可能性で起きると考えられていることもある)、瞬間的なこともあるだろう。大地震や巨大火山の噴火、あるいは直径一キロメートルを超えるような小惑星の衝突。人間社会は一〇〇年に一回の嵐や地震に対する準備が不足している。ましてや一〇〇〇年に一回の災害のことはほどんど考えていない。地球史をひもとけば、そうした衝撃的な出来事はふつうに起こっていて、延々と続いているこの惑星の歴史の一部だとわかる。それなのに私たちは活火山の中腹や、地球で最も活発な断層帯に都市をつくり、自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願うのだ(宇宙からの飛行物は避けられないにしても)。」(同書355ページ)
 わたしたちの普段の生活は、「自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願う」のではなく、「自分たちが生きている間は地殻変動は起こるはずがない」と思いこんでいるだけなのではないでしょうか。

 しかし、日本列島を客観的に見直してみると、そのほとんどに活断層が走り、プレートの境界付近の地殻変動の影響、衝撃を受けやすい場所に位置しています。また、列島全体が急峻な山であり、河川も、大陸を流れるものに比べれば、源流から河口までの距離に対する標高差は急なものばかりです。しかし、この列島の上には、山肌を削って作られた住宅、津波がいつ押し寄せてもおかしくなく、地震で液状化を起こしても不思議ではないところに作られた高層マンション、さらに、活断層のすぐ上と言ってもおかしくないところに核発電所が林立しています。最近の考古学や地質学の研究を基礎にすれば、まさに、地殻変動の巣窟で私たちは生活しているわけです。

 わたしたちの人生は120年。地球の進化の歴史からすれば、ほんの一部でしかありません。しかし、この本によれば、地球自体が進化しており、マントルの対流により、地殻は確実に一年に数十センチずつ移動しているのだそうです。このことは、伊豆半島がもともとフィリピン海のプレート上で生まれた島であり、日本列島に衝突して現在に至っていることからもわかります。ですから、日本列島の近くでは、プレートの境界近くで起こりうる地殻変動が起こらないはずがない、起こって当たり前なのです。本の著者ロバート・ヘイゼンが言うように、「自分が生きている間だけは地殻変動の衝撃にあわないことを願う」のであり、「自分たちが生きている間だけは地殻変動が起こるはずがない」と思っているだけなのではないかと思います。しかし、それは、必ず起こることであり、いつ、起こるかは私たちにはわかりません。それが、百年に一度でも千年に一度でも、必ず起こることには間違いがないのです。

 人間の思考のスパンは、長くても五十年から百年がいいところでしょう。それは、 第二バチカン公会議で発布された『典礼憲章』の解説を著した、ヘルマン・シュミットという神学者が、その著書の中で、「人間というものは自分の眼前にある五十年乃至百年間守られてきた習慣を、成可く動かさぬようにしたいと望むものである。」(ヘルマン・シュミット『典礼憲章の解説』J・アプリ訳 エンデルレ書店)と言っていることからも窺うことができます。しかし、防災や安全に関しては、現代の考古学、地質学の研究を踏まえて、もっと、長いスパン、1000年くらいを標準として、考えるようにしたいものです。旧約聖書の詩編の中に、「あなたの目には千年も過ぎ去った一日のよう」(詩編90:4)という一節があります。神の目から見て、というのは無理かもしれませんが、せめて、わたしたちが住んでいる地球という星の歴史のスパンを理解した防災を考えてみる必要があるのではないでしょうか。