回覧板

この列島の一住民からの回覧板です。

子どもでもわかる世界論、1.「わたしたち『人間』は何者でしょうか」

2017年06月10日 | 子どもでもわかる世界論

  子どもでもわかる世界論
 
   ―宇宙・大いなる自然・人間世界
 
 
 1.わたしたち「人間」は何者でしょうか
 
 
 「人間」とは何者かという問いに真正面から答えることはむずかしいので、側面から答えてみます。「人間」というものの本質をひと言で言うと、「世界」に埋もれるように生きる植物や動物 ―現在までの学問的な研究のもたらした知見を踏まえれば、このこと自体は人間も遙かな時の彼方で分かち持ってきた経験があるはずですから、その経験はわたしたちの心や身体感覚の深層に植物生や動物生として仕舞い込まれているはずです。そしてわたしたちの日常の行動や感受においてそこからの発動も加わっていると思われます。― からなぜだかわからないけれど抜け出てしまって、「人間」と「世界」とが分離された意識を持ってしまった存在を人間と呼ぶと。
 
 こうして、「わたしたち人間は……」と思い巡らせたり、言葉を語りはじめたり、書き始めたりできるのが、植物や動物とは大きく違う「人間」というものの有り様です。もちろん、すべての人間が声に出して語ったり、文字を書いて表現することができるとは限りません。しかし、そういうことができない障害を抱えている人々でも、沈黙や心の中では言葉で考えたりしているようですから「人間」として同じ「人間」的な活動をしています。
 
 
 
 けれども、この緑が好きという感じは、みんなの感覚とは、ずれています。
 みんなが緑を見て思うことは、緑色の木や草花を見て、その美しさに感動するということだと思います。しかし、僕たちの緑は、自分の命と同じくらい大切なものなのです。
 なぜなら、緑を見ていると障害者の自分も、この地球に生きていて良いのだという気にさせてくれます。緑と一緒にいるだけで、体中から元気がわいて来るのです。
 人にどれだけ否定されても、緑はぎゅっと僕たちの心を抱きしめてくれます。
 目で見る緑は、草や木の命です。命の色が緑なのです。
 だから僕らは、緑の見える散歩が大好きなのです。
 
 
 自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の心を落ちつかせてくれるし、僕が嬉しい時には、僕と一緒に笑ってくれます。
 自然は友達にはなれない、とみんなは思うかも知れません。しかし、人間だって動物なのです。僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかも知れません。
 (『自閉症の僕が跳びはねる理由』P106-P107,P110-P111 東田直樹 2016年)
 
 
 
 なぜかはわからないですが、自閉症と呼ばれる人々の感覚やものの感じ方にはこのような人間が動植物と分かれ始める前のような、人類のとっても古い感覚や意識が保存されているように見えます。わたしたちの自然に対する感覚は、その様な感覚や感受とちがって摩耗してしまっているように感じますが、わたしたちの割と無意識的な感覚や意識の古層には、同様なものが保存されているはずです。そして、わたしたちには気づきにくい通路を通ってそれらはわたしたちの深いところから湧き上がって発動しているように感じられます。
 
 付け加えると、世界の民話の出だしには、(人間がまだ動物や植物の言葉をわかっていた頃)という語り出しの定型がありますが、これが定型として存在していることは、遙か太古の人々の共通の感じ方から来ているはずです。これはおそらく人間が動植物の世界から抜け出した後に後振り返ってみた時の言葉の表現で、動植物と自分を区別していなかった段階の名残ではないかと思われます。
 
 途方もない時間の中で、自然に埋もれるように生きてきた何者でもなかった者が「人間」となり、動植物たちに別れを告げ、大いなる自然の中、自分を自然から引きはがしつつ自然と関わり合いをくり返していきます。そうして、大いなる自然に神々を見出し、その神々と対話をくり返しながら人間世界を築いていきます。たぶん集落の始まりでは人はみな平等であったはずですが、人間世界が大きくなり複雑化していくと神々は人間世界に引き入れられ、一般的には巫女やシャーマンや王を生み出し、かれらは神々と二重化(同一化)していきます。そして普通の人々から離れていきます。
 
 近代世界になって、遠い回り道をしてきたかのように、たぶん遙か太古の人間のはじまり辺りにあった平等や自由という考え方や制度が欧米を中心として新たな形で生み出されてきました。しかし、神々と人間界の権力を持つ者たちとの二重化(同一化)は、現在でも残っています。また、それと同じような意識は、わかりやすい例で言えば、スポーツ選手や歌手や芸能人などの「有名人」に対する普通の人々のまなざしや意識の中にとっても古い起源を持つものとして保存されていて、現在的に発動し続けています。
 
 わたしたちは、二度の大きな世界戦争を経験した以降の世界に生きています。その後大規模な戦争は起こっていませんが、小規模な地域紛争や「テロ」と呼ばれるような新たな戦争という形で戦争は生き延びています。このことの背景には、特に抑圧を感じている人々や集団や国家というものが、そのような戦争あるいは「テロ」という形でしか問題の根本的な解決は不可能だと考えていることになります。それを人間観でいえば、絶望の人間観だと思います。互いに相手を悪とののしり、力でしか解決できないと見なしています。幸いにもこの列島社会は、今のところそのような泥沼の地域紛争や「テロ」を免れていますが、それに至るような集団間の対立の問題などはありけっして無縁なわけではありません。同じ人間として、人間的な課題として、これらの問題を考えることはとても大切なことだと思います。そのためには、この世界内におけるわたしたち「人間」という存在の意味や有り様を奥深いところから照らし出して考えてみるという内省が大切なことだと思います。
 
 世界は穏やかな日々の中にもこういう絶望的な状況を抱え込んでいますが、そのような絶望的な状況を生み出したのも人間(集団)ですが、その絶望的な状況をなんとか少しでも良い方向につなげていこうと模索をするのもまた、人間(集団)です。現在までの血塗られた途方もない人間の歩みを振り返って、このことを信じる意外に希望というものを思い描くことはできないと思っています。

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