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子どもでもわかる世界論のための素描― 0.ひとことで言えば

2016年03月24日 | 子どもでもわかる世界論

 子どもでもわかる世界論のための素描
  ―宇宙・大いなる自然・人間界論
 
 
0.ひとことで言えば
 
 
 老いというものも境界や性格が不確かなものになり、そういうことは不可能に近い、難しい時代(段階)になってしまいましたが、太古の小さな集落の長老たちが青年や子どもたちに語るように、この世界の成り立ちと有り様とその下のわたしたち人間の生きることについて語ってみたい誘惑に駆られることがあります。もちろんまずは、「こうではないだろうか」「そうかもしれないね」というような自己対話として。そのことが同時に子どもでもわかってくれるような言葉であればいいなと考えています。
 
 現在から見渡せば、人間が、他の動物たちとの違いにめざめたり自然に対する意識のようなものが芽ばえたりして大いなる自然に自覚的に関わり合う中から、初源では吹けば飛ぶようなちっぽけなものであったとしても、人間は防壁のようにこの大地に人間界を築き、神々や神話を生み出し、次第に高度で複雑な社会を構成するようになってきました。
 
 この人間界においては、動物たちとはずいぶん違って、自分の手足を動かしたり知恵を出したり、出し合ったりするというような、互いに関係を結び、人間力を働かせること、つまり、〈自力〉は不可避のものだと見なされてきましたし、不可避なものとして日々行使されています。この人間界では、大人になって社会に出て行けば、現在では特に〈自力〉中心の世界になってしまいます。けれど、生まれて間もない赤ちゃんは生きていく上で親に頼らざるを得ません。動物と違って、人間の場合は〈自力〉で生きていくまでは、親や家族という〈他力〉の下の生活をせざるを得ない時期も持っています。さらに、わたしたち人間は社会というものを生み出し、そこに関わり合いながら生きていくというようになりました。その社会というものの本質は、人間力の生み出したもので、相互扶助としてわたしたちを助ける〈他力〉に当たります。
 
 また〈自力〉中心の世界にも、一方に人間が動物生の段階にあった時の名残でしょうか、動物たちのように気ままそうにのんびり何も考えないように過ごしたい願望も潜在しているように見えます。付け加えれば、こういう願望や内省は、人間界の主流の流れへの軌道修正力として働くように思います。というのは、人類史は、人間がよりよい生き方の理想を追い求めてきた一方には、邪悪と呼ぶほかないような、人間性由来の社会や国家を貫いてきた権力や支配という負の共同性とも言うべきものの存在と歴史が今なおあるからです。はじまりにおいては、仕組みや組織を生み出したのはおそらく良いことをもたらすつもりが、人間性が集団の中で振る舞う中に誰にも湧き上がり得る邪悪さにねじ曲げられてきたということだと思われます。
 
 人間界の防壁を超えて見渡してみると、ちょうどわたしたちがなぜこの世界に生まれ落ちたのかについて、今では医学的な理由は明らかだとしても、なぜか何かふしぎな部分が残るように、この宇宙の下のわたしたち人間の存在というものもそれ以上にふしぎな思いに捕らわれます。この宇宙の下のわたしたち人間の存在というものを考えてみるとき、まず湧き上がってくる言葉は、先の赤ちゃんの時期と同様な〈他力〉という言葉です。人間がどんなに高度で複雑な社会を築いてきたとしても、太古よりは人間の科学力も高度化して、よりはっきりと、より深くこの世界や宇宙を探査できるようになったとしても、また人間は人間界では〈自力〉中心にしか見えないとしても、宇宙という側から人間を眺めたら、この宇宙の微少な点のような所に偶然のように生まれたということをイメージしただけでも、人間という存在は〈絶対他力〉の存在、別の言い方をすれば、この世界の根幹に対する〈根源的な受動性〉を刻印されていることになります。
 
 動植物もわたしたち人間も、限られた短い時間しかこの大いなる自然の中に生きて過ごすことはできません。現代の知見では、枯れたり死んだりしたら太古の輪廻転生の生まれ変わりとは違って、この宇宙内の物質として還元されます。それでも、動植物もわたしたち人間も、うんざりしてこの世界からすぐに立ち去ることなく、この世界の日差しを浴び大気を呼吸しながら、日々の慌ただしい生活に埋もれるようにして、その裏面では限られた生涯を味わいながらその意味をたどるような旅をします。現在の動植物もわたしたちも、ともにその旅の途上にあると言えるでしょう。宇宙の下人間界に生きるわたしたち人間は、〈絶対他力〉と〈自力〉の二重性を生きています。普通は人間社会での日々の生活に重力の中心がありますから、〈自力〉中心の世界に見えますが、ふと自分を振り返ったりするときなど、この世界の底の方に潜在している宇宙の下の人間という〈絶対他力〉と出会うことになります。そして、そのようなわたしたち人間の遙か太古からの歴史の主流は、まずは人間や人間社会のよりよいあり方をイメージし追い求めながら、この世界に日々生きて在ると言えると思います。そして、余力は、仏教の慈悲のように人間以外の動植物たちにもその力を贈与すればいいのだろうと思います。
 
 現在から、例えば輪廻転生や雨乞いや生け贄などの遙か太古の人々の考え方や振る舞いに、迷妄(「道理がわからず、事実でないことを事実だと思い込むこと。」)と見なすことがあります。しかし、それはあくまでも〈現在〉からの視線であり判断になります。これと同型のことは、遙か未来から現在を見た場合にも同じような迷妄ということがあり得るように思われます。意図的な作為や隠蔽ではなく、その当時の世界探索と世界理解の最高の水準としてあるならば仕方のないことでしょう。それと同じことは、〈現在〉においてもあり得ることです。ただ、遙か人間の始まりから現在に到るまで、いかに多くの血を流してきたとしても、人間がよりよい生き方を目指して歩んできているという点では同一の、大きな歴史の主流を流れてきているように見えます。
 
(※ 先のはっきりした当てや構想があるわけではありませんが、近年考えてきたことを少しずつ文章にしてみようと思っています。)


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