ぽぉぽぉたんのお部屋

季節の移ろい、道ばたの草花、美味しい食べ物、映画や友人のこと、想いがいっぱいの毎日をお話します

「気仙沼にて」

2014-05-15 | きょうのできごと
バスで気仙沼へ出かけた。

気仙沼に行き始めたのは20代前半の頃

家族旅行で気仙沼大島に行くために車を預け
あまり街中を巡ったことはなかった。
それでもあの市営の駐車場と
商店街の風情は何となく思い出にある。

船で大島に渡り、
自転車をレンタルして
リフトで亀山に登り、鳴き砂の十八鳴(くぐなり)浜に降りて
国民休暇村に泊ったことが何度あったろう。

秋には朝から焼きたてのサンマが食べ放題だったり
最後に行った春3月の時は、
マグロのアラを煮つけてフレーク状にした一品を
義父がとても気に入り、朝もリクエストしていたっけ・・・


バスが1時間も遅れてしまい
着いたのはお昼時だった。

かさ上げ工事のブルトーザーもトラックも
昼休みで動いていなかったせいか
人影もなく何だか荒涼とした光景だった。

もう3年も経つのに・・・


かたりべの方がバスに乗り込んで
案内して下さった。

怒ったように語る言葉に
淡々と話すかたりべを
想像していた私は自分の思い込みを恥じた。

定年を前にすぐそこにあった会社を辞めたという

「重油とがれきと泥とを
かき分けて使えるもの、使えないものと
2週間かかりより分けたのはひどかった。」

「仮設ばかりが被災ではないんです
家が被災しなくても、心は被災しているんです」

「ほら、あそこ!」と叫ぶ
「2階家をいくつも乗り越えて大きな船があがった所さ」

胸には跡取り息子を亡くした思いが渦巻いている

何をする気力もなくなって
仕事も地域の長も全てやめたという。
奥さんも同じように仕事をやめ
茶の間のテーブルから動けない日々が続いたそうだ。


そうした後に語り部に加わることにしたそうだ。

あの日の翌日昼、出張先からやっとたどりついた気仙沼は
まだ燃えていて、東京消防庁の消防車が
十何台も入口をふさいでいてすぐ町には入れなかった。

何人もの人から「あんたの息子に早く逃げろと声をかけたんだ」
と後から聞いたそうだ。

焼死体だから確認の証拠がないだろうと
なかなか棺をあけてもらえなかったこと
火葬場がいっぱいだからと断られたこと

事務的な心のない不親切さへの思いが
まだまだ渦を巻いて口から出てくる

思いを吐き出せるようになった父のかたりべは
1時間ほどしてバスを降り
一度も後を振り返らず帰って行った

背中がとても寂しそうだった

かたりべをすることは
私が思うのよりずっとつらいだろう




コメント
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