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『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ③④

2017年03月20日 | 『1Q84』読書日誌

  『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌


  [1章から15章まで]

  2017.3.20 登場人物について


  その幻影に出てくる、母の乳首を吸っている若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた。なぜなら自分の父親ということになっている人物―NHKの優秀な集金人―は、あらゆる点で天吾に似ていなかったからだ。・・・中略・・・多くの人が二人を見比べて、親子には見えないというようなことを口にした。
 しかし天吾が父親に対して違和感を感じたのは、顔立ちよりはむしろ精神的な資質や傾向についてだった。父親には知的好奇心と呼べそうなものがまるで見受けられなかったのだ。たしかに父親は満足な教育を受けていなかった。貧しい家に生まれ、系統立った知的システムを自分の中に確立する余裕もなかった。そのような境遇については天吾もある程度気の毒だとは思う。しかしそれにしても、普遍的なレベルでの知識を得たいという基本的な願望―それは人にとって多かれ少なかれ自然な欲求ではないかと天吾は考える―が、その男にはあまりにも希薄だった。生きていく上での実際的な知識はそれなりに働いたが、努力して自らを高め、深化させ、より広くより大きな世界を眺めたいという姿勢は、まったく見いだせなかった。
 彼は窮屈な世界で、狭量なルールに従って、汲々と生きていながら、その狭さや空気の悪さをとくに苦痛として感じることもないようだった。家の中で本を取るところを目にしたこともない。新聞さえとらなかった。(P313-P314)

 それに比べれば、天吾は小さい時から数学の神童と見なされていた。算数の成績は抜群だった。小学校三年生のときに高校の数学の問題を解くこともできた。・・・中略・・・ 自分の本当の父親はどこかべつのところにいるはずだ、というのが少年時代の天吾の導き出した結論だった。(P314)




 天吾の父親の話によると、「母親は天吾を生んで数ヶ月後に、病を得てあっさり亡くなってしまう。」父親は「NHKの集金人として勤勉に働きながら、男手ひとつで天吾を育ててきた。」しかし、天吾は先に挙げた時折襲い来る母にまつわる奇妙なイメージも加わって、その父親の話を信じていない。

 ここに引用したような登場人物・天吾の目を通した語り手の描写する世界は、家庭の中で両親との関係がうまくいかず嫌なことが続けば誰でも小さな子ども時代に思い当たることがあるようなものかもしれない。自分は本当はどこかよその子かもしれないというように。また、天吾は、日曜日は必ず父親が集金しやすくなるように父親の集金の仕事に付いていかなければならなかった。こうしたことは長く続いたので、天吾の日曜日に対するイメージは普通の人々の休息や遊びのイメージとは違った独特のものになっている。



 青豆はつつましい生活を送っていた。彼女がいちばん意識してお金をかけるのは食事だった。食材には出費を惜しまなかったし、ワインも上質なものしか口にしなかった。たまに外食をするときには注意深くていねいに調理をする店を選んだ。しかしそれ以外のものごとにはほとんど関心を持たなかった。
 衣服や化粧品やアクセサリーにもあまり関心はない。(P326)

 彼女は子供のころから、装飾のない簡素な生活に慣れていた。禁欲と節制、物心ついたときにそれがまず彼女の頭に叩き込まれたことだった。家庭には余分なものはいっさいなかった。「もったいない」というのが、彼女の家庭でもっとも頻繁に口にされた言葉だった。テレビもなく、新聞もとらなかった。(P327)

 だから彼女は両親こを憎み、両親が属している世界とその思想(引用者註.新興宗教に入っているようだ)を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ普通の生活だった。贅沢は望まない。ごく普通のささやかな生活があればいい。それさえあればほかには何もいらない、と彼女は思った。・・・中略・・・
 しかし大人になった青豆が発見したのは、自分がもっとも落ち着けるのは、禁欲的な節制した生活を送っているときだという事実だった。(P328)




 この青豆も天吾同様に小さい頃家庭で精神的な傷を負った存在として描かれている。ふと思い浮かんだイメージで言えば、NHK「LIFE!~人生に捧げるコント」、ここの出演者として知った女優の吉田羊、もしこの村上春樹の作品をドラマ化するならば「青豆」の役は吉田羊がぴったりだと思う。

 たとえば、このBOOK1では主人公たちと思える天吾や青豆を造型した作者のイメージの出所はどこなんだろうか?
 初め作者がどこからか借りてきたイメージがあったとしても、造型の過程で作者の固有の言葉の筆さばきが加わっていることは間違いない。それはとても分離しがたいもの、見分けにくいものだとしてもここに引用した登場人物の天吾や青豆の描写に作者の物の感じ方や考え方も流れ込んでいるように思う。このことは、作者のすべての作品を読み味わえば割とはっきりとあるイメージの場所やイメージの共通性として浮き上がってくるのかもしれない。

 ところで、上橋菜穂子の「守り人」シリーズが、『精霊の守り人』として割と原作に忠実にドラマ化され、今NHKで放送されている。この作品は、精霊や魔物も登場する、架空の時代、架空の世界を表現した「ファンタジー」と呼ばれる作品である。王国があり、王や皇太子や政治を司る聖導師(星読博士の最高位)、軍事に携わる者もいれば密偵もいる。大領主もいれば海賊もいる。ロタ王国で特別に抑圧されるタルの民もいる。つまり、わたしたちの社会がどこかで経験してきた、あるいは今なお経験しつつある要素がこの作品には取り入れられている。また、現在に類比すればガードマンに相当する、主人公バルサのような用心棒が登場する。バルサの幼馴染の薬草師タンダも登場すれば、衣装店を営む商人マーサ(渡辺えり役)も登場する。つまり、登場人物や描かれる世界は、あらゆる階層にわたっている。

 例えば、衣装店を営む商人マーサは、包容力のあるおばちゃんのイメージを出せる渡辺えりが演じている。これは、都会的で洗練された女性ではなく、どこにでもいるような面倒見がよくて気立ての良い普通のおばさんである。たぶん、原作者の上橋菜穂子は、大いなる自然と接しながら人々の精神にはまだ精霊や呪術や魔物が生きており、国内の対立や国同士の戦争などの残虐を伴ういくつもの大きな困難を乗り越えていく人間世界とその中で生きざるを得ない人々の運命的な有り様とそれを乗り越えて生きようとする姿を描こうとしたのだろうと思う。そういう作者のモチーフから、主人公バルサにスポットライトが当たっているとしても、必然的に登場人物はあらゆる階層に渡ることになる。

 ところで、村上春樹の『1Q84』( BOOK 1)に登場する主要な登場人物の天吾や青豆は、「衣装店を営む商人マーサ」のような日常世界でよく見かける普通のおばさんやおじさんや若者ではない。わたしは上橋菜穂子の作品も村上春樹の作品もどちらもほとんど読んできているが、上橋菜穂子の場合は他の作品でも普通の人々を登場させているし、誰もが思い当たるような温かい良い匂いのする食事の場面も現れる。一方、村上春樹の作品の場合は、天吾や青豆のように登場人物の性格は違っていても、生い立ちが少し不幸であったとしても、都会的に洗練された中性的な感覚の持ち主ともいうべき登場人物が出てくる。また、衣装もパスタをゆでるなども、都会的なファッションやイメージに包まれている。

 両者の登場人物の選択に関して言えることは、作者、上橋菜穂子が、人間や社会について全人的な表現のモチーフを持っているとすれば、作者、村上春樹の場合は、都市や時代の最先端つまりこの世界の尖端を生きる人々の有り様や悩み苦しみや慰藉などを表現のモチーフとしているからそういう相違になるのだろう。

 上橋菜穂子があるインタビューで、食事の場面はその匂いや温かさや味わいが物語世界の現実感を出す上で大切なものだと語っていた。このように物語世界の要請から作者、上橋菜穂子の食事の場面や作者、村上春樹のパスタをゆでる場面などが選択される。しかし、それらはまた、作者の好みも加担しているように感じられる。物語世界の要請と作者の好みとははりあわされていて、容易に分離できないとしてもである。

 作家は、「作者」に変身して、物語世界を築き上げていくために物語空間に「語り手」と「登場人物」を派遣する。芥川龍之介の「羅生門」のように物語の世界に「作者」を登場させることもあるが、一般には、言葉を書き付けていくのは「作者」であったとしても「作者」は後景に退き、「語り手」と「登場人物」が前面に立って物語世界を築き上げていく。物語の世界に「作者」を登場させると作品の虚構性が薄まり白けた感じとして意識させられるように思う。
 
 こうした物語世界には、時代のおくりものである流行のファッションや娯楽、都市の風物やその時代の主流のイメージやものの感じ方や考え方も作者や語り手によって選択されて入り込んでくる。と同時に、作品を具体的に書き上げていくのは作者であるから、物語世界やその人物像が語り手に要請するものばかりではなく、作者固有の好みや感じ方や考え方も織り込まれているはずである。



  2017.3.20 出だしの音楽の再登場


 この作品の出だしの青豆が登場する章の始まりには、ヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』と言う曲がタクシーのラジオでかかっていた。高校生の天吾は柔道部に属していたが、ブラスバンドの臨時の打楽器奏者として駆り出された。そのとき天吾らが演奏する曲に吹奏楽用に編曲されたヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』があった(P322)、という風にまったく関わりのない別の世界として青豆の章と天吾の章が並行してきた物語世界になんらかの関わり合いの徴候のようなものがここから感じられる。

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