回覧板

この列島の一住民からの回覧板です。

吉本さんのおくりもの 4.「50パーセントを超える 」

2016年12月31日 | 吉本さんのおくりもの

 吉本さんは、状況の変化をつかむ指標としてよく「50パーセントを超える」ということを語られていたようにわたしは記憶している。それはどこどこに語られていると挙げることはできないのだけれども、この言葉は重要なものを含んでいるように思う。

 人と人との関係でも、会社やサークルなどのどんな小社会の有り様でも、一国の経済や政治や文化でも、今までの関係や有り様の主流があってもそれの否定の支流が芽ばえ増大して「50パーセントを超える」と、主流の大変動と交替の可能性という重大な状況的な局面を迎える。このことは人と人との関係であれば、今までの関係の有り様の変貌を促されているということ、あるいは今までの関係の破局という場合もある。こうしたことは、誰もが実感として受け入れることができると思われる。

 その場合、それぞれの領域の流れの内部に居ても外部に居ても、自分が旧の主流と新の流れとのどちらに属しているか、あるいはいずれにも属していないか、こうしたことが、上方からの視線を行使してその流れの全体像をイメージする場合の、そのイメージの構成や質を決めてくるものと思われる。より正しく流れを像としてつかむためには、対立的な旧と新の流れのいずれにも属することなく、ある領域の主流のいわば成分分析をして、その動向のベクトルに目を凝らすことが大切だと思われる。この場合、そういうイメージの場所を占めないということは、例えば、衰微して退場していく場所にいくら固執してもそれは人間の歴史や文明史の主流の動向を読み間違えているということになる。身近な例で言えば、ラジオは、テレビは、洗濯機は、電子辞書は、ケイタイは、……人をダメにするなどとして否定するのは、そういうことである。それらの退行的な意識や言葉は押し流されていく運命にある。ただし、時代や社会の大きな過渡期には、必ずと言っていいほど旧と新は対立的に現象し、社会にある渦流を引き起こす。

 いずれにしても、あるものが主流ということは、あるものが「50パーセントを超える」ものであることは確かである。つまり、それほどの状況の変動を静止させようとする重力をもち、制圧する重力場を形成してきたということである。そうした状況が長らく持続していく中から、― 今までの人類の歴史でどんなに小さな領域においてすら否定する要素が全くないような完備されたものなどはあり得ないから― その否定の因子が芽ばえてくることになる。今までの主流が、次々に芽ばえてくる否定の因子を寛解しその内部に包み込むことができれば、否定の増大を押さえることができるかもしれない。しかし、それの否定の因子が増大を続け、「50パーセントを超える」と今までの主流と対立的な状況に到る。

 何事も、始まりは気づかれにくい。ある主流の中で、初めは否定の因子は余り気にも留められない、一風変わったものに見なされただけかもしれない。平安期に貴族によってガードマンとして都に引き入れられた各地方の武士も京の社会からは初めはそう見なされただろう。次第に貴族と武士が合力した戦から武士だけの自立的な戦となり、武家層が「50パーセントを超える」力を蓄えていって、貴族層が主流の社会から武家層が主流の社会に変貌していった。

 現在の大半が副業を持たざるを得ない作家たちとは違って、文学者としてデビューすれば割とその仕事で食って行けたような「文学」や「純文学」が主流であった時代の中から、「サブカルチャー」と呼ばれるものが芽ばえてきた。「サブカルチャー」という存在が目立ち始めて、「文学」や「純文学」の主流からの対立的な批判や論争もあったようだが、両者が主流として入れ替わるというよりも、いまでは両者が溶け合った状況が主流になっている。ただし、生真面目で暗い「文学」や「純文学」という一昔前の小説は、「サブカルチャー」に大きく浸食されてしまった。もちろん、旧来的な貧しい社会と対応した閉ざされた垣根が取り払われて、新たな社会の動向から生まれた、明るさも暗さも、軽さも重たさも、価値序列としてではなく、普通の人間の可能性の幅を拡げるような表現として、新たな表現の地平を獲得したことはすぐれた達成であると思う。こうして、両者の溶け合った状況といっても、「サブカルチャー」にどんどん追い上げられ深く浸透された「文学」や「純文学」という状況になっている。

 そういう状況になる前には、従来の主流からの視線では、「文学」や「純文学」=偉い、真面目で、深刻、一方の対する「サブカルチャー」=偉くない、軽薄、軽すぎなどの価値観を含んだイメージで捉えられていたと思う。おそらく「サブカルチャー」の表現者たちは、主流からの視線を浴びつつも黙々と表現に力を注いできたのだろう。一方、日本の社会が高度経済成長期を経て経済力を増大させ、わたしたち普通の生活者も慌ただしい労働と引き替えに一定の豊かさを享受できるようになり、生活の余裕を持てるようになってきた。「サブカルチャー」の表現者たちは、そういう新たな社会の豊かさや余裕の中から登場した。そして、わたしたち普通の生活者に時代や社会の空気や実感にふさわしい表現として受け入れられた。

 たぶん、「文学」や「純文学」の主流の世代は、そういう社会の主流の動向に対して、旧来的な社会の部分に対応していたのだと思う。つまり、これら文学の世界の主流の重心の交替は、社会における旧来的な貧しい生産中心の社会の部分と経済力の増大により生産から消費に重点が移っていく新たな社会の部分との主流の重心の交替と対応している。社会の大きな深い変動は、必ず全社会的に波及し、浸透していくものだからである。

 高度経済成長期をたどり、生み出された社会的な富が再分配されて消費が中心となるような社会が形成され、わたしたち生活者の中流意識が盛んに取り上げられた時代があった。そういう豊かさのイメージは、いまや暗転して「格差社会」という負のイメージと実体をもたらしている。(もちろん、家族の経済的な状況の悪化には、例えば老人ひとりの世帯の増大など旧来と違った家族のあり方、家族構成の状況の変化など他の社会的な要素も関与している。)このことは、労働者派遣法などによって派遣社員を増大させるなど、政治や経済の権力の強制力の行使によって社会の主流を一時的にねじ曲げることは可能だということ意味している。しかし、大多数の普通の生活者を軽んずる状況は社会の主流としての条件を持たないがゆえに、主流として持続できるはずがない。

 消費が中心となる現在の社会は、― ということは、盛んに広告宣伝がなされ、わたしたちはうんざりするほどそれを見聞きすることになってきているわけだが― わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めている社会である。そのこととそのことの意味は、吉本さんがわたしたちへのおくりもののように発掘して開示してくれた。わたしたち生活者は、まだそのことの重大な意味に十分に気づいていない。また、そのことに気づいて新たな社会運動(わたしのイメージでは、デモに出かけるわけでもなく寝転んでいても消費しないということができるのだから、たぶん、従来の社会運動の上下関係や権力性をずいぶん払拭する未来性のある社会運動になるだろう思う)を組織しようとする組織者も不在である。だから、わたしのような「社会運動」無経験のど素人が、「消費を控える運動」への意識的な参加を呼びかけるという、性に合わない口出しをしているわけである。

 おそらく現在は生活の苦しさや将来への不安から生活防衛的に、主に無意識的に家計消費の中の選択消費だけでなく必需消費も控えることが行われている。このことは、吉本さんの見識によると次のようなことを意味している。わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めているということは、わたしたち生活者がこの社会の過半の経済的な力(権力)を持っているということである。したがって、わたしたち生活者が一斉にその家計消費(選択消費)を控えることは、過半の経済的な力(権力)のそのまた半分くらいの力を社会に対して及ぼし得るということ、つまり、経済はひどく落ち込みどんな政権でもそれに耐え得ないということである。現実には、意識的ではなく、一斉でもないから、消費は悪化しながらこの政権は延命している。しかし、一斉に、全員でなくても、家計消費を意識的に控える人々が増加するにつれて、経済界や政権へのダメージは増していくはずである。この場合は、家計消費を意識的に控える人々が「50パーセントを超える」ことがなくても、政治の主流を切断することは可能だと思われる。わたしたちは、どんな政権であっても、わたしたち生活者の生活や意志を無視する諸政策を行い、居座ろうものなら、それらを無血で追い落とすことが可能な力(権力)を知らない間に手にしてしまったのである。

 そのことは、あらゆることがどん詰まりのこの社会において、わたしたちの最後の希望であり、それは同時にそのどん詰まりを突き抜けようとするある未来性の希望でもある。わたしたちが政治家や政治に近づいたり、お願いしたりするのではない。政治家や政治や経済界や官僚層が、この社会の真の主人公であるわたしたち生活者の方に絶えず耳を傾け、その大多数の民意に沿って行動すべきなのである。現政権も、わたしたち大多数の生活者の大きさと重さをある程度分かっているから、やっている諸政策は別にして、バレバレのウソを重ねつつも私たちの方に阿(おもね)った振りをすることを止められないのである。今から50年も前と比べると、店の対応も地方の役所の対応もずいぶんと変貌して、私たち生活者の存在に割とていねいに対応するようになってきた。こうしたこともこの社会の変動してきたことの小さな徴候と見ることができると思う。

 人類の知恵が加担した社会の主流の動向の渦中に、小さく日々生活しているわたしたち普通の生活者が、そこから観念的に少し抜け出て社会の動きを見渡そうとする場合、社会の流れの旧にも新にも属することなく、またそれらに付随するイデオロギーにもイカレることなく、わたしたち生活者の日々苦楽にまみれた小さな世界を自分の属する在所としながら、見渡す方がより歪みのない正確な社会像が手に入ると思われる。良いことでも悪いことでも、「50パーセントを超える」現象となってしまったら、状況の主流の交替可能性が浮上してきていることになる。わたしたちは、この社会に生起してくるささいなことに神経症的に次々に反応する必要はなく、主流の動向に少しゆったりと目を凝らせばいいと思う。

 吉本さんの最晩年のインタビューの末尾に次のような言葉がある。


心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください (笑)。
  (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)



 この吉本さんの言葉は、若い頃からの果てしない考察の積み重ねを歩んできた果ての、少しの余裕を持って「主流の動向に少しゆったりと目を凝ら」すことができるようになった場所からの深みのある言葉のように見える。

 吉本さんは、自分の生存の総体を根底から揺さぶるような戦争ー敗戦の体験の内省と戦争詩の批判や転向論などの検討から、自己の「内部の論理化」や「社会総体のイメージの獲得」ということを提起されていた。たぶん、その若い頃に提起されたもののいずれもがこの家計消費がGNPの過半を占めるということの分析や意味の考察にも貫かれていると思う。吉本さんの考えは、途中修正されたりしてきてはいても、吉本さん自身が述べていたように、通ってきた考えの道筋は誰もがきちんとたどれるようになっている。吉本さんの言葉は、こうした一筋のものに貫かれていた。


補註として

付け加えれば、なぜ吉本さんには「先見の明」があるのか。例えば、現在では割とすんなり受け入れられるように見えるが、誰も指摘していないように見える(わたしは経済領域に通じていないから見えるとしか言えないが)時期から旧来的な主流の公共工事にお金を注ぎ込んでも無意味に近い、それよりも新たな主流として登場している第三次産業のサービス業の分野に補助金としてお金を注ぎ込んだ方が経済対策として効果的だと言われていた。それは、社会が消費中心の新たな段階に到っていること、何が社会の主流であり、何がそれを突き動かす主要な動因かなど「社会総体のイメージ」の獲得のための日々の研鑽を吉本さんが心掛けていたからである。手品でも才能でもないのである。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 短歌味体Ⅲ 1441-1442 語音シ... | トップ | 短歌味体Ⅲ 1443-1445 新年シ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

吉本さんのおくりもの」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL