奥 山 豊 和 (おくやま とよかず)公式ブログ

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続・ふくしまの現実~全国若手市議会議員の会研修会in福島~

2016-04-29 23:59:50 | 日記

昨日一昨日と、お隣大仙市を会場に若手議員の会の研修会を行った。
詳細は次に譲るとして、まずは前回の続き。

21日(木)、東京での研修を終え福島県郡山市へ移動。

いつも乗っている秋田新幹線では停車しない駅ばかり。客層も違う。那須塩原あたりではすでに田んぼに水が入っていた。

各駅停車というのもなかなか味がある。

まずは、いわき明星大学の高木先生より「東日本大震災の社会学~震災5年目の課題~」と題してご講演を頂いた。



被災地の復興と地域再生に焦点を当てながら、5年が経過した原発事故・原発避難の問題について、社会学の切り口からのお話であった。

(以下、概要)

まず、今年4月18日現在の避難者は94,892人いると公表されているが、あくまでもこれは仮設住宅やみなし住宅に入居している人の数で、公営住宅や別の場所に新しく家を建てた人の数は含まれていない。

これは「災害救助法」における「避難者」の定義にすぎず、「原発避難者」とは一体誰のことなのか、正確な数字は出されていない。

そうした中で、国は来年3月までに比較的線量の低い居住制限区域・避難指示解除準備区域については、避難指示解除を目指すとしているなど、「避難指示解除」に力点を置く政策変更に向かっており、果たしてそれで本当に復興は成し遂げられるのか、解除したからといって本当に人が戻って生活できるのか、ということである。

復旧作業の拠点となっている広野町を例に挙げると、震災の翌年に役場は戻ったものの、今年2月末時点での帰還率は44.8%で2420人。一方で、復旧作業員は4000人程度がプレハブで生活をしている。

帰還者の平均世帯人数は1.95人で、帰還のペースは避難指示解除後においてほぼ一定。家族が分断されているということである。

なぜ、避難者が戻ってこれないのか?

それは、「人が戻るのが先」か、「インフラが整うのが先」かというジレンマを抱えているのはもちろん、商工業者が置かれた状況からも、原子力災害からの地域再生の難しさがみてとれる。

地域住民に密着したコミュニティ依存の事業者ほど再開が難しく、町が「復興拠点化」として、復旧作業事業者向けの商業形態へと移行・適応していく中で、帰還者が少ないことから震災前の元の広野町に戻れるかの不安がある。

一つの商圏であり、行政同士や住民間の結びつきが強い双葉郡8町村一体で再開していくというビジョンがなければならない。双葉郡の中で、広野町や川内村だけが復興が進んでもそれだけでインフラが万全であるとは言えず、富岡町や浪江町が再開していかないと難しいということである。

原発事故そのものだけではなく、復興政策が生み出した人々の間の分断。

人と人の繋がりというものをいかにして再生していくのか。

阪神淡路大震災における仮設住宅での関連死問題をきっかけとして、コミュニティ対策はかなり制度化されてきているようではあるが、借り上げ住宅への入居者や、広域避難・域外避難への対応、実際に起こっている避難者と受け入れ住民との間に軋轢が生じていることなど、既存の方法では解決できない新たな問題も生じてきている。

人、インフラ、制度・・・時間をかけてつくられる地域社会は、パズルとして考えると分かりやすい。

人々によって生活できる条件が異なるため、ある人の帰還が次の人の帰還をつくりあげていくように、一定程度の人が戻るからこそ産業を再開させることができるのだ。

そのため、原発事故からの地域再生というものは、少しずつしか進まないということを理解しなくてはならない。

単身者ならすぐに戻れるかもしれない。しかし、家族が避難先で、保育所や学校、福祉施設等色々な条件で生活していることを考えると、まずは、戻れる人が戻る。ある程度の塊ができてくることによって、商業施設や病院などの次のインフラが再開し、それが次の帰還者をつくっていくということである。

パズルは一つ一つ組み立てていくのに時間がかかるが壊すのは一瞬であるように、地域社会も同じである。

地域づくり、まちづくりには時間がかかる。

大切なのは、住んでいる人の意識を変えること。住民同士が話し合って、お互いを理解し合うことが重要である。これはなにも災害に限ったことではないというご指摘を最後に頂いた。


続いて、昨年も富岡町をご案内頂いた同町役場の菅野産業振興課長より現地報告を頂き、翌22日(金)は、朝7時半に郡山駅を出発し富岡町へ。

菅野課長と共に新卒の職員の方が私たちのバスに同乗頂いた。

彼はいわき市の出身で、復興に携わりたいという志の下、富岡町役場の門を叩いた青年。
道中、菅野課長のお話をずっとメモし続けていた。町に入るのはこの日が初めてだったそうである。





バスに揺られて1時間半、富岡町に入っての正直な印象を申し上げると、きれいに除草されているのである。

昨年入った際には、思わず息を飲んでしまうほどの大きな衝撃を受けた。まさに、時が止まったまち。人の営みが感じられないまち。草も木も伸び放題だったのに。

町は平成26年1月から本格除染を開始し徹底的にやってきたそうで、宅地やその周りの森林は先行して除染し27年度中に完了しており、農地や道路等近隣の森林については今年度中に完了させるとしている。

今後は線量の高いところは再度フォローアップ除染を行うことにしているが、「帰還困難区域」は全くの手つかずである。



「帰還困難区域」・・・

富岡町は、苦渋の決断で町を3区分に分けている。

空間放射線量や地域コミュニティを基本とした区域再編を行い、「帰還困難区域」、「居住制限区域」、「避難指示解除準備区域」の3分割である。



4メートルの道路を挟んで、目と鼻の先に除染未施工のエリアが広がっている・・・ 

こういう不安な状況のままで元の生活に戻れるはずはないし、そもそも戻ってこようとも思えないのではないかということを強く感じた。

国直轄によって行われている現在の「特別除染計画」では、帰還困難区域は除染対象外となっており、それでは帰町を開始する判断材料の一つである「町全体の安全性確保」が困難だということから、富岡町は、帰還困難区域も含めた町内全域除染を求めている。

このままでは、このエリアに住む住民だけが忘れられて取り残されたようになってしまうし、重要な観光資源も失ってしまう。



富岡のシンボルである桜並木。幹の部分は除染されている。



昨年中を見せて頂いた役場庁舎は復旧中。



隣接する保健センターは先行復旧されており、今年度から、除染を担当する「復興推進課」と維持管理やインフラ復旧を担当する「復旧課」が配置されている。





ここは、富岡第二中学校。

5年前の3月11日。卒業式が行われていた会場がそのまま避難場所となった。

一夜をここで過ごし、翌3月12日早朝に突如、福島第一原発半径10km県内に出された避難命令によって散り散りになった住民。

生々しい当時の雰囲気が残されていた。



この崖を津波が駆け上がったというのはにわかに信じがたかった。

22.1Mの津波の威力。確かに、高台の上に建物が流された後の基礎部分が残されていた・・・


全国若手市議会議員の会としては3回目の視察、私自身は2年連続の参加ではあったが、現場を目の当たりにして感じたことは、着実に復興の進んでいる所とそうではない所があるということ。

実際に、国道6号線は多くの車が行き交い、くらしの復興拠点として「市街地復興先行ゾーン」の整備が始まるなど、わずか1年で見違えるように前に進んだ印象も受けた。

しかしながら、今もなお立ち入ることが制限されている場所が残されているという事実。

決して表向きには伝えられていない、許しがたいこともあったということ。

25兆円と言われた復興予算。

5年間立ち入れなかった地域にはどのように復興の追い風となったのだろう・・・



このキャラクターは、心の復興と情報発信のために誕生した「とみっぴー」。

全国に避難する町民の思いや町の様子を発信するため、かわいらしいくちばしと、背中にどこにでもとんでいける羽を持ち、名前には町の幸せを願う「ハッピー」が込められているそうだ。

「離れていても、きっと届く。懐かしい君の声が。」

「未来へと つながれ ひろがれ 富岡町」

これからも、「ふくしまの現実」をしっかりと見つめながら、心を寄せていきたいものである。



最後に、研修をセットして頂いた全若災害対策研究部会長であり地元福島県伊達市議会の菅野議員はじめ、関係者の皆様に心からお礼を申し上げたい。

これからも、共に歩んでいきましょう!














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