回覧板

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島尾敏雄『琉球文学論』(2017年5月 幻戯書房)メモ2017.7.1

2017年07月01日 | メモ

 島尾敏雄『琉球文学論』メモ 2017.7.1
     ―わたしの気に留まった箇所


1.
 日本語と琉球語とは、非常に近く、それの基になる日本祖語のようなものがあって、具体的にはどういう言葉であったかよくわからないわけですが、一方では日本語、つまり本州や四国・九州で使っていることばになってきており、また片方では南の島々で使っている方言になったと理解されています。 (P10-P11)


2.
 これまでの日本の歴史家の視野の中には、沖縄・奄美・先島(ひとまとめにして私は琉球弧という言葉を援用したいのですが)は、はいっていませんでした。しかしどうしても日本国の歴史の展開は、もっと広い目で見たほうがよい。琉球弧までの目配りがないと、日本列島の実態はうまくつかまえられない。 (P20)

註.
 北や南を十分に繰り込めていないこの列島の歴史というものは、奈良京都辺りの大和政権という局所系の歴史に過ぎないのではないか。そして、それは古代国家以降が中心になっている。つまり、それ以前の列島の歴史が繰り込まれていない。


3.
最近でこそ奄美という言葉で全体をあらわすことが一般的になってきましたが、しかし今から二十年前に私が奄美に行った当座は、徳之島や沖永良部島では、奄美と言っても、よそのことのような具合いでした。ここは奄美じゃない永良部だ、という気分でした。・・・中略・・・
 奄美大島という呼び方も対外的であって、島の中では奄美をはずして大島とだけ言います。総体的な名前として最近やっと奄美という呼称が定着してきました。そういう状態です。島の名前というものは、個別でも総体でも案外不明瞭なところがあるわけです。おもしろいことに、はっきりした名前がついていても、その島に住む人自体それを知らない場合もあります。戦争中、私は大島のすぐ南がわにある加計呂麻(カケロマ)島の海軍基地に九箇月ばかり居たことがありますが、年寄りに聞いても若い人に聞いても、加計呂麻という島の名前を知らなかった。じゃ、ここは何ていうんだ、と問うと、実久村(サネクソン)だとか鎮西(チンゼイ)村という返事が返ってきました。当時その島の行政区画がその二つだったからです。いくら島の名をたずねても、ちょっと信じられないことですが、知らなかったのです。ではこの加計呂麻というのは最近の命名かというと、そうではなくて、滝沢馬琴の『椿説弓張月』にも「佳奇呂麻」というのが出てきます。加計呂麻島出身の私の妻も自分の島の名を知らなかったので、かえって私が教えた次第でした。 (P28-P29)


註.
 例えば、「奄美大島」という言葉は、外からや上からの行政区画的な視線でなければ、その区域内に住んでいた人が他の地域に移り住んだ場合に意識される言葉ではないだろうか。例えば、家族内では日頃自分たちの姓を意識することはほとんどないけれど、家族外の他人や学校や職場などの関係世界に移るとその自分の姓というものを意識させられるように。現在のわたしたちの社会状況とは違って、各集落間が余り交通がなくそれぞれが自足しているような状況ではそういう意識だったのだろう。このように現在から過去へ遡る視線には、現在からの旅装はあまり要らないかもしれないが、いくつもの段階を飛び越えていかなくてはならないからたくさんの気をつけなくてはならないことが多い。


4.
 南島のほうも、稲作が入ってきて定着するのは、本土にくらべて遅い。紀元前二〇〇年ぐらいから弥生時代だといわれて、弥生は稲作を背負っているわけですが、六世紀頃からぼつぼつ稲作が南島に入っていくのです。東北のほうはもっとそれが遅れた。しかし、根っこのところでは日本列島全体にしょっちゅう往き来があったと思うんですけれども、稲作というものが入ってきたことによって、日本列島のまん中だけがものすごく沸騰してしまったんじゃないか。そういうふうにしか、ぼくには考えられないんですがね。そういう目で、日本の歴史書なんか見ると、まん中だけで展開しているという気がしてしかたがない。 (P92-P93)


5.
 とにかくそういう東北に対して、昔の歴史の言葉でいえば蝦夷征伐、東北経営をやったわけです。それと同時に、南島経営を律令体制のときにやった。南島経営の実態は蝦夷征伐ほど大規模なものではありませんけれども、『日本書紀』とか『続日本紀』というところに、南島人が大和朝廷に服属したというか、貢物をもってきたので、それぞれ御馳走して位をやったという記事が三十何か所か出てきます。そのときの南島人というのは、タネ人とかヤク人とかアマミ人、クメ人、イシガキ人とか、かなり南島の島々の名前があがっていますね。これが南島経営です。 (P94-P95)


6.
 北はどうかというと、藤原三代を亡ぼした。平泉の藤原氏です。ミイラが中尊寺に現在でも残っています。頼朝の弟の義経が逃げこんだりしましたが、それは口実であって、実際は東北が気になってしかたがなかった。それで平泉の藤原三代あるいは四代を亡ぼすことによって、東北を頼朝は手中に収めたわけです。藤原というのは、京都の公家さんの苗字を名のって、その子孫だとは言っていますけれども、この藤原氏は蝦夷ですね。やっぱり奧六郡から出てきたんですよ。 (P96)

註.
 義経討伐のことは知っていたが、この頼朝の東北に対する捉え方は初めて聴いた。なるほどと思う。島尾敏雄、鋭い。


7.
 非常に大きなところでつかまえてみても、真中のほうでは北と南に目くばりをしているということが感じられます。ですから、歴史の上でまるきりちがった経過をたどったという気がすると同時に、そうでない、日本列島がひとつの運命共同体みたいなことになっていて、なんとかまとめようとする場合には、北と南とに或るゼスチュアをうっておかないとうまくまとまらないんじゃないかという気がします。 (P99)


8.
 その尚巴志(引用者註.中山王の「しょうはし」1372-1439)のころ、沖縄の人口は十万ぐらいだということです。 (P110)

註.
 当時の沖縄や太古は、集落や社会の規模が当然ながら現在の規模とは異なるということ。


9.
 で、「きこゑおおぎみ」というのが、ノロのいちばん最高の人ですね。これは王さまの妹がなるのが、もとのかたちです。やがて王さまによっては、自分の女房を聞得大君にしたり、自分の母親をしたりするようになったこともありますが、もともとは兄が行政をつかさどり、妹が宗教をつかさどるというかたちで、これは本土のほうでも、昔はそういうかたちがあったのだという学者がおります。 (P120)

註.
 わたしはこのことは吉本さんを通して知った。たぶん、それが政治の世界で制度化される遙か以前には、小さな集落世界の(宗教的・行政的)運営方法として慣習化していたという背景があるのだと思う。そして、なぜそういうシステムになったかは、その社会のあり方と兄-妹関係の有り様として一考を要するだろう。


10.
 八九二番に入っている、『おもろさうし』の中で一番最後に作られた「おもろ」だといわれているものがあります。一六〇九年に薩摩が琉球入りをして、琉球の王さまの尚寧王を鹿児島に連れていってしまうわけです。尚寧王の王妃が、主人が帰ってこない、そのときの、さっきのことばを使えば、「うらきれて」(引用者註.「待ちわびる、なんともいえないきもち」のこと)読んだ歌です。

 一まにしが まねまね ふけば
  あんじおそいてだの
  おうねど まちよる
 又おゑちへが おゑちへど ふけば

 これは尚寧が鹿児島に連れていかれたので、それを待っていた「をなぢやらの美御前(ミオマエ)」という王妃がおつくりになった、と「御つくりめされ候おもろ」という詞書がついています。「まにし」は北のことを「にし」という。西は「いり」といいます。奄美でも「にし」が北のことです。北のことですが同時に風のことをいう。「北風がまにまに吹くと」、沖縄で北風が吹いてくると、これは鹿児島ですからね、ヤマトのほうから風が吹いてくる。北風が吹くと「あんじおそいてだの」、「あんじ」は按司(アジ)で沖縄の大名、かならずしも本土の大名とは重なりませんが、その按司を襲う、治めるところの「てだ」は太陽。沖縄の人たちは最初「てだ」とか「てだこ」で太陽のことをいっていたのが、だんだん王さまのことをまで、「てだ」というようになった。だから「按司おそいてだ」というのは王さまのことで、自分のだんなさんのことです。「おうね」は船。「北風が吹いてくると、自分の夫の王さまが乗ってくる船が来はしないかと、待っている」それだけの歌です。「おゑちへがおゑちへどふけば」は、追い風が吹けば、を反復して「まにしがまねまね」と同様にいうわけです。
 (P151-P152)


註.「てだ」(太陽)→「てだ」(王さま)への移行あるいは二重化について。白川静も同様のことを記している。自然神から人間神への移行と二重化。ある程度推測できるけど具体的にどういう経緯でそうなったのか興味がある。

 そうすると、始めは自然神の特に重要なものだけが帝であったのが、後には河も岳もですね、星もというふうにみな帝として呼ばれるようになる。最後には自分の先祖も帝として呼ぶようになる。絶対神として特別に扱われておった帝の中に、自分の先祖たちが入ってくるのであります。 
 このようにして、神話と帝王の譜、王統譜とが結合する形になる。神話と歴史とがそこで合体するのです。日本の神話は始めからそれが合体した形で出てきている。ところが、甲骨文字などの資料によってこれを検証していきますと、まずそういう祖先の系譜とは別に神話があって、神話が次第に組織されていって、そうしてそれがついに、自分の王統譜につながる形で、絶対王朝が生まれてくるのです。こうして、中国においては、殷の王統譜において、神話が王統譜の中に組み込まれるようになりました。
 (『文字講話Ⅰ』P244 白川静 平凡社ライブラリ848)

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