回覧板

この列島の一住民からの回覧板です。

上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より

2017年04月22日 | 批評

上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より


   1

 上村武男の『吉本隆明手稿』(1978年)は中身は忘れてしまったが若い頃読んだことがある。その関連で、名前はなんとなく覚えていたので、偶然目にした『ふかい森の奥の池の静謐 古代・祝詞・スサノオ』(2011年)を読んでみた。上村武男は、一方で文学の表現に関わりながら、他方で兵庫県の水堂須佐之男神社の宮司(現在は引退したとのこと)をやっていた。この本でそのことを初めて知った。

 また、上村武男の新しい本が出た。『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)である。著者によると、水堂須佐之男神社は、兵庫県にある小さな神社である。その神社にまつわる主に上村家三代(祖父、父親、上村武男)にわたる宮司に関わる文章から本書は成っている。

 上村武男は、「エピローグ 鎮守の森は栄えているか」で述べている。



 祖父母、父母、そして子供、孫たちが自然に集うことができる、そういう場所―それが氏神の境内であり、村やしろの鎮守の森にほかならないのであった。
 そうやって、少なくとも江戸期以来、氏子・地域住民は皆、地域の神社の祭礼の日につけ、初宮参りや七五三や成人式や結婚式などといった人生儀礼の日につけ、また、おついたちや十五日のお参りにつけ、誰言うこともなく鎮守に集ってきたのである。
 そこには、いわば「ゆるやかなコミュニティ」が、それと意識されないままにも成り立っていたといってよい。




 上村武男は、神社の神主として絶えず自らの存在理由を問うてきたという。そうして、上記のような場面に「原初的な『自然と人間との関係性』そのものが、そこに生き生きと息づいていた」とイメージしている。たぶん、神社というものが形作られ始めた遙か太古からその場を通してくり返されてきた時間を想起しているのだろうと思う。特に明治期以降結びつけられ開拓された国家神道や神道イデオロギーとの直通にではなく、著者のような地域住民と神社の関わりこそが主眼だという考えの神主さんは少数らしい。こういう考え方は、柳田国男の神社観に近いような気がする。

 現在、神社は全国に八万社はあり、尼崎には六十六社ほどあるという。しかし、その三分の二は、いつもは神職がいない、さみしい境内という。著者、上村武男は、神社の現状に危機意識を持っている。宮司だったことからはこういう危機意識は自然なのかもしれない。わたしはと言えば、近くに神主のいない神社があり小さい頃は時々その境内で遊んだものだが、その後は神社というものにほとんど関わりなく生きてきた。そんなわたしの目からすれば、太古の神社というものが形成される以前の長い時代があり、神社の時代があり、これから先の神社の終わりという時代もあり得ると思う。これはお寺も同様だと思う。現在では、葬式は急速に「家族葬」の段階に入りつつあるように見える。現在の年齢層の分布や家族のあり方などから必然的に変容している葬式の変貌だろう。このような動向は、いろんな形で社会での新たな表現として今後登場してくると思われる。それは寺社との関わり合いの形も変貌させていくに違いないし、あるいは寺社が消滅に向かうのかもしれない。しかし、それと同時に人々は新たな形の「ゆるやかなコミュニティ」を生み出していくだろうと思う。

 神道が神社を通して組織化されたのは古代辺りであろう。しかし、神道自体は古代国家以前の古い要素を持っていると思う。したがって、現在のような従来的な農業の死滅に近い現状ではそれと対応するようにして生き延びてきた神社が今後衰退の一途を辿るのは必然と言えるだろう。けれど、古代国家以前の古い要素を持っている神道のような宗教性、あるいは宗教的な感受性は、わたしたちの中に生き残り続けるものと思われる。



   2

 著者、上村武男は、父親のことに触れている。父親が学校の先生をしながら神職であった時期は、神職は公務員で「俸給」をもらっていたという。「国家神道」が生きていた時代でこれは敗戦まで続いた。

 この父親は責任感のあるしっかりした人だったという印象をわたしは受けた。ということは以下の日記の記述の文体と合わせると、この列島の住民としての平均値より少し上に位置した人だったと見なしてよいと思う。そういう人が、未だかつてなかった近代的な総力戦として普通の大衆が戦争にかり出される時代である。こうした近代戦に初めて直面したこの列島の住民の感じ方や考え方の平均的な像に近いものを、この父親が残した戦争中の日記によってわたしたちは知ることができる。



 昭和二十年一月九日(火)
三十四歳になった。まだ生きていた。あゝこんなに永くいきられるとは思ってゐなかった。十七、八歳の頃は、とても三十歳迄生きられるとは思はなかったではないか。
三十四歳の新春を迎へ、両親健かに堂に存し、妻あり、男児二人ともに健康にして五歳と三歳になった。何という幸福であらう。多くの若人が特攻隊として散ってゆくとき、自分はまだかうして生きて、幸福に浴してゐる。・・・中略・・・あれこれを思へば、唯ゝ(ママ)感謝の心でいっぱいである。

 一月二十一日(水)
去る十四日、米機は遂に神宮(外宮)爆撃の暴虐を敢てするに到った。あゝ、何たる事ぞ。われに対する最大の挑戦なり、許し難き侮辱なり。
君辱かしめらるれば臣死す……といふ。日本は今や、最高最貴のものを辱かしめられたではないか。
これでも憤激せざるは日本人に非ざるなり。
朝五時の必勝祈願、けさは六人だった。こんなことは始めてだ。厳寒の候となって、何人に減るかといふことは、自分のすくなからぬ興味を誘ったのであるが、今や真剣無雑なる人のみが残ったのである。
九時から防空訓練。神宮を爆撃せられた口惜しさを思へば、もっと訓練に精が出さうなものだ。一昨日、明石はさんざん爆撃された。これでも口惜しくないのか。

 二月十六日(金)
マニラ既に焦土と化す。戦局は正に危急である。心眼をひらいて事態を正視しなければならぬ。日本といふうまし国が、今や生きるか死ぬかのどたん場に追ひつめられてゐるのだ。楽観は禁物である。周囲を見渡すに、誰も彼も、生活の逼迫に気を奪はれ、食糧の獲得に、みんなうつつを抜かしてゐる。闇、闇、闇の世相である。何も彼も闇でなければ手に入らないのである。国民をして狡智へ狡智へと趨(おもむ)かしめるものは誰ぞ。
あゝ、今こそわれら日本人の至誠を天に問ふ秋なり。
心慰まざるときは、ひとり黙して境内を掃き、拝殿を拭き、書に対す。
忠男と武男は、だんだんやんちゃになり、だんだん可愛くなるばかりである。

 三月三十一日(土)
陽春といひたき暖かさである。杜には椿が咲き、鶯その他の小鳥が鳴いてゐる。この平和な氏神様の境内に暮らすことの出来る自分は何といふ幸福であらう。
戦局は、春とは反対に、いよいよきびしさと物凄さを加へつゝある。沖縄県慶良間列島には敵が上陸を開始したのである。この苛烈なる実相を見よ。
若し万一、帝国この戦さに敗れることありとせんか、あゝ、何を以てわれら生くるや。生きてその辱かしめを受けんよりはむしろ、死をねがふは日本人誰しも持つ心持であらう。今だ、今大いに働き抜き、戦ひ抜いて、どんなことがあっても、この戦さには勝たねばならぬ。自分は小さな神社に奉仕する名もなき神職なれど大いに修養、勉励して、真に神に仕ふるの道を全ふせねばならぬ。神に仕へる白衣の身であることを常に忘れてはならない。自分は、この職場で討死するのだ。
 (第11章 「父のこと〈6〉」P175-P178 上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』)




 本土にまで米軍機の爆撃が行われるようになり、敗戦の予感が脳裏をかすめるような状況での一人の神主(著者、上村武男の父)の内面の描写になっている。しかし、このような内面は、現在のわたしたちにもなじみのものではないかという気がする。たぶん、出征した島尾敏雄隊長もこのような生真面目な人物だったのではないかと想像する。そして、青年の吉本さんもまた。

 ここには、いいかげんさを退ける生真面目さと同時に少し上の方から「周囲を見渡す」視線が加わっている。この父は、学校の先生の経験もあるから先生の子供に対する一般的な視線と同様のものが混じっているように感じる。この年の七月四日に「いよいよ来たぞ。待ちに待った招集令状だ」という「臨時招集令状」が来て、著者の父親は出征していくことになる。

 このような現在にも残存しているようなこの列島人の心性が経験したのは、一般の大衆が初めて戦争に巻きこまれるという未だかつてなかった経験であり、その危機的な状況の中で、明治近代以降の欧米化・近代化という表層の影響は吹っ飛んで、まるで臨死体験のように未開の心性のようなものが人々の心の深層から、そして文明の深層から、発動して湧き上がって来たのだと思う。

 わたしたちは、戦時中のこの列島の人々の意識・感性を戦争というものを潜り抜けてきた現在からの視線で―ということは、敗戦後の戦争に関する様々な批評などを考慮して―見ているわけであるが、何か既視感のようなものを持ってしまう。つまり、現在にもなおそのような意識・感性が生き延びているように見える。つまり、その意識・感性は、相当根深い時間の中を生き延びてきている。それを一般性として抽出してみると、

1.敵に打ち負かされたら、観念する。そしてそれは死を免れないという意識が見られる。これは、潔さのように見えて実は恐怖心に基づいている。

2.1.を逆に言えば、戦争中のように敵に対しては残虐の限りを尽くすことがあり得ること。

3.1.と2.と穏やかな日常を味わう意識が同在していること。つまり、1.や2.は穏やかな日常の意識とけっして別々のものではなく、太古からの感性として日常の意識の深層に秘められてきたということ。

4.敗戦以後も含めると、外来のもの(アメリカ)に対するマレビト意識と屈従が、随所に見られたはずである。そしてそれは、依然として現在も政権・官僚層・取り巻き学者を中心とするアメリカ屈従路線として続いている。たちが悪いことに、当人たちは卑屈な屈従なのに自主的に振る舞っているという思い込み勘違いの中に居るように見える。

 最後に、以上のことを支える論拠として戦争期を潜り抜けてきた吉本さんの言葉を引用する。



 『ド・カモ』の著者はさらに興味ぶかい概念と習慣の例をあげている。死んだと噂されていた人が村に帰ってきてもとの村人の生活にもどったとき、その者が家の近くに姿をあらわすと、樹皮でできた布を巻きつける習慣がある。それは死んだかも知れないその者に生命の繊維である布を被せて生命を蘇えらせ、はじめて村に住めるようにするという習慣があり、制度化されているからだ。メラネシアの人たちが、「身近にいる存在の真正性に関して、概して確信をもっていないということを最も如実に示している。この不確実さのために、メラネシアでは人(外来者-注)に対して非常に控え目な態度をとる習慣があり、それが航海者たちをしばしば驚かせ、また呆れさせもしたのである。」と述べている。著者の解釈では、未知の地平線の向うから来た人間たちの信じ難い突然の訪問をうけて慎重に出方を待とうとする態度で、ほんとうの「生きた人間」なのか「神」なのかわからないという驚きと当惑と認識とを語っている。それに関連したことでいえば、ニューカレドニアのメラネシア人が町の雑貨店に入っていくとき、何を買いに行くのかと現地語でたずねると、「カラ・バオ」(神の皮)を買いにいくと答えるとする。そのばあい(神の皮)というのは西洋式の衣服のことをさしている、と著者は述べている。

 わたしたちの日本でもおなじ習慣と態度に出会う。日本人の気質であるかのようにみえる「ひと見知り」、そして外来者にたいする内気で卑屈ともみえる怖れの気分、またそうでなければ「まれびと」を外来神のように説話化する習俗などは『ド・カモ』に記されたメラネシア人の態度や思い込みとまったくそっくりだといっていい。

 たとえば、太平洋戦争の敗戦直後、大量のアメリカ人(西欧系、黒人系、日本人二世系)を占領軍として見たとき、わたしたち大部分の日本民衆の態度は、そうだった。ヒトか神かとはおもわないまでも何をするか何をされるかまったくわからないという恐怖心がつくりだす虚像を修正し、じぶんたちよりもずっと率直で、あけすけに振舞う解り易く、のびやかな者たちだと結論するまで、ある日数や月数を必要としたほどだ。
 (『心的現象論本論』「原了解以前(14)」P484-P485 吉本隆明)
 ※読みやすいように段落間を一行空けた。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 短歌味体Ⅲ 1684-1685 主流シ... | トップ | 短歌味体Ⅲ 1686-1687 吉本隆... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL