ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。日々の生活、旅する心、アメリカ滞在のつれづれを書き綴っていきたいと思っています。

「思いがけなく手に入る百両・・・」(その1)

2017-12-06 09:49:07 | 旅&温泉紀行

 歌舞伎好きな若い友人から「助っ人」を頼まれた。日頃頑張って働いているから、たまには贅沢な時間を・・・と【八千代座で歌舞伎を観て、山鹿温泉に泊る旅] を計画したのだが、直前になって同行の友達の旦那様が急遽の入院、行けそうにないから、だれか代って行ってくれそうな人はないかしら・・・で、私に白羽の矢がたったそうで,ご隠居さんにお伺いを立てると「いいよ。僕は芝居小屋は足に悪いから」以前【八千代座】で海老蔵さんの公演を観た時から、膝に痛みが出たのだ。

思いがけない成り行きで(勿論代金は払いました)娘に近い年頃のSさんと11月17日、まずは【勘九郎・七之助、全国芝居小屋錦秋特別公演】を観て山鹿温泉【眺山庭】一泊。翌日は熊本市内へ。

(急病で運ばれたご主人様は、手当が早かったので、もうお仕事に復帰なさっています.良かった!!)

高速バスの「二日市温泉入り口バス停」でSさんと落ち合って乗車⇒熊本菊水パーキング⇒八千代座へ。(宿に寄って荷物を預けて)曇天が重く広がっている。Sさんは雨女だそうで、私と一緒だったから雨が曇りになってよかったですという。

・筋書(プログラム)・八千代座・八千代座の天井(昔の店の広告がずらり。昔の儘に)

歌舞伎初めての観客や若い観客に大受けだった【歌舞伎塾】には楽屋がしつらえてあり、中村屋のお弟子さんが、素顔の若者スタイルの服装から、観客の目の前で【お染・久松】のお染に変身していく。勘九郎・七之助が羽織袴で軽妙なトークで説明などを。

大太鼓を使っての歌舞伎ならではの音の効果を。雨の音、雪の音など。鳥笛では代表的な鶯に始まりいろんな小鳥の声を。舞台に上げた観客に、仕上がったお染の相手役久松をさせたり、鳥笛や太鼓の音を「これは何?」と問いかけたり。若い人や歌舞伎初心者には、こういうワークショップが必要だと、昔から私は思い続けている。古典芸能を理解するちょっとした手助けが。江戸時代そのままの小さな芝居小屋だから、出来るのかもしれないが、博多座でもこういう「観客を育てる」ことをもっと意識して欲しいなと願う。

すっかり観客のワクワク感とリラックスな気分が広がった時、本来の演目の上演となった。

棒しばり     次郎冠者・・勘九郎、太郎冠者・・鶴松、殿様・・小三郎。

・藤 娘      七之助

地方の芝居小屋巡業だから、役者さんは勘九郎・七之助中心にこじんまりとした座組みだが、ゆったり楽しく観ることが出来る。鶴松クンにしても大舞台では、まだこういう大きな役は無理だろうし(控えているとき、必死で勘九郎の演じているのを見ていたのが、可愛かった)老練な脇役の中村屋の古くからのお弟子さんである小三郎さん(亡き小山三さんの最後を看取った盟友)も大きな役を務めて・・・旅興行ならではの私にとっては、ご馳走みたいものである。

藤娘は、灯りを落として真っ暗になり、下座音楽が始まり、パッと灯りが一気に入ると、その舞台の鮮やかさ、現れた七之助の美しさに、観客席がどっとどよめいた。

「芝居小屋で一度歌舞伎を観てごらん、いい雰囲気だから」と勧めた年下の友人二人も、日帰りで八千代座へ。二階の前列舞台近くで観て「七之助さんと目が合いましたョ」などと大喜びしてくれた。芝居小屋の雰囲気も気に入ってようだ。

終演後4人で八千代座近くのお店などを冷かしたり、お土産を買ったり、コーヒーとパイの美味しい店や、栗だけを作った和栗専門の喫茶で寛いだり(ここのは本当に美味しいです)あっという間に彼女達とサヨナラする時間になった。

そのあと私とSさんは「さくら湯」に。昔その儘に復元された銭湯(江戸時代には殿様などお偉い方達が、明治時代には一般庶民のための銭湯となったとか)入湯代金は300円。天井が物凄く高い。お風呂そのものは今風の造りだが、雰囲気はレトロだ。湯質も山鹿温泉の湯質はとろりと上質。気持ちよく楽しんだ。Sさんは日頃勤めているので、久々の温泉に大満足のようであった。Sさん、今夜も宿の温泉が待っているよ。

 八千代座 (収容人数、約700人) 博多座(収容人数 約1500人)

昔ながらのレトロな芝居小屋には、得も言われぬ魅力があります。

【さくら湯】を出ると火照った顔に風が心地よい。

泊まりは【山鹿温泉・眺山庭】

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【思いがけなく手に入る百両・・・】(その2)

2017-12-05 10:21:04 | 旅&温泉紀行

さくら湯を出てタクシーで【眺山庭】へ。運転手さんが「あそこは料理がいいですよ」と言ったので、嬉しくなる。Sさんが「シニアコース」を選んでくれていた。

お風呂は全室「内風呂」付きだが、その内風呂が広々としていて気持ちの良いこと。露天になってなくても上等ねと女二人、ご機嫌である。大風呂も露天風呂も体験。さくら湯も含めると4回?5回?かけ流しの柔らかな湯質を楽しんだ。好きな芝居小屋とこじんまりと落ち着く宿、何かとお喋りしながら女二人の夜が更けて行く。

小高い所に宿はあるので、窓からは蛇行しながら流れる菊池川、その彼方には山すそに「朝霧」が白く緩やかに流れていた。

熊本市内へ

Sさんは熊本の大震災で壊れてしまった熊本城復興のための募金【一口城主】に応募していたので、入場や施設展示場無料(私は半額)や、デジタルでの復興なった熊本城をバックに撮影などの恩典があり、是非行きましょうと誘ってくれた。

阿蘇などにはよく行ったが、熊本市内にはもう長年足を入れていない。市内を走る路面電車にも乗りたくて、乗り放題切符を買った。博多の街には戦前から路面電車があり、小学低学年の頃から「親戚へのお使い」(子供の役目だったようだ、その時代は)で良く乗り降りした。だから四国や長崎に行くと必ず電車に乗る。私のノスタルジア。懐かしくて心がほわほわと温かくなる。

熊本城はTVで見るより無残な個所が沢山あった。場内ではいろんな施設やパフォーマンス・展示会などがあり、復興目指す人たちの気持ちが強く伝わって来た。

城作りの名人と言われた加藤清正の手になる熊本城も、今回の大震災には太刀打ちできなかった。

見上げると首が痛くなるような高いクレーンがあちこちに。

 

熊本の人達の心のシンボル、熊本城の復旧が進むことを願いながら、路面電車で【水前寺公園】へ。ここも水が干上がり、汚れてしまったのを、ボランティアの人達の手で復興、今では昔通りの透明な湧き水が池を満たし、鯉や水鳥たちがゆったりと泳いでいた。

. 桃山式の回遊庭園(かいゆうていえん)。寛永9年(1632年)、肥後細川 初代藩主・細川忠利公(ほそかわただとしこう)が御茶屋を置いたところ。湧き水の美しい池と築山。熊本市内にある。

あちこちにクマモンが。

最近観光地でよく見かけるレンタル和装の娘さん達かな?天満宮でもこういう風景を最近はよく見かける。

降って湧いたような小さな旅、曇り空だったが寒くも暑くもなく、「来て下さることが復興援助なんです」途中で聞くそんな言葉。ささやかな貧者の一灯で、私達も楽しい旅をすることが出来た。留守番してくれたご隠居サンに感謝。

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晩秋の候、遠来の友と再会を果たして候。

2017-12-03 06:16:29 | 日々の中で

 楽しみにしていた「オキナワ・スズメウリ」が、今年はほんの少ししか実をつけなかったと嘆いていたら、友人(私はさっぱり駄目だが、彼女はいわゆる「緑の手を持つ人」草花を育てるのがとても上手だ)がどっさり持って来てくれた。

彼女の家で最初に見た時、余りの可愛らしさに種を貰って、ご隠居が育ててくれていたのだが。ビー玉より少し大きく縞模様の入った瓜状の実は【緑⇒赤⇒茶色】と色を変え、萎んで種を残す。垣根に這わせると、なんとも可愛くて、道行く人が「これは何ですか?」などと尋ねたものだった。頂いたのをとりあえず玄関にぶら下げて、晩秋の色を添えた。バラでもらった実は、竹かごなどに広げるとこれもまた季節の一興となる。

その晩秋の頃、思いがけず「会いたいな」とお互いにメールで話していた友人に、再開の機会が出来た。

「遠来の友じゃないよ」とTさんは笑うだろう。舞鶴在住の人だから。そうなのよね、ところが実際にはなかなか会えない。彼女は沖縄から舞鶴へ戻ったあと、3度訪ねて来てくれたのに、私はまだ一度も訪れる機会を作れないでいる。今回は11年ぶりの再会だった。

彼女とはまだ娘達が幼稚園・小学低学年の頃、ご隠居の転勤で沖縄・豊見城というところに住んだ時に親しくなって以来のお付き合いである。近くに新築の小学校はできたものの、図書室はあるが肝心の本が一冊もなく、広かった社宅の居間を使って【自宅解放子供文庫】(沖縄県や那覇市から、本は借りて)を始めた時も手伝ってくれた人である。そういえば運動場作りも父母総出で、一輪車で石ころ拾ったりして。まだ沖縄は復帰して数年しか経っていない頃だった。

今なら医療裁判ものであろう医者の診断ミスで、私が危うくなった時、子供たちの面倒などを見てくれた人、その生き方も尊敬に値する人である。母の背中を見て育った長男さんは、障害者・老齢者に関わる福祉の仕事に従事している。

 

Tサンは子供達への読み聞かせは、もう20年過ぎただろう。今も保育園などで「本読んでくれるヤコおばあちゃん」と愛され、【視覚障害者ボランティア】も30年越えただろうし、満州からの引揚げ体験者として【舞鶴引揚記念館】で語り部も続けている。個人的には長男の嫁として、6年前100歳で天寿全うした姑の世話も、T家のいわゆる日本的な家庭の在り方を支えている。なんたって暮れに衝くお餅の量も半端ではない。今でも息子たち一家、夫の弟妹たちなどが集まるお盆やお正月だから。それをこなしているから、どうやっているんだろう?と思う時がある。ご主人様は「男は黙ってなんとやら・・」の時代の方である。

舞鶴市は引揚げ港として知られている。市が所蔵する「シベリア抑留」と「引揚事業に関する資料」がユネスコ世界記憶遺産に登録されたのを契機に、全国の引揚げ者を迎えた港のある市などで展示会が開催された。

【舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 福岡】~引揚げの記憶と平和への願いを世界へ、未来へ~

が11月23日~~28日迄、福岡市唐人町の福岡市福祉プラザ(ふくふくプラザ)で開催。23・24日ミュージアムトークにTさんの文章と、語り部仲間の人が絵を描いた紙芝居などを、引き揚げ体験とともに披露することになっての来福であった。

オキナワスズメウリをくれた友人を誘って出かけた。彼女も引揚げ体験者、ご隠居も駆逐艦【雪風】で引き揚げてきた。満州でなく京城からではあるが。子供の頃とはいえ、鮮烈に残っている記憶もあるという。

  

 

(博多港引揚げ記念碑の画像はネットから拝借しました)

福岡では福岡大空襲での被害が大きかったり、博多港は引揚げ者受け入れ期間は2年間?位と短かったのと、あくまで通過地としての役目だけだったので、舞鶴のように記念館があるとか、引揚げに対する意識が強いという傾向はないようだ。博多港近くにある記念のタワーも、タクシーの運転手さんさえ「そんなものがあるのですか?」という応対だったそうだ。この展示会をが池に投げた小石が波紋を広げるように、に少しでも関心を持ってくれる機会になったら~、戦争という愚かな行為が残して傷跡がどんなに大きなものだったかを、考えるきっかけになってくれれば・・・とTさんは話していた。

半ば公的な立場での来福だったし、舞鶴市長や仲間の方達と一緒だったので、個人的にゆっくりする時間はなく、会館内で昼食をとりながら話した程度だったが、日ごろメールが行き来しているので、お互いに不満はなかったねと笑いあった。

彼女の銀白の髪と艶々した頬、優しいまなざしや語り口、ご隠居とも「Tさん、良い年の取り方をなさっているね」と話したものだ。信念を強く持ちながらも、優しさを失わない、そんな生き方が現在のTさんを創り上げたのだろう。短い時間だったが「会えてよかったね」と手を取り合った。

残念なのは・・・貴重なこの展示会開催の場所が、市民が集まりやすいところでなかったこと。市役所内や天神界隈だったら、来庁者や買い物に来た人も、立ち寄ってくれたであろうに。それに天候が悪かったこと。今日のような小春日和だったら、明るい陽ざしだったら、近くの大濠公園くらい何とか時間を作って貰って一緒に行けたのだけど。Tさんが帰るまで雨や風の悪天候だったのも残念だった。

広島長崎の原爆にしろ、福岡の大空襲にしろ、この引揚げにしろ、語る人はだんだん少なくなり、戦争の記憶は遠くなり、世界で軍靴の響きが絶えない世の中となった。

Tさんが「身体が動くうちは」と頑張るのも【舞鶴引揚記念館】には若い世代の来場者も多く、そんな人に記憶を伝えることが大事なことだと、強い気持ちを持ち続けているからだろう。くれぐれも身体だけは、労わって欲しい!

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PCご機嫌ななめでした。

2017-11-24 08:29:26 | 日々の中で

 ここ2,3日急に冬めいて来た。庭の紅葉も色を増したようだ。

 暫くパソコンが言うことをきかなくなった。写真の取り込みも出来ないし、他にも色々不具合が生じて。アレコレ触っていたが埒があかない。余計壊れてしまうような気がして怖くなり、修理に出そうかとご隠居に相談。でもその前に娘に電話(彼女は元システムエンジニア)「今の画面を携帯で送って(私は依然ガラ携使用族)」娘の指示に従って、試みているうちに・・・機能回復。使えるようになった。ほっ。PCは長年使っているけど、その機能についてはメカ音痴の私、自分ではいかんともしがたい。

暫くお休み状態だったので、さっそく友人達から「体調が悪いのでは?」とメールや電話が。「ブログは貴女の健康のバロメーターだから」と。他愛ないお喋りのブログだけど、そのように気を掛けてくれる友人達の存在は、本当に本当に嬉しい有難いことだ。

さて、PCも使えるようになったし、また他愛ないお喋りブログ始めるとしよう。

11月はなんとなく慌ただしい月だった。小学校時代のクラス会。サークルの秋の会食会。義兄夫婦の来福、遠来の客、親しい仲間達とのランチ会、歌舞伎の観劇などなど・・。遠くへの旅などはできなかったが、小さな予定をつつがなく楽しくこなすことが出来たのは嬉しい。それなりに元気に過ごせたということだから。そんなささやかな秋の越し方を。まずは・・・

11月11日 

日田市市民文化会館【パトリア日田】で秋の【松竹大歌舞伎】観劇。

 

 7月【玉三郎特別舞踊公演】(傾城・藤娘)を観に行ったパトリア日田で、今回は全国巡回【松竹大歌舞伎】が行われた。11月11日一日限りの公演なので、チケット入手は厳しいだろうと思っていたが、チケット販売直前にあの台風による大災害が朝倉や日田を襲って「こんな時だからこそ公演を中止してはならない」という意見や自制すべきだなどの意見があった。日田市としては実行するという結論だったのだが、やはりチケットの動きは悪かったようだ。

少しでも災害復興のために役立てばと、私の会の若い人(Mさん、Gさん)二人を誘ってご隠居と出かけた。丁度日田天領祭」も開催されており、復興目指して会館の前の広場では、日田名産の品々や美味しいもの市が開かれていた。まだまだ元の姿に戻るには時間がかかるが、朝倉や小石原、日田と頑張っている。出来るだけ多くの人に足を運んでもらいたい。産地の野菜や品物を買って欲しいと頑張っている

早目にMさんの運転で日田に向かい、パトリア館長さんに「何か美味しいものは?」「日田は焼きそばが名物ですよ」そういえば焼きそばの【想夫恋】というチェーン店は、日田が発祥の地と聞いた様な気がする。会館近くの「来々軒」で日田特製の焼きそばを頼む。カリっと鉄板でお蕎麦を焼くのが日田焼きそばの特徴だとのこと。

 

 私達が頼んだのはチャーシュー乗せ焼きそば。ボリューム満点!(私には多すぎたぁ)

玉三郎さん公演の時のブログにも書いたが【日田市民会館 パトリア日田】外観はモダンな洋風建物だが、さすがに日田杉の名産地。内部にはふんだんに日田杉が使ってあり、木のぬくもりを感じる。大ホール(やまびこ)も椅子もゆったり、手頃な大きさで舞台が見やすい。

義経千本桜(すし屋の段)  歌舞伎三大狂言の一つ、義経千本桜より通称『すし屋』と呼ばれる一幕もの。

 すし屋を営む弥左衛門(片岡亀蔵)は昔恩を受けた平重盛の子息平維盛(萬太郎)を使用人の弥助としてかくまっている。すし屋の娘お里(中村米吉…愛くるしい有望な若手女形。フアンが多い)は弥助を慕っている。息子【いがみの権太(獅童)】は親から勘当されたほどの悪たれ。

平家の御曹司をかくまっていることが暴露、その首を差し出せといわれて・・・お里のいじらしい娘心、悪たれ権太の本心は?やがて迎える悲劇の結末に、親子の悲哀・情愛がからんで・・・。獅童サン、お元気な姿にホッとした次第。

・釣女(つりおんな)  河竹黙阿弥 作。

 狂言の「釣針】をもとに作られた作品。おなじみ太郎冠者(亀鶴)とお殿様(萬太郎)「が繰り広げるユーモラスなお話。恵比寿神社に願をかけて「お嫁さん探し」している二人。夢に見たお告げに沿って、釣り竿をたらすと・・・殿様にはえも言われぬ初々しい美女(米吉)が。太郎冠者も負けずに美女を得ようとするが、釣り針にかかったのは・・・醜女(亀蔵)!はじめは被衣を深くかぶっているので、それを無理に開けさせた時の観客席の反応は…爆笑の渦。亀蔵さんが太郎冠者に仲良くしようと迫る様子が、何ともおかしくていじらしい。

日ごろ余り歌舞伎に縁のない地方に「歌舞伎を」と秋に毎年行われる松竹巡回歌舞伎で、解り易く親しみやすいものや、古典歌舞伎の有名なものを取り上げることが多い。歌舞伎初心者や初めて観る人にも「400年余続いている日本の伝統芸の歌舞伎は、こういうものです」と理解して欲しいと続いている。こじんまりとした座組だが、しっかりとそれぞれの役者さんが舞台を務めているのが嬉しい。

それにしても今回の巡業の日程は、11/1新潟市を皮切りに2日は仙台、3日は神奈川県大和市、4日目は埼玉県入間市・・・と東から西へ(大分・宮崎まで)周り、また西から東へ。最終日26日が千葉市公演で終わり。全部で20公演。

日田公演の前は、北海道札幌市。日田公演の次の日は長崎市へ。

移動しながら舞台を務め、また移動。役者さん達も大変だなと、毎年の秋公演の度に思う。大道具から鳴り物の人達迄。病気が治ったとはいえ、獅童サンにはかなりハードな旅公演だろう。体調くれぐれもお大事にと思わずにはいられなかった。

 

二階からロビーを見たところ。 レストランもあって。太宰府の中央公民館、古くなったなあ。(図書館も中央公民館もなかったころ、読書会仲間の先輩たちが、頑張って図書館建設に向かって様々苦労してやっとできたのではあるけど)文化の中心になるしっかりした建物に、建て替えて欲しい、一市民としての願い。あ、でもその前に福祉関係の充実が先かも

公演が終わって~天領祭で賑わっている豆田町までは、足を延ばす時間が無くなったので【元気道の駅日田】に立ち寄って、産直の野菜や特産品などを買い求めて「来て下さるだけでそれが復興の力になるんです。また来て下さいね」との声をあとに帰路に着いた。楽しませて貰って、ささやかな貧者の一灯となった"小さな旅”だった。山を染める夕映えが優しい茜色に広がっていた。

 

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秋たけなわ・・・

2017-11-06 11:14:03 | 草の根地域福祉

きな台風が立て続けに爪痕残して去った後、眩しい陽光、澄んだ高久青空、色づき始めた紅葉、秋たけなわとなりました。

日本社会も世界情勢も自然界色々あって・・・嘆きも怒りも胸にド~ンと重いけど、秋の季節は、やはりアレコレ行事や予定も多い。孫の大学芸術祭見物兼ねての上京は、体力的に少し不安が残り取りやめ、近場での秋の行事を楽しみました。

・地区行事、秋のバスハイク 柳川へ。同じ町内にいても、交流がだんだん少なくなる昨今、こういう企画は残していきたいものですね。

 最近は町内の方達と語らったり、集まったりする機会も少なくなりました。久しぶりでバスの中でも話に花が咲き【柳川下り】や【御花】での鰻せいろ蒸しの食事や立花藩の歴史展示館、和風庭園や屋敷巡りなど。帰路には主婦には欠かせないご当地【みやま道の駅】に立ち寄って、新鮮なお野菜などお買い物。みやま道の駅は、11月後半から冬にかけて、セロリ販売が名物。みやまでのセロリ生産量は日本で3番目。とれたてでとても安いので、それを目指して買いに福岡市内などからも来る人が多いようです。

 福岡近郊の観光名所 水郷【柳川】はその歴史、詩人北原白秋の故郷としても有名で、昔は鄙びた風情のある町であった。なまこ塀・水路の傍には柳の木々、川をゆくドンコ舟・・・水郷柳川には若い頃から惹かれるものがありました。

私にとって柳川といえば、やはり小説家福永武彦の「廃市」を思い出す。大林亘彦監督で柳川でロケした映画もあった。この作家の「草の花」や「廃市」は高校生の頃に読んで心に残って作品だった。福永武彦は筑紫郡(今の二日市)で生まれた作家である。若い頃に結核にかかったりした繊細な人だが、第一高等学校から東大仏文学科を出て、のちには学習院のフランス文学教授となる。翻訳も多くボードレールの詩集など。日本の古典「古事記」「日本書紀」などの現代語訳もある。

詩人中原中也や立原道造は、いずれも結核で早過ぎる死を迎えた。

中原中也は24歳、立原道造は30歳。あの頃は結核が国民病で命取りの病気であり、若くして逝った人も多い。福永武彦は61歳まで年を重ねたが、繊細な感性を持つ詩人や小説家が、命を削るようにして生み出した作品に、10代の私は惹かれた。近松の世界など江戸文学にも惹かれた。なんで一見相反する文学なのに・・・いや、近松の曽根崎心中などは、若くして死を急ぐその切なさやそうせざる得ない状況に追い詰められ、散っていく若い命に強烈に惹かれたのかもしれない。20歳で入水自殺した原口統三の残した「20歳のエチュード」にもやはり・・・。

危うく切ないものをはらんだ繊細な作品に魅せられたのは、青春という眩しさの反面、憧れや挫折など色々なものをどう受け止めていいか解らない、10代という未熟な若さの時代だったからだろう・・・なんてことを、柳川は思いださせる。もう一度ゆっくり昔の風情の残ったところを探しながらいてみたいものだ。

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