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コルプスクリスティアムと陪審員制度

2010-01-14 | Weblog
今年から陪審員制度が核都道府県に於いて実施されている。
最近法律関係の人や法学部出身の人にいろいろ話をうかがう機会がしばしばあるのだが、この件に関して、私自身もこの一般人が人を裁くということに対しての見解は、それなりにもっている。
以前ブログで西洋人と日本人は罪のとらえ方が違うと言うことを言った。
西洋人が神というひとつの裁きの基準があるのに対して、日本人は罪を勘定や心の流れでとらえる傾向があるというようなことを、小説などを参考にしてして書いたと思うが、日本人は西洋人のように、裁く基準を持たないので、裁く時に感情が支配する傾向があるというようなことを言ったと思う。
この件に関して以前ある有名な僧侶が、陪審員制度についてインタヴューで「陪審員制度は感情がが支配し、裁くことが対象になるから危険だ、スケープゴートを生み出しかねない」ということを指摘していたが、しかし過激であるが、この感情があるからこそ、杓子定規な前例の基準と言う、わくをこえて「えっどうしてそうなるの」というような不可解な判決を裁くことができるのではないだろうか。
そういう点では、陪審員はその裁判の起爆剤になるのではないかと思っている。
西洋人の考え方の根底にあるのは、コルプスクリスティアヌム的な発想である。
コルプスクリスティアヌムという言葉は、初めて聞いた人も多い思うが、簡単に言えば「一神教」「ギリシャ哲学」「ローマ法」という考え方を持っているということで、このことは西洋人の考え方の根底にある。
日本人は明治維新以来、これらのヨーロッパ社会を受け入れたが、しかし実際そのローマ法と言う形をうけいれただけで、肝心のギリシャ哲学や一神教と言うものを受け入れてこなかった。
そこに制度は同じだが、西洋と日本人の根本的な隔たりがあるということを指摘している学者もいるが、その一神教やギリシャ哲学を受け入れてこなかった我々が、何を基準に悪や罪たいして裁くことができるであろうか。
むしろもともとわれわれが持っている、悪や罪にたいする率直な感情をそこで主張することも、ある意味日本人的な裁き方であり、悪に対する懲らしめになるのではないだろうか。
よくこの陪審員裁判において、われわれは専門家ではないからという消極的な意見もあるが、しかしむしろ自分たちが専門家であるよりも、そういう声を届ける必要があるように思える。




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