フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

「売国奴」を首相として崇めていた日本人;雁屋哲の美味しんぼ日記」  憲法・軍備・安全保障

2010-07-18 17:08:52 | 日記
「鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(2)「売国奴」を首相として崇めていた日本人;雁屋哲の美味しんぼ日記」  憲法・軍備・安全保障
鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(2)雁屋哲の美味しんぼ日記 から転載します。

 この日記を書いている間に、参議院選挙で、自民党が結構票を集めていることがテレビで報じられている。
 自民党に票を投じた人が、この私の日記を読んで、どう思うだろうか。
 変に勘ぐられたりするのがいやだったから、選挙前に、こう言う話を書きたくなかった。

 さて、選挙が終わったので前回の続きと行こう。
 前回、昭和天皇の御用掛だった寺崎英成によって、

1.昭和天皇はアメリカが、沖縄と琉球諸島の軍事的占領を続けることを望む。
2.昭和天皇は、アメリカの沖縄(必要であれば他の島々も)の軍事的占領は、主権は日本のままで、25年から50年またはそれ以上の長期リースの形で行われるのが良いと言った。
 と言う事実、さらに、

3.日本人の国民性には美点も多いが欠陥もあるから、米軍による占領は長期間つづくほうが望ましいと、昭和天皇は感じている。
 と言うことが明らかになったことを記した。
 私が驚いたのは、私が書いた上記の各項は、文藝春秋社から、1991年に発行された本に書かれたことであるのに、「知らなかった」という人の多かったことである。
 それを知らなくては話にならないだろう。
 昭和天皇の果たした役割を考えなければ、沖縄の基地問題を論じることは出来ないではないか。

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 どうして、多くの日本人がこんなに大事なことを知らずに、沖縄の基地問題を論じるのか。そんなことは全く無意味だ。

 よくよく考えてみると、それは、日本の新聞テレビなどのマスコミの誘導による物だと思わざるを得ない。
 テレビでは「皇室アルバム」などと言う番組があり、NHKなどでは、しょっちゅう皇室を日本人の家庭の理想像のように美しく描く番組を放送している。
 新聞でもそうだ。
 昭和天皇に都合の悪いことはなるべく隠すのだ。
 隠さないまでも、なるべく表立って論じることを避け、みんなの意識に上がらないようにしているのだ。
 戦後の日本人が新聞やテレビで見せられた昭和天皇の姿は、背広姿で顕微鏡をのぞいている姿、皇后と一緒に那須の別邸の庭などを散策している姿などである。
 そして、昭和天皇は「平和を愛する天皇」「科学者である天皇」、園遊会で愛想を振りまく「慈しみ深い天皇」である。

 ところが、1945年8月15日までの昭和天皇は、元帥帽をかぶり、いかめしい天皇服を着て、白馬にまたがって、皇軍を率いていた大元帥の勇ましい姿だった。
 白馬にまたがった勇ましい大元帥が、どうして「平和を愛する天皇」なのか。
 240万の日本の将兵はみんな、昭和天皇の大元帥姿を神と崇めて「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「死は鴻毛より軽し」などと言って天皇のために死んでいったのだ。

 その昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって?
 もう、戦争の敗北が決まった段階で「もう一つ、戦果を上げてから和平に持って行った方が上手く行くのではないか」と言った昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって?
 日本が中国対して仕掛けた侵略戦争、いわゆる「満州事変」も中国在中の関東軍司令部が勝手に兵を動かして始めた物だったが、昭和天皇は最終的に関東軍に

「(前略)勇戦力闘以テ其(その)禍根(かこん=災いの根)ヲ抜キテ皇軍の威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス(よみする=ほめる、よしとする)(後略)」

 と言う勅語(天皇から国民に下賜するたちで発した意思表示。戦前の日本では勅語が最強の力持った言葉だった)を与えた。
 この、侵略戦争を褒め称えた昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって?

 ついでながら、勝手に戦争を起こしておいても、後で天皇に讃められば上手く行く、と言う前例がここで出来上がったので、以後、軍部の独走が始まった。
 何が何でも、恥も外聞もなく戦果を上げればよいという日本軍の性格がこの天皇の勅語によって決まったのだ。
 戦争当時、昭和天皇の側近を務めた木戸幸一の記した「木戸幸一日記」という物がある。
 公共図書館に行けば置いてあるから読んで欲しい。

 その中には、昭和天皇の生々しい言動が記録されている。
 木戸幸一日記に寄れば、昭和天皇は、対米開戦を決める前に、海軍や陸軍の指導者の話を何度も何度も、聞いた後に

「海軍大臣、総長に、先ほどの件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通りに進むる様首相に伝へよ」

 と言っている。
 昭和天皇は、アメリカとの戦争を始める前にさんざん検討を重ねているのである。
 それは、勝つか、負けるか、の検討であって、戦争の善悪の検討ではない。
 戦前の昭和天皇は操り人形ではなかった。(同じ人間が、戦後には、アメリカの傀儡、操り人形になったのだが、戦争を始める時点では、人形ではなく自分の意志で動いていた)
 これが、「平和を愛する天皇」か?

 同じ、「木戸幸一日記」の1942年(昭和17年)2月16日に、次の記述がある、(日本がシンガポールを陥落させた直後のことである)

「シンガポール陥落につき祝辞を呈す。
 陛下には、シンガポール陥落を聴こし召され(お聞きになって)、天機殊の外麗しく(天皇の機嫌は大変に良かった)、次々赫々たる戦果の挙がるについても、木戸には度々云う様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふと仰せあり。誠に感泣す。(これまでに充分研究して戦争を始めたんだから、勝つのは当たり前だ、と天皇は言ったのだ。それに対して、木戸は感動して泣いた)」

 とある。
 最初から、戦争を慎重に充分研究した昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって?

 もうひとつ、木戸幸一日記から。

 1942年3月9日、前々日に、日本軍がインドネシア、ビルマを陥れたという知らせを聞いて、

「(前略)竜顔(天皇の顔のことをこう言う)殊の外麗しくにこにこと遊ばされ『あまり戦果が早く上がりすぎるよ』との仰せあり。」

 もう一つ行くか。

 1942年6月8日、ミッドウェーでの敗戦を聴いた後で、

「今回の損害は誠に残念であるが、軍令武装庁には之により士気の阻喪を来さざる様に注意せよ。尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じ置いたとのお話しあり。英邁なる御資質を今目の当たり景仰し奉り、真に皇国日本の有り難さを痛感せり」

「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と喜んだり、ミッドウェーの海戦に敗れた後も、「消極的になるな」、と言う人間が、「平和を愛する天皇」だって?

 天皇について更に続ける。
 昭和天皇独白録の最後に結論とされている章がある。
 その中で、昭和天皇は、次のように言っている。

「開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様だったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー(Vetoのこと、通常「拒否」と訳される)」をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命も保証できない。それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今時の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果てとは終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」

 こう言う言葉を今読まされて、私は、血が逆流するような思いがするのである。
 あの段階で、万一昭和天皇が戦争に反対したところで、誰が昭和天皇の命を狙えたか。
 確かに、秩父宮などもっと好戦的な立場の皇族がいたことは確かだ。
 しかし、かれらが、昭和天皇を殺して指揮者になれたか。
 そんな状況ではなかったことは全ての歴史的資料が説明している。
 本当に昭和天皇が戦争をしたくなかったら、自分の命のことなど、二の次にして、堂々と「戦争はしない」、と一言言えば良かったのだ。
 そう言った結果、どうしても戦争をしたい人間によって殺されたとしたら、それでこそ本当に「平和を愛した天皇」だろう。
 自分がもし殺されたら他の人間によって「結局狂暴な戦争が展開され」とあるが、そんな言葉は聞きたくもない言い訳だ。
 昭和天皇がやってのけた戦争以上に狂暴な戦争を想像するのは、常識を持った人間には不可能だ。
 昭和天皇の残した其の一文は、卑怯な言い訳として世界史に残るだろう。

 もともと、この「昭和天皇独白録」は、、昭和天皇を戦争犯罪人にせずに、傀儡として戦後の日本を支配したいというアメリカの意志の元に作られた物だ。
 こう言うアメリカの工作のお陰で、昭和天皇は戦争責任を問われることなく「平和を愛する天皇」として、歴代天皇としてはまれな長寿まで生き続けたのだ。
 葉山の別邸で、そこらの漁師が拾ってきた貝殻や、虫を顕微鏡で覗いていると、そばに控えている御用学者が、「陛下!世界的な新種の発見でございます。おめでとうございます」と言い、数年経つと、昭和天皇が発見したと言う新種の生物の写真が載った豪華本が発刊される。
 東南アジアや、アフリカの浜辺で、漁師の少年がちょいと網を掬うと、これまで登録されていない生物が幾らも見つかる。それを新種として報告して登録するのは、貧しい漁師の少年にはちょっと無理だろう。
 少年は、面白い新しい生物を見付けたという誇りを生涯持ち続けるかも知れないが、平和を愛する科学者である、などと言ってくれる人は誰もいない。
 昭和天皇は、顕微鏡を使って生物の細かい状況を見るのが得意だったようだ。
 それなら、硫黄島、ガダルカナル、サイパンなどの戦地に顕微鏡を持って行って、戦死した兵士の骨を顕微鏡で覗いて、この骨はどの兵士の物であるか特定に力を尽くしたら、まだ意味があっただろう。
 せいぜい、葉山の貝殻じゃあなあ・・・・・・・。

「平和を愛する天皇」か・・・・・・・。

 日本という国は、嘘と偽善が絡まり合って救いがない。
 昭和天皇の戦争責任問題は良く議論に上るが、昭和天皇の戦後責任につい語る人は余りいない。
 先の戦争で、中国や東南アジア各国合わせて2千万とも3千万とも言われる人命が失われた。
 日本の将兵240万人以上も命を落とし、アメリカ軍の空襲によって50万人近くの日本人が殺された。
 それから考えると、確かに敗戦後、昭和天皇の責任によってそれまでのように直接300万人もの日本人の命が失われる事はなかった。
(300万人の日本人の命を奪った人間が、戦争に負けてそれ以上日本兵を殺せなくなったから、平和を愛する天皇となった。凄い論理だ)
 しかし、その代わり前回にも書いた1942年にアメリカが立てた「Japan Plan」通りに、天皇はアメリカの傀儡となって、アメリカの日本支配のために大きな役割を果たした。
 アジア各国に与えた被害を別にして、日本人についてだけ言えば、300万人の国民を殺した戦争責任より、1945年以来、今に至るまでアメリカに隷属し続けているこの国の構造の根底を作った、昭和天皇の戦後責任の方が重いと私は考える。

 ついでに、現憲法の第一条には、

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」

 とある。

 この「象徴」という言葉に、日本人はみんな頭を悩ました。
 当時の憲法担当大臣の金森徳治郎は「象徴」を「憧れの中心」と説明した。
 どうして、天皇に憧れなければいけないのか。これでは、混乱するだけである。
 何のことはない。
 1942年の「Japan Plan」で既にアメリカは、戦後の日本を統治するのに、「天皇を平和のシンボル(象徴)として利用する」と決めていたのである。
 アメリカは自分が勝手に決めたことを日本国憲法に翻訳したのであって、その真意が日本人に分かる訳がない。
 それを、日本の憲法専門家という先生方が議論し続けたのだからご苦労千万な話である。
(私は、以前に「マンガ 日本人と天皇」という本を書いた。「講談社のα文庫」に収められているので、読んで下さい。
 その中で、象徴天皇制について、象徴と言う言葉の出所が分からなかったので、はっきり書けなかった。しかし、この「Japan Plan」が明らかになって、象徴天皇制の意味が明らかになった。
 残念ながら、当時はまだ「Japan Plan」の存在など誰も知らず、私としても様々な研究書を漁ったのだがとても、「Japan Plan」など思いもつかず、なんだか中途半端な形でマンガに書いてしまった。歴史学という物は、恐ろしい物で、一つの資料が発掘されると、それまでの歴史ががらりと変わる。それを自分で体験した)

 昭和天皇が、まず、自分自身を立憲君主国天皇と言いながら、その範囲を自分で超えて、「沖縄をアメリの基地にしろ」「日本も出来るだけ長く占領を続けろ」と言った。
 こう言う時の天皇の言葉の力は大きいらしく、いまだに、天皇の言葉のままだ。
 日本全体のアメリカの隷属化の第一は昭和天皇の言葉による物であることは明らかになった。

 言葉は力である。
 昭和天皇は当時は非常なる権力者であったから、昭和天皇の言葉はそのまま強力な力となった。
 では、次に日本をアメリカに隷属し奴隷となることを推進したのは誰か。
 それは、過去半世紀にわたって日本を支配してきた「自民党」である。

 2007年にニューヨーク・タイムズの記者ティム・ワイナーが「Legacy of Ashes. The History of the CIA」という本を出版した。
「Legacy」とは遺産のこと。
「Legacy of Ashes」で「灰の遺産」と言うことになる。
 これは、もともと、アイゼンハウワー大統領の言葉だそうだが、どのような状況で何をさしていったのか、この本からだけでは分からない。
 しかし、戦争直後に言った言葉であり、戦後のヨーロッパやアメリカの各地のあの壊滅的状態を思い起こせば、そして、この本のあちこちの表現を見ればその意味は想像がつく。