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『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑩

2017年04月06日 | 『1Q84』読書日誌

  『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑩


  [1章から19章まで]

  2017.4.6 物語世界ということ


 1.登場人物・語り手・作者の違いについて


 老婦人に「セーフハウス」で保護されていた「つばさ」という教団を抜け出た少女は、「セーフハウス」からいなくなっていた。その「つばさ」について教団のリーダーがホテル・オークラ本館の部屋で青豆に殺される前に語ったことがある。



 あのセーフハウスにいたつばさは実体ではなかったとリーダーは言った。彼女は観念のひとつのかたちに過ぎなかったし、それは回収されたのだと。しかしそんなことをここで老婦人に告げるわけにはいかなかった。それが何を意味するのか、青豆にだって本当のところはよくわからない。しかし彼女は宙に持ち上げられた大理石の置き時計のことを覚えていた。それは目の前で本当に起こったことだった。(17章 P365)



 物語の世界の登場人物たちは、当然のことのように他の登場人物の行動や発言の意味するものや真意を十分にわかっているわけではない。ここでは、青豆に自分のことをいくらかわかってもらうために念力のようなもので大理石の置き時計を宙に持ち上げて見せた教団の指導者の「奇跡」とそれを生み出す力について、青豆はよくわかっていない。また、この場面のつばさが「実体」ではなく「観念」のかたちと言われても青豆はよくわからないし、わたしたち読者もわからない。一方、教団の指導者はおそらくリトル・ピープルと関係するその異能の力の源泉のことはわかっているのだろう。作品世界の登場人物たちは、一般には現実世界のわたしたちの人間関係と同様な他者理解の中に置かれている。ここで「一般に」と書いたのは、この教団の指導者やふかえりは、霊能者のように普通人以上の察知力を持っている者として描かれているからである。それに対して物語世界を読み味わっているわたしたち読者は、語り手によって物語世界に対するある程度の俯瞰的な視線を持ち得ている。つまり、わたしたち読者は、個々の登場人物以上のことがわかっていることになっている。

 わたしたちは物語作品をシームレスな虚構の世界として自然なものとして読み味わっている。しかし、物語の世界がわたしたちの現実の世界と異なるのは、語り手や作者がいるということである。作者は普通は物語世界の背後に控え、作者によって物語世界に派遣された語り手が、登場人物たちの内面に入り込んだり外面から描写したりして物語世界の動きを伝える。つまり、物語世界は、個々の登場人物たちの方から見渡せば、作者や語り手の遠くまで見渡す力や物語の未来を見通す力をまるで超能力のように秘めている世界と見えている、感じられている、と見なすこともできる。

 青豆は今や、この物語世界の始まりの時点から「大小ふたつの月が空に浮かぶこの世界に、この謎に満ちた『1Q84年』に私は引きずり込まれてしまった」と気づいている。この物語世界の登場人物としての青豆は、現実世界でわたしたちが日々生きるように、様々な問題に対処していく。不明なことはこのように探索していく。ただ現実世界でわたしたが日々の生活することと登場人物である青豆の行動が少し違う点は、登場人物である青豆が知らない間に語り手や作者によって自分の行動をそそのかされたり、制御されたりしているということである。もちろん、それは登場人物にとっては、物語世界の外の天から降りてくることであり、自覚しようのないことである。

 ここで、さらに内省を加えてみると、先に「少し違う点」と述べたけれど、もしかするとわたしたちの日々の生活も個の自由意志による個の固有の選択の連鎖と見なせる面もあるが、登場人物である青豆の場合と同様に現在の社会や社会システムの繰り出してくる「マス・イメージ」などによってわたしたちは行動をそそのかされたり、制御されていると見なせる面もあるように感じる。そのもっともわかりやすい例は、広告産業による「マス・イメージ」が日々私たちの身近に押し寄せていることである。

 ところで、そのようにして青豆は探索する。



 『空気さなぎ』は世間の人々が考えているように、十七歳の少女が頭の中でこしらえた奔放なファンタジーじゃない。いろんな名称こそ変えられているいるものの、そこに描写されているものごとの大半は、その少女が身をもってくぐり抜けてきた紛れもない現実なのだ ― 青豆はそう確信した。(19章 P418)


 いずれにせよ、 『空気さなぎ』という物語が、大きなキーになっている。
 すべてはこの物語から始まっているのだ。
 しかし私はいったいこの物語のどこにあてはまるのだろう?
 ・・・中略・・・
 彼女は目を閉じ、考えを巡らせる。
 私はたぶん、ふかえりと天吾がこしらえた「反リトル・ピープル的モーメント」の通路に引き込まれてしまったのだ。そのモーメントが私をこちら側に運んできた。青豆はそう思う。ほかに考えようがないではないか。そして私はこの物語の中で決して小さくはない役割を担うことになった。いや、主要人物の一人と言っていいかもしれない。
 青豆はまわりを見回した。つまり、私は天吾の立ち上げた物語の中にいることになる、と青豆は思う。ある意味では私は彼の体内にいる。彼女はそのことに気づく。いわば私はその寝殿の中にいるのだ。
(19章 P421-422)



 登場人物の青豆は、自分が考えを巡らせ、自分の考えや意志で自分が行動していると思っているだろう。しかし、上の引用部分で、会話あるいは独白としてのかぎ括弧が無いせいもあるが、「私」、「彼女」、「青豆」など、入り乱れた文章になっている。青豆の独白や行動を描写するのは語り手なのであるが、それらが入り乱れた状況は、青豆が語り手や背後の作者の意向と深いつながりにあることを示唆していると思う。しかも、青豆が自認しているように、物語の「主要人物」ならなおさらその傾向が強いだろう。裏を返せば、上の青豆の考え巡らせたことは、語り手や作者の考えやイメージが貫徹されたものでたぶんこの物語世界では正しい把握に違いない。

 青豆が読む『空気さなぎ』の内容によってリトル・ピープルのことや教団のことが明らかにされていく。わたしたち読者の前にも、いろんな事情が明らかにされていく。しかし、まだまだ「1Q84年」の世界は靄に包まれている。



 2.「文体」について再び


 青豆の一時的な身を隠すホテルに老婦人のスタッフが新刊書もいくらか用意してくれていて、そこにあのふかえりという著者名の『空気さなぎ』という本もあった。読書日誌 ⑥で、一度「文体」ということに触れた。次の文章も「文体」についての描写と言えるだろう。



 そして本の匂いを嗅いだ。新刊書特有の匂いがした。その本には名前こそ印刷されてはいないけれど、天吾の存在が含まれている。そこに印刷されている文章は天吾の身体を通り抜けてきた文章なのだ。彼女は気持ちを落ち着けてから、最初のページを開いた。(17章 P378)



 青豆には、ふかえりのような研ぎ澄まされた宗教的な直感力というか霊能者のような見通す目は持たないようだから、『空気さなぎ』を天吾が書いたということは同じくそのような力を持つ教団の指導者が殺される前の対話で教えてくれたのだったか、わたしの記憶ではよくわからない。ともかく、「天吾の身体を通り抜けてきた文章」という青豆の認識には、文章の特色というものはそれを書いた人(作者)の固有性が織り込まれたものである、というような捉え方がある。人の仕草や表情にその人の固有の「性格」というものが表れるように、文章にも書いた人(作者)の固有性が表れているということになるだろう。そうして、このような「文体」観はアジア特有のもののような気がする、あるいは、少なくともこの列島特有なものである。これに対して、推測的にしか言えないが、欧米の「文体」観は、修辞や表現の形式などの形式的な面を指しているように思われる。



 最初の十ページばかりを読んで、青豆はまずその文体に強い印象を受けた。もし天吾がこの文章を作りだしたのだとしたら、彼にはたしかに文章を書く才能が具わっている。・・・中略・・・
 あるいは天吾は彼女の語り口をただそのまま文章に移し替えただけなのかもしれない。彼自身のオリジナリティーは文体にそれほど関与していないのかもしれない。しかしそれだけではあるまいという気がした。その文章は一見したところシンプルで無防備でありながら、細かく読んでいくと、かなり周到に計算され、整えられていることがわかった。書きすぎている部分はひとつもなかったが、それと同時に、必要なことはすべて書かれていた。形容的な表現は切り詰められているものの、描写は的確で色合いが豊かだった。そしてなによりもその文章には優れた音調のようなものが感じられた。声に出して読まなくても、読者はそこに深い響きを聞き取ることができた。十七歳の少女がすらすらと自然に書けるような文章ではない。(19章 P396-P397)



 前の引用よりも「文体」というものの周辺がもっとこまかにたどられている。青豆は十七歳のふかえりがディスレクシア(読み書き障害)であることはわかっていない。「あるいは天吾は彼女の語り口をただそのまま文章に移し替えただけなのかもしれない。」というように『空気さなぎ』という作品を読むことによって書かれた様子を想像するほかない。しかし、もちろんそこには語り手という存在によって語られることにより作者や語り手の意向も無意識のように働いたり付加されたりして青豆が描写されていると思う。

 ここでわたしのふと思い付いたことがある。このふかえりが語り、天吾がそれをもとに文章化して『空気さなぎ』という小説ができあがったということから、『古事記』というものの成り立ちを連想した。作者はどこかでそのような神話性を意識していたのではないだろうかと思う。

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